【未明の家 建築探偵桜井京介の事件簿】 篠田真由美   登場人物(年齢は一九九四年五月時点) 遊馬《あすま》 歴《わたる》──故人 遊馬 灘男《なだお》──歴の息子、スペイン文学研究者(51) 遊馬 明音《あかね》──灘男の妻、株式会社アカネ社長(48) 杉原《すぎはら》 静音《しずね》──明音の姉、杉原学園学長(50) 遊馬 蘇枋《すおう》──灘男の長女(23) 遊馬 朱鷺《とき》──灘男の次女(21) 遊馬 珊瑚《さんご》──灘男の三女、杉原学園短大二年(19) 遊馬 理緒《りお》──灘男の四女、W大学文学部一年(18) 蔵内《くらうち》 哲爾《てつじ》──歴の使用人(72) |醒ヶ井《さめがい》 玻瑠男《はるお》──遊馬家出入りの不動産業者(50) 雨沢《あまさわ》 鯛次郎《たいじろう》──新聞記者(28) 桜井《さくらい》 京介《きょうすけ》──W大学文学部大学院生(25) 蒼《あお》──京介のアシスタント(15) 栗山《くりやま》 深春《みはる》──京介の旧友、W大学生(25)   プロローグ  一九九四年のゴールデンウィーク明けのこと。  東京、新宿区にある某私立大学の文学部キャンパスに、より正確を期するならその中庭と呼ばれる空間に面した柱の一本に、右のような一枚のビラが出されていたことに気づいた者は、学生でも職員でもほとんどいなかったに違いない。  それはB5の白紙にワープロで打たれた、へんてつもない張り紙でしかなかった。しごく無雑作に、左右が少し曲って貼られているうえに、ガム・テープの端はもうはがれかかっている。あと半日もすれば風に巻かれて、飛んでいってしまったかもしれない。  だが、その前で足を止めた者はいた。たったひとりではあったが。そして張り紙は確かに、それを必要としていた者のところに届いたのだった。   馬に乗る少女    1  蒼《あお》が勢いよくドアを開けたとき。──  目の前に立っていたのは、どことなく古風なふんいきの美少女だった。  まっすぐな黒髪の、古風で日本的な。といってもそれはたとえば、前髪を目の上で切りそろえた市松人形のようなタイプ、とかでは全然ない。化粧けのない色白の顔に、濃い眉がふたすじ、きりっと引かれている。切れ長な一重まぶたの目も、まなじりが上がっていかにも勝気そうだ。 『少女剣士』。藍染《あいぞ》めの稽古着に竹刀を持たせたら、なによりぴったりしそうな。そんな連想がたちまち蒼の胸に浮かぶ。長い髪を頭の後ろできつくポニー・テイルに結んでいるのも、よけいそうした印象を強めているかもしれない。  ノックをする前に開けられた扉に驚いたように目を見張った彼女は、だが蒼がどなたですか、と尋ねるより早く口を開いた。 「あの、神代《かみしろ》研究室ってこちらですか?」 「そうですよ」 「桜井さん、いらっしゃいます?」 「ワオ!」  思わず歓声が口から飛び出す。 「それじゃあなた、あの張り紙見たんだ!」  あれを作って貼ったのは蒼なのだ。たとえ冷やかしの来訪者でも、なんの反応もないよりははるかにいい。ところがうなずいた美少女は真剣そのものだ。冷やかしなんかじゃないことは、それだけではっきりわかる。こちらも思わず表情を改めて、どうぞお入り下さいといおうとして、あっと思う。 (まずい……) 「ちょっ、ちょっと待ってて下さいね。すぐだから」  それだけいって部屋の中に駆けこんだ。 「京介ッ、お客、お客、お客さんッ!」  返事はない。だがもちろん彼はいる。例の広告の当事者、桜井京介は。  一枚ガラスの窓を背に、この研究室の本来の所有者である神代教授の机に向かって、眠っている。いとも心地よげに、ぐっすりと。  あわててその肩を揺すりにかかる。とうてい初対面の人間に見せたい姿ではない。なにせ愛用しすぎて灰色になった白衣の背中に陽が射して、しばらく床屋にごぶさたの伸びた前髪がころあいのアイ・マスクでは、ほとんどムク犬の昼寝という格好だ。おまけに机の上に広げられているのが研究書でもノートでもない、作りかけのジグソウ・パズルというざまなのだから…… 「起きろ、京介。何時だと思ってるんだよ。このやろー、寝穢《いぎたな》いにもほどがあるぞッ!」  しかし遅かった。待ちきれなかったらしい美少女は目隠しの本棚をあっさり突破して、もう蒼のすぐ後ろに立っていた。その目がさっきよりさらに大きく見開かれて、机に突っ伏した桜井京介の寝姿をまじまじと見つめている。 (あーあ……)  蒼は天井に目を向けてため息をついた。 (ぼくのせいじゃないよっと──)  それでも蒼はがんばった。せっかく来てくれた最初のお客を、みすみす逃がしてしまう手はない。半分眠ったままの京介を洗面所に追い立てると、椅子を勧めておいて自分は給湯室に飛んでいき、大至急コーヒーをいれる。無論インスタントなんかじゃない。さすがにネルドリップとまではいかないが、幸い豆は挽《ひ》き立てを買ったばかりだ。カップも奮発して神代教授の秘蔵品、彼が昔フィレンツェで買ってきたというリチャード・ジノリのフルーツ柄を使ってしまう。  戻ってみると幸い美少女は、まだ逃げ出していなかった。きちんとそろえたスリム・ジーンズの膝にブックバンドで束ねた教科書を載《の》せて、不揃いなスツールのひとつにやけに姿勢良く座っていた。  一人用の研究室に接待スペースはないから、コーヒーを勧めるにしてもデスクをテーブル代わりに使うよりない。目障《めざわ》りなパズルはばっさり崩して箱の中にさらいこみ、後をダスターで一|拭《ふ》き。カップにソーサー、スプーンもそえてきちんとセットする。 「はい、どうぞ。冷めない内に飲んでね。豆は正門前W茶房のマイルド・ブレンドだよ。お砂糖とクリームはここ。でもぼくとしては、せめて一口はブラックで味わって欲しいな」  彼女の隣のスツールに腰を降ろして、自分の分のカップに口をつける。よし、だいじょうぶ。あわてていれたわりには、香りもちゃんと立っている。 「あの……」  素直にカップを取り上げた美少女は、しかし飲もうとした手を止めて、ためらいがちに口を開く。 「ごめんなさい、おじゃましてからこんなことを聞くのは変かもしれないけど。あの張り紙はつまり、大学の人がアルバイトに建築相談をしますってことなのよね?」  そう聞きたくなるのは無理もない。さっきからの様子を見ていて、心配にならない方がむしろ変だ。これは顔だけじゃなくて頭もいい、それもなかなかしっかりした子だぞ。蒼はうなずいて、にっこり笑ってみせる。 「うん。それじゃいまの内に、いちおう説明しておくね。いまここで寝てたのが桜井京介っていって、専門は近代日本建築史なの。例の張り紙を作ったのはぼくなんだけど、アルバイト半分で研究半分ていうかな。文献調査ばっかりしててもつまらないし、かといってすでに有名な大建築じゃ実地に調査もそうできやしないでしょ。おまけに学界っていろいろ縄張りがあって、うるさいらしいんだよね。勝手なことできないっていうか。廃墟みたいな建物でも、これ調査してみたいなあなんて思うと、そこは某大学の何々研究室がやることになってるから手ェ出すな、なんていわれちゃったりしてね。  あと、西欧だと建築史の研究者って美学の方から出るらしいんだけど、日本ではどうしてだか理工学部建築科の中に含まれちゃう。京介は美術やって建築史だからいうなれば少数派でさ、そのへんでもやりにくいとこあるみたいなんだ。それに理工の実測調査っていうと完全なグループ作業になるから、よけい個人の勝手はきかないし。──って、まあいろいろあって、個人所有の小さな住宅やなんかで、調査のノウハウをこつこつ勉強してみたいってとこかな。少なくともお金儲けのためじゃないから、そのへんは安心してね。  ええとそれから、この研究室の主は神代|宗《そう》っていって、文学部の美術史の先生で京介の指導教授なんだけど、今年はヴェネツィア大学の方に四月から一年の予定で出かけちゃったんだ。で、彼は教授公認の留守番で、ぼくはそのアシスタントってわけ。名前? みんな蒼って呼ぶよ」  少女の目がますます大きく丸くなる。そうしていると初めのきつい感じが薄らいで、いっそあどけないとでも呼びたいような顔だ。 「あの、アオ……くん?」 「うんッ」 「あなた、まだ大学生じゃないわよね」 「もちろんさ。今年で十六だもん」 「私も一ヵ月前に学生になったばかりだけど、この大学って、助手の人にあなたみたいなアシスタントがつくのがあたりまえなの?」  答える代わりに蒼は思わず吹き出している。まさにぴったりのタイミングで、話題の本人が部屋に入ってきていた。 「そんなに老けて見えますか、僕」  首にかけたタオルで顔をぬぐいながら、彼はぼそぼそとつぶやいた。 「これでもまだ修士の三年で、二十五なんですけど──」    2  午前中の桜井京介は人間ではない、蒼をしていわせるならそういうことになる。これでも今日はちゃんと自分の足で洗面所まで行って帰ってきたのだし、口もきけば目も開いているのだから大したものだ。といっても他人があっさり納得してくれるとは限るまい。  身長は百八十以上あるはずだが、姿勢が悪いのとやせすぎているせいでとてもそうは見えない。よっこらしょっと口に出さないのがまだしもの爺むさい仕草で、教授の椅子に腰を落とす。顔の三分の二は相変わらず、垂れ下がった髪の毛の中だ。髭《ひげ》のない顎《あご》と口元と鼻の先だけが、下から辛うじて覗いている。  その頭を片手でぐしゃぐしゃと掻《か》き回しながらため息をつく。のろのろと白衣のポケットを探ってメタル・フレームの眼鏡を取り出し、タオルの端でぬぐって前髪の下に押しこむ。引き寄せたコーヒー・カップに口をつけて一気に呑みこむと、またため息をついて頭をぶるっと一振り。それで果たして彼の目が覚めてきたのかどうか、なにせ顔が見えないのだからなんとも判断のしようがない。  だが美少女は机の向こうで、辛抱強く待ち続けていた。京介の一連の身振りがとぎれたところで、思いきったように口を開く。 「私、第一文学部一年の遊馬理緒《あすまりお》といいます」 「あすま、りおさん」  ぼおっとした口調で、それでも京介は応じた。 「姓は遊ぶ馬で『あ・す・ま』、名前は理科の理に糸偏に者の緒で『り・お』です」  どちらもあまり通りのいい名ではないから、文字の説明は口癖のようになっているのだろう。それにしても少年めいた彼女の顔立ちに似合う、きびきびと歯切れのよい口調だった。無精たらしく片|肘《ひじ》をついてそれを聞いていた京介が、いきなり尋ねる。 「では、あなたの父上はスペイン文学の遊馬|灘男《なだお》さん?」 「──よく、おわかりですね」  理緒は驚いたようだった。 「スペイン文学、お好きなんですか?」 「どこかでお名前を拝見して、印象に残っていたようですね」 「でも、それだけで?」  理緒の不審は当然だ。いくらあまりない姓だとはいえ、後はあてずっぽうでは大して気のきいたせりふとはいえない。 「それにあなたの名、スペイン語の河《リオ》からつけられたのでしょう?」 「あ、ええ。──そうです」  理緒は大きく目を見張ってうなずいた。色白の頬に淡く血の色が昇ってきている。目の前の男を、少しは見直す気になったかもしれない。 「でも私にこの名前をつけてくれたのは、父ではなくて祖父なんです」 「──ねえ京介、彼女はぼくの作ったビラ見て来たんだよ」  そばから蒼は口を挟んだ。せっかく相手が好意的なふんいきになってきてくれたのだ。さっさと本題に入るに如《し》くはない。幸いなことに彼女は、当初の用件を切り出す気になってくれたようだ。 「ええ。それが、伊豆なんですけど、その祖父が昔建てた別荘があります。たぶん学問的な価値とかでいえば、全然大したものではないのだと思います。けれど去年祖父が亡くなって、半年も経たない内に──」  理緒は呼吸を整えるように、一度ことばを切った。 「母が取り壊すといい出したものですから、私、それがどうしても嫌で、それで」 「ちょっと失礼。──蒼」 「はいよ」  蒼はすかさず立ち上がって、背後の書架から出した本を机に置く。画集くらいの大きさのずっしりと持ち重りのする一冊だが、開いた中は絵でも写真でもなく、ページいっぱいに文字のリストが続いている。 「その建物の住所はわかりますか?」 「静岡県の東伊豆町、電車だったら伊豆急行の熱川《あたがわ》で下りるんですけど」 「ああ、あった。これだ」  京介は開いた本をぐるりと回してよこす。ひとさし指がページを埋めたリストの一行を示している。幸い爪は伸びていなかった。 「遊馬家別邸、加茂郡東伊豆町奈良本、S9、RC1、あとはブランク」  脇から覗きこんで、蒼はリストを横に読み上げる。 「建築年は昭和九年、鉄筋コンクリートの平屋で、設計、施工者は不明ってことだよ。でも備考欄に『スパニッシュ?』って書いてあるね。スペイン風の別荘なの?」 「スペイン風っていうのかしら。ざらざらっとした白塗りの壁で、庭に向かってポーチがあって」 「屋根はどんなの?」 「瓦《かわら》。でも普通ある黒いのじゃなくて、煉瓦《れんが》みたいな色の」 「鉄細工の吊りランプとか、タイル張りの中庭とかは?」 「──あるわ」 「わお、本格だねえ」  そういわれても理緒はピンと来ないようだった。むしろ広げられた本の方を、珍しそうに眺めている。表紙のタイトルは『新版日本近代建築総覧』とあった。 「これ、西洋館のリストなんですか?」 「まあ、そうです。明治から戦前までに建てられた日本全国の洋風建築、その主要一覧。戸籍謄本みたいなものですね。日本建築学会の労作ですよ」 「見せていただいて、いいですか?」 「どうぞ」  ぱらぱらとページをめくって見る。北海道から始まって南へ、日本全国の建築を地域別に整理したリストだ。ただ写真や解説は各地方の頭にほんの三、四ページあるだけで、あとはすべて文字の羅列。それもひとつひとつについてはたった一行ずつ、整理番号、建築名、所在地、建築年、『木2(木造二階建て)』とか『煉1地1(煉瓦造平屋地下一階)』とかいった記号のような表示、設計者、施工者、あとは備考欄があるだけだ。名前は上げられていても素人目には、それが具体的にどんな建築かなど全然わからないだろう。その簡単な記載項目さえ、満足に埋まっていないものが多いのだ。 「ずいぶん簡単にしか書いてないんですね」 「そうですね。だけどこれで一万三〇〇〇件ありますから、ひとつひとつにはスペースが割けなくてもしかたないでしょう」  どうやらやっと目が覚めてきたらしい。京介の口調が次第になめらかになってくる。 「それに調査といっても役所がしたわけでもなし、なんの強制力があるわけでもない。持ち主にお願いして見せてもらうわけですからね。現在も使用している住宅やなにかだと、敷地にも入れてもらえないことだって珍しくはなかったろうと思いますよ」 「ああ──」  理緒は大きくうなずいている。 「祖父が生きていたら、きっと調査なんてお断りだっていったと思います」 「その方《かた》が、件《くだん》の建物を建てられた?」 「ええ」 「お名前は?」 「遊馬|歴《わたる》、歴史の歴って書いて『わたる』と読みます。字の方は、雨かんむりをつけることもあったようです。去年、八十六歳で死ぬまでそこに住んでいました」 「ご夫人とですか」 「いいえ。祖母はずっと以前に死んでいて、ただ昔から身の回りをみてくれていた蔵内《くらうち》さんという男の人と暮していました」 「その後は空家に?」 「ええ──」 「で、今年になってその処分話が持ち上がった」 「ええ。それも決してお金に困ってとか、そういうことではないんです。うちの場合、経済的にはなんの問題もありません」  固い表情で彼女はことばを続けた。 「なのにリゾート・マンションを建てたらどうだなんて話が持ちこまれたら、──母も、姉たちもすっかり乗り気になっているんです」 「遊馬灘男氏はどうなんですか」 「父は、なにを考えているのかよくわかりません。それにいまは、少し体を悪くしていて」 「しかしあなたは反対している」 「ええ、絶対に!」 「お祖父様の思い出のため、ですか?」  問われて理緒は、虚を突かれたような顔になった。 「厳しい老人でうちの方々とはあまりうまくいってなかったが、なぜかあなたのことだけはとても可愛がってくれたし、あなたも彼が好きだった。その彼のために、彼が若かりし日々を送ったスペインへの追憶をこめた家を守りたい。だからなんですね」 「どうしてわかるんですか、そんなこと」 「そんなに驚かないで下さい、ちょっと考えただけのことなんですから」  京介の口元が照れたように少し笑う。目まで笑っていたかどうかは、髪の陰になっていてわからない。だが蒼が驚いたのは、理緒の反応だった。固く強ばった顔からは、はっきりと血の気が引いている。なにかから身を守ろうとでもいうように、教科書の束を胸に抱きしめ、スツールから半ば立ち上がっていた。 「でも私、家族の中のことなんてまだなにもいっていません。桜井さんは父の名も知っていらしたし、もしかしたら前もってどこからか聞いておられるのじゃないですか、私の家のこと」 「どこからかって、どこからです?」 「知りません。でも、そうでなかったらどうしてわかるんです、そんな祖父の経歴のことまで──」  たったあれしきのことばでなぜ彼女がそうまで強い反応を示すのか、蒼には無論理解できない。だが理緒が心底、怯《おび》えていることだけは確かだった。全身の筋肉がひどく不自然にすくんでいる。罠《わな》にかかった仔兎《こうさぎ》のように、見開かれた目が落ち着きなく動く。あとなにかひとこといわれれば、それきり後も見ずに飛び出していってしまうのではないか。しかし次に京介が口にしたのはおそらく、理緒が予想もしなかったことばだった。 「遊馬さんは、ジグソウ・パズルはやったことはありますか?」  蒼が床に降ろした箱をまた机に上げると、蓋《ふた》を取っていっぱいのピースを見せる。 「──いいえ。私そういうの、全然駄目なんです」  理緒は青ざめた顔を微かに左右に振った。 「僕もやってみるまでは、これほどおもしろいとは思いませんでした。ひとつ完成させたらまたすぐ次がやりたくなる、というほどではないが、やっている間はつい夢中になってしまう。たとえばこのピースを見て、これが完成図のどこにはまるかわかりますか?」  京介は無雑作に箱から取り出した一片を、蓋に印刷された絵の上に載せて理緒の方へ押しやる。図柄は『マダム・ポンパドール』、十八世紀フランスの肖像画だ。深緑にピンクの薔薇《ばら》を散らしたドレスの貴婦人が、画面いっぱいに描かれている。背景はかなり暗い茶の濃淡で、豪華な時計を載せた本棚らしいものが、影のようにぼんやりと浮かんでいる。どうやら婦人の背後にあるのは大きな壁鏡で、時計や本棚はそこに映ったおぼろな映像なのだ。一方その上に置かれた、例の人形めいたかたちのジクソウのピースは、ほとんど平らな茶色でしかない。 「確かジグソウ・パズルって、色で分けてあとはピースのかたちで探すんだって聞きましたけど」 「ええ、まずさっき僕がやりかけてたみたいに、縁のピースを全部出して周囲だけを組んでしまったら、残りは色で分類します。そしてこれがもっと単純な、たとえば日の丸かなにかだとしたら、赤と白の境目を組んでしまえば、後はただひとつひとつかたちで試していくしかなくなりますね。パズルとしてはその方が難度が高いわけですが、僕はそういうものには興味が持てない。このピースにしてもよく見れば、隅の方に薄くしみみたいに色の変わったところがあるでしょう?」  いわれて理緒はうなずいたが、ますます途方にくれた顔になる。 「印刷のむらみたいに見えますね……」 「そのむらと同じものが絵の中のどこにあるか、それを探すわけなんです。目を皿のようにして、ひたすら原画を見つめてね」 「でもこの箱の絵って、出来上がりよりはずっと小さいし」 「そう。そこが難しいところなんですよ」  京介のやろうとしていることがわかったので、蒼は協力することにした。普段はジグソウに手を出すことはない。映像に関しては蒼の目は特別製で、この程度のものでは簡単すぎておもしろくもなんともないからだ。  箱の中を指先でかきまぜると、断片の中に原画が透けて見える。京介の取り出したピースの続きが、生き物のように目に飛びこんでくる。鼻歌まじりに机の端で組み始めた。理緒が驚いたように手元を見つめている。浮び上がってきた図柄はローマ数字の文字盤を持つ時計と、かたわらに肘をついた小天使の彫刻だ。そこまでできればそれが、貴婦人の右肩の背景にあるものだとは一目瞭然だった。 「そのピース、ちょうだい」  理緒から受け取った一片がその端にパチンとはまる。彼女は小さく声を上げていた。ただのしみとしか見えなかった色の薄い部分が、小天使の伸ばした腕の一部になったのだ。 「ねえ、不思議でしょう?」 「ええ、ほんとうに」  子供のように大きくうなずいている。正しい場所にはめこまれたピースをもう一度取り上げてみても、いまはもうその薄い部分は天使の腕に見えるのだ。ジグソウをするのが初めてなら、魔法でも見せられた気がするに違いない。 「たったいままではまったくの<無意味>としか思えなかったピースの色模様が、正しい位置を得たとたんに<意味>を回復する。この劇的な転回が快感なもので、ついつい毎度夢中になってしまうんです。<無意味>な断片の集積から<意味>を復元する作業。いや、こういった方がいいかもしれない。それが<無意味>に見えるのはただ正しい位置を得ていないからだ、そのあるべき場所を発見できればすべては<意味>へと繋《つな》がっていく。──それと同じことなんですよ、さっきのも」  話の繋がりが見えなかったのだろう、理緒はぽかんと相手を見返した。 「人間は通常の会話では、論文を読み上げるような話し方はしません。意識的にせよ無意識の内にせよ、直接口に出すことばというのはごく部分的で断片的なものです。けれどその断片を繋ぎ合わせ、また口にされなかった部分をおぎなうことで、より大きな構図というか<意味>を浮び上がらせることは可能です。ジグソウのピースを集めることで、ただの色むらがひとつの絵になるみたいにね」 「それじゃあほんとうに桜井さんは、私のしゃべっただけのことで祖父の性格まで言い当てられたんですか?」 「だって遊馬さんはもうずいぶん、たくさんのことを話してくれましたよ」  そういいながら京介は、数を数えるように右手の指を立ててみせた。 「──遊馬歴氏は去年八十六歳で亡くなられた。昭和九年、すなわち二十七歳のとき熱川にスパニッシュ・スタイルの家を建てられた。孫娘のあなたにスペイン語にちなむ名をつけた。ご子息の家族とも離れ、ひとりで、というか使用人とふたりだけで死ぬまで一軒家に住んでおられた。  この事実から容易に推測できるのは、彼のスペインに対するひとかたならぬ思い入れ。同時に自分の建てた伊豆の家に対する非常な愛着。しかしそれだけではなく、ご家族との関係があまりうまくいっていなかったのではないか。そのために同居を拒んでおられたのではないか、ということは経済的な必要もないのに取り壊しに乗り気だという、あなたの母上たちの態度からも推し量れるようです。バブル華やかなりし数年前ならともかく、この不景気な時代にリゾート・マンションなんて、あまり食指が動くとも思われませんからね。  だが歴氏自身に問題がなかったわけではない、というか彼はそもそもあまり人づきあいの好きな方ではない、いわゆる狷介《けんかい》な性格の老人だったらしいというのは、あなたが『家の調査など断ったろう』と即座にいわれたことからも推察されます。そして事実建築学会の人は敷地の立ち入りも許してもらえなかったのだろう、というのは備考欄のクエッション・マークからもわかりますね。伺った話からして別荘は顕著な様式的特徴を具《そな》えている。とすれば外観だけでも一目なりと見られれば、『スパニッシュ』と断定するのはたやすかったでしょうから。  しかしあなたはひとりで取り壊しに反対している。といって特に古い建築にご興味があるから、というのでもないらしい。ということはあなたと彼の間には、ほかのご家族にはない交流があったのではないか。彼は末の孫娘であるあなたのことだけは特に可愛がって自分で選んだ名前もつけ、そのことを口にして聞かせもしたのではないか。つまり彼にはなにかスペインにかかわる深い思い出というか、思い入れというかそんなものがあって、スパニッシュ・スタイルの家とあなたの名前はその象徴だった。  あなたもその遺志を大切にしてあげたいと思えばこそ、ひとりでなんとかしたいと気をもんで、あんな一枚のビラにも頼ってみる気になったのではないだろうか。とまあ、これだけのことなんですが」  そうして順序だてていわれてみれば、なるほど当たり前のことかもしれない。だが種明かしを聞いた後も理緒の顔からは、驚きの余韻が消えてはいないようだ。 「なんだか桜井さんって、シャーロック・ホームズみたいですね」  まだいくらか固い表情のままそうつぶやいたのに、 「止《や》めて下さいよ」  本気で閉口しているように彼は手を振る。 「僕にはあのエキセントリックな、ヴィクトリア朝紳士のような、ギャンブルっ気はまったくありません」 「ホームズって、賭《か》けごとなんかしましたっけ」 「してるじゃないですか。依頼人の顔を見たとたん相手が口も聞かぬ前から、その素性なんかをどんどん当ててみせる。シャーロキアンにはあれがこたえられないらしいですね、名探偵の証拠だってわけで。でも百発百中は小説なればこそなんで、顔が日に焼けているから南方帰りだなんてギャンブルもいいところでしょう。外れた場合にはワトソン氏が口をつぐんでいるのかもしれませんが、現実にこれをやって失敗したらギャグにしかなりませんよ」 「でも、私聞きました。桜井さんは前に、W大の近くで起こった殺人事件の犯人を見つけたことがあるって」  そういったとたん理緒は、自分で自分の口元を押さえている。まるでいうつもりもないことが、勝手に飛び出してしまったとでもいうように。対する京介は驚くようすも見せず、 「うわさ好きのお友達がいるらしいですね」  またぼおっとした口調で首を振ってみせたが、 「それじゃひとつ、失敗覚悟で真似してみましょうか。たとえば、遊馬さんは剣道をやっておられるのでしょう、とか」 「あら、どうしてですか?」 「なによりぴんと背筋の伸びた姿勢の良さ、細身の女性にしてはよく発達した上腕の筋肉。和服が似合いそうなふんいきは僕の主観だから別にしても、左手の指の腹にあるたこが竹刀だこじゃないかと見たわけですが、外れですか?」 「ええ、外れ」  なんとはなしほっとした表情で、理緒は両手のひらを上げて見せる。 「たこというほど固くはないんです、手袋をしていますから。それに両手にあるでしょう? 小指と薬指の間、それから人さし指の横と親指。私、剣道のことは知りませんけど、きっとこんなふうに左右同じ痕《あと》はできないでしょうね。なんだか、わかります?」  蒼とふたり分の視線が、その手のひらに集まる。ややしてふたりは首を振った。 「わかんないよ、そんなの」 「降参です」 「これ手綱の痕です。私、乗馬をしているんです」    3 「すごいや、かっこいいねえ!」  蒼は声を上げている。 「ぼく、前から一度馬って乗ってみたかったんだ」  これは本音だ。振り返った理緒の表情も、これまでで一番嬉しそうだった。 「伊豆に行けばまだうちの馬がいるわ。別荘の近くの乗馬クラブに預かってもらっているの。祖父は死ぬ直前まで、毎朝の乗馬を欠かさなかったから」 「すると、あなたが馬を始めたのも」 「ええ、祖父は馬術家でした」 「馬術って、その頃は鎧《よろい》着て乗ったりしたの?」 「武者行列じゃないんだよ、蒼」  京介が脇からたしなめる。ふん、自分だって馬のことなんかなにも知らないくせに、と蒼は思う。 「戦前の日本は、いまよりずっと馬術が盛んだったのよ。軍国日本の、欧米に追い付け追い越せの結果だから、昔は良かったとはいえないかもしれないけれど。  オリンピックで金メダルを取ったこともあるわ。一九三二年のロサンゼルス大会の大障害、西|竹一《たけいち》中尉っていう陸軍の軍人さんが」 「へえ、知らなかった。バルセロナじゃかすりもしなかったのにね」 「すると遊馬歴氏も軍人だった?」 「いいえ、軍には入らなかったらしいです。二十代でヨーロッパに留学して、戻ってから戦前は宮内省の主馬寮《しゅめりょう》に勤めていたと聞きました。でも父はもちろん孫も、私以外だれも馬には興味を持たなくて」 「その留学時代、スペインに行かれたわけなのかな」 「そうらしいんです。留学時代のことはほとんど話してくれなかったので、詳しいことはなにもわからないんですが、帰国したときは一頭の白馬といっしょだったとか」 「それはすごいな。馬は暑さに弱いそうだから、赤道を越えるだけで大変だったろう」 「飛行機じゃないの?」 「蒼、いつの話だと思ってるんだ」  また呆れたようなため息をつかれてしまう。 「ええ。それでその牝馬《ひんば》も、日本に着いて出産して、すぐ死んでしまったそうです」 「すると、妊娠した馬を連れてきたわけですか」  理緒はうなずいた。 「その日本で生まれた馬が祖父の戦前の愛馬で、いまも伊豆の家に肖像画が残っています」 「馬の肖像画?」 「馬と、祖父の」 「いいなあ。それ見たい、馬にも乗りたい。ねえ、京介、行こうよ。伊豆はお魚おいしいし、温泉はあるし」 「遊ぶ話をしてるんじゃないよ、蒼」  京介は妙に渋い口調で椅子を引くと、 「つまり遊馬さん。あなたとしてはお祖父さんの建てた家を残すために、どうにかしてご家族の意思をひるがえさせたい。僕にそのための手助けをしてほしい。そう考えているわけですね」 「そうです」  理緒は揃えた膝に両手を置いて、桜井京介を正面から見つめた。最初ドアを開けたとき、立っていた彼女の表情だと蒼は思う。濃い眉と一重まぶたの線がまっすぐで、目にはなにか思い詰めたような色がある。そんな目を見るとやっぱり、剣道も似合うなという気がしてしまう。しかし京介は腕組みをしたまま、下を向いてなにか考えこんでいる。 「とにかく一度調査して下さいませんか。専門家の目で見ていただきたいんです。その上で、できたら、──母たちとも会っていただいて」 「ですが正直な話、それはかなり難しいと思いますよ。特にさっき僕が考えたように、あなたの母上に亡くなったお舅《しゅうと》さんへのわだかまりがあって、それが取り壊しの意向に結びついているとしたら、少なくとも建築史家の出る幕じゃない」 「──それは、わかってます」  すると京介は顔を上げた。顔にかぶさった前髪の中から、黙ったままじっと理緒の目を見つめる。理緒も視線に力をこめて、その顔を見つめ返した。 「遊馬さん」 「──はい」 「たったいまホームズの真似はしないといっておいて、こんなことをいったらあなたは怒るかもしれない。でもあなたが僕に期待しているのは、ほんとうにその建築の調査だけですか?」  理緒がすっと音立てて、口から息を吸うのが蒼の耳に聞こえた。 「どうして、そんなふうに思われるんですか」 「ホームズのギャンブルほどの根拠もありません。だがあなたはさっきから、特定のことばが出るたびに不自然な表情を見せますね」 「不自然な、表情ですか」 「表情が変わりかけるのを止めようとして、かえって強ばってしまうような。そして自分がそのことばを口にしなければならないときは、前に間が空いたりどもってしまったりする。ついいましがたも」  理緒の両手が上がって頬と唇を押さえている。その手の下で顔がかあっと赤くなる。伏せた目元がうるむ。泣き出すのだろうかと蒼は思った。しかし彼女は両手をぎゅっと握り締めると、顔を上げた。 「そんなこと、ありません。桜井さんの、思いすごしです」    4 「──わかりました」  ややして聞こえた、それが京介の答えだった。それきりたったいまの自分のせりふは忘れたとでもいうように、白衣の胸から薄っぺらな手帳を取り出すと、やけに事務的な口調で話し出す。 「調査の件ですが、正式にお引き受けするかどうかはおくとして、ともかくも一度建物を見せていただくことにします。具体的な日取りに関しては、ドライバーの都合があるのでもう二、三日待って下さい。伊豆東海岸だとこれから週末は道が混むはずですから、平日で動ける日を作ることにしましょう。  費用については取り敢えず今回は、ガソリン代と高速代だけ持っていただければ結構です。ただ、できれば最初の半日だけでも同行していただいて、家を管理している人に紹介してもらえるとありがたいですね。日程が決められるようになったらこちらから連絡しますので、お宅の電話番号を教えていただけますか?」  あっけに取られていたような理緒の顔に、またふいに緊張が走った。 「いいえ、家にはかけないで下さい!」  髪が乱れるほどきつく頭を振る。 「あの、うちの電話最近具合が悪くて、時々混線したりするんです。ですから、私からします、連絡は」  なにかを隠しているとしか思えない、表情であり口調だった。だがそんな彼女の反応をどう受け止めているのか、京介の返事には憎らしいくらいなんの感情も現われてはいない。 「そうですか。僕のいまの下宿には電話がないんですよ。だから、この部屋にいないようだったら……」  破り取った紙切れにシャーペンを走らせて手渡す。 「ここなら留守電がありますから、メッセージを入れておいて下さい」 「なんてお読みするんですか、この方のお名前」 「『みはる』です、栗山深春《くりやまみはる》。古い友人です。じゃ、そういうことで」  窓から下を眺めると、遊馬理緒の歩いていくのが見える。その足取りが緩《ゆる》くなり、ふっと止まった。振り返った。研究棟の窓を仰いでいる。まだ迷っているような表情。戻ろうか、というように足を踏み出しかけた。  だがちょうどそのとき、チャイムが鳴り出した。三限が終わったのだ。校舎の間の狭い通路は、見る見る学生の群れで埋まっていく。学食に向かう人の波に呑みこまれ押し流されるようにして、やがて理緒の姿は見えなくなった。 「相変わらず意地悪だね、京介は」  窓辺から蒼がつぶやいた。 「あの子は話したくてきたんだよ。でもほんとうにいいたいことは、とうとう口に出せなかったんだ。それをあんなふうにつついただけで止めちゃうなんてさ。いっそ全部しゃべらせてあげた方が、親切だったんじゃないの?」 「──僕はそれほど傲慢《ごうまん》じゃない」  ぼそりと答える声がある。椅子の背にだらしなく上体を載《の》せた京介だ。両手がうっとうしい前髪をぐいと掻き上げる。眼鏡を額に押し上げて、まぶたをこぶしでこすっている。本格的に彼の頭が動き出すには、まだしばらく時間がかかるらしい。 「蒼、コーヒーおかわり」 「ふーん、まあいいけどさ」  机のカップをまとめた蒼は、出ていきかけて足を止めた。椅子の上の京介に向かって、肩越しに小悪魔めいた微笑を投げた。 「でも、きっとあの子誤解したよ。『みはる』のこと」   海の見える家    1  車影もまばらな深夜の東名高速を、傷だらけの旧型ランドクルーザーが轟音上げて疾駆《しっく》する。ハンドルを握るのはこの車にふさわしい、いかつい体つきの大男だ。顔の半分は濃い髭《ひげ》で覆《おお》われ、額には赤いバンダナ、カーキ色のTシャツを分厚い胸筋が突き上げている。助手席にいるのは蒼。後部座席には遊馬理緒と桜井京介がいる。五月十三日金曜日がもうじき土曜日に変わろうとしている時刻、一行は伊豆半島東海岸熱川の遊馬家別荘に向かって、車を走らせていた。  あの日理緒がついに口にしなかったことがなんだったにせよ、調査の日程はとんとん拍子に決定した。現在別荘を管理している蔵内氏の許可を得たからと、彼女から指定の電話に連絡が入ったのが翌日の夜。 『早い方がいいと思うんです、ご都合がつくのでしたら。もちろん私も同行させて下さい。ただ、平日は講義があるので……』  さすがに入学して一ヵ月の身では、そうそうサボる気にもなれないのだろう。それでも渋滞に巻きこまれるのだけは絶対にごめんだという京介の主張で、一種妥協の決定、金曜深夜の出発ということになったのだった。  カーラジオから流れるメロディに合わせてS&Gのミセス・ロビンソンを口ずさみながら、蒼はバックミラーにすばしこい視線を走らせる。乗り心地のいいとはいえないランクルの後部シートで、理緒はあまり落ち着かないようだ。別荘取り壊しの問題を巡って、家の中が相当にごたついているのかもしれない。今度の調査のことも取り敢えず、母親には内緒のままなのだといっていた。それにしても留守番電話に入っていた理緒の声には、押さえきれない緊張の響きが感じられた。ただ祖父の想いがこもった家を守りたいというだけにしては、彼女の様子は今日もまたどこか深刻すぎるように思われた。  それがなんのためなのか、蒼にもおおよその見当はついている。京介はどう考えているのか。だが尋ねてみたところで、すんなり答えてくれるとも思われない。あろうことか今日も彼は眠っている。車の騒音も振動もものともせず、隅に積み上げた寝袋に例のムク犬みたいな頭をあずけて。遊馬家があるのは渋谷の高級住宅地|松濤《しょうとう》だが、待合わせは駅前でした。そこで理緒を拾ったときはすでに、京介はこのとおり熟睡していたのだ。 「ごめんね。この二、三日忙しくてろくに寝ていなかったから」  どうしてぼくがあやまらなきゃならないのかなと思いながらも、自然いいわけする口調になっている。 「じゃまだったら床にでもころがしといてよ、別に噛《か》みついたりしないからさ。──あ、それから紹介するね。彼は京介の古なじみで、調査のときにはいつも肉体労働に駆り出されるの。ドライバー兼荷物運び兼巻尺担ぎ。写真も撮るよ。これで二十五歳にはちょっと見えないでしょ? 京介と同い年なのに、インドだタンザニアだってしょっちゅう大学ふけてるから、まだ学部にいるんだよ」 「この猫小僧、歳上に向かってなめた口きくんじゃない」  やたらどすの利いた声で蒼を一喝した髭男は、ぎょっとなった理緒に向かっていかつい顔をにこりとほころばせると、大きな手を差し出す。 「やあ、よろしく。栗山といいます」 「栗山──深春《みはる》さん?」  明らかに理緒はとまどっている。無理もない。なんの説明もなしでクリヤマ・ミハルという名前を見せられたら、たいていの人間は女だと思うだろう。もっとも当の栗山は、さして気にしているふうもない。毛もじゃらの熊みたいな大男だが、笑った目元はこれでけっこう愛嬌がある。 「似合わん名でしょう。笑わないでくださいよ」 「笑う笑う」  脇から出した蒼の頭をひとつはたいて、 「さて、行きますか。先は長い」  深春はぐいと伸びをした。身長は桜井京介と同じくらいかもしれないが、体の厚みは軽く倍はありそうだ。 「日の出どきに熱川なら時間は充分あるけど、途中で一、二時間休憩させてください。実は今朝がた、成田に着いたばかりでしてね」 「旅行、してらしたんですか?」 「ええ。今回はタイ、ラオス、カンボジアを三ヵ月ばかり」 「だからさ、遊馬さん。こいつにあんまり近寄らない方がいいよ」 「え?」 「まだ検疫が済んでいない」 「馬鹿者ォ!」  深春が吠え、エンジンがうなり、蒼が笑う。桜井京介はあいかわらずの白河夜船。少し落ちこんでいたような理緒も、吹き出すのをこらえねばならない。ランドクルーザーは深夜の東京を西へ向かって走り出した。おかしな組み合わせの四人を乗せて。──    2  できたら夜明けに着いていたいと、いい出したのは理緒だった。 「高台にあるので窓から、とてもよく海が見えるんです。日の昇る海が。それに祖父はあの家を『黎明《れいめい》荘』、スペイン語で『カサ・マドルガーダ』って名付けていました」  土曜の朝、といってもさすがにこの時間では、渋滞で悪名高い真鶴《まなづる》道路もがらがらだ。東海岸によりそって走る国道百三十五号をひたすら南下する。それでもカーブやアップ・ダウンの多い海沿いの道路は思ったより時間がかかって、熱川温泉の白煙を横目に山側へ車を乗り入れたときには、夜明けの薄あかりがしらじらとあたりに漂い出していた。  急な坂道からさらに私道らしい細い道に入って、木立の間をくねくねと曲りながら進んだ。方角としてはまたかなり北へ、引き返していたようだ。途中に鉄条網を巻きつけた牧場のような木の柵があったが、門はいまは使われていないらしく開け放しになっていた。 「ここでいいんですか?」  深春の声にはっと顔を上げると、道の行き止まりに黒い門扉《もんぴ》が浮かんでいる。上に瓦を並べた漆喰《しっくい》塗りの白塀に、植物模様を表わす鉄格子の門。スパニッシュ・スタイルの別荘にはふさわしいたたずまいだ。  ドアを開けて車から出ようとした理緒は、あ、と小さく声を上げて体を止めた。 「いけない、私ったら。いまこの家、空家なんだわ……」 「でも、管理人さんはいるんでしょ?」 「蔵内さんはいまは近くに、部屋を借りて住んでいるの。今朝行くとはいってあったんだけど、こんな時間じゃまだ来てっこない──」 「ああ、あの門も鍵がかかっているわけだ」 「海の見える庭は、この家の向こう側なの。ごめんなさい。私が勝手いって急いでもらったのに」 「ねえ、だったらあの門乗り越えちゃおうか」  蒼が提案した。高さはせいぜい二メートルちょっとだし、足をかける場所には困らない格子の門だ。 「遊馬さんならあれっくらい、全然平気だよね。せっかく着いたんだもん、日の昇るとこ見たいじゃない。ね、いいでしょ?」  理緒はちょっと困ったような顔をしたが、うなずいた。 「そう、ね」 「俺は待ってますよ。間違って門をこわしたりしたらまずい」  確かに彼の体格では、華奢《きゃしゃ》な鋳鉄《ちゅうてつ》飾りの方が負けてしまうかもしれない。 「京介は?」 「──止めとく」  それでも目だけは覚めていたのか、髪の中からむっつりした返事がある。いつも寝起きは機嫌が悪いのだ。蒼はかまわず外に出た。五月といっても明け方の空気はさすがに冷たい。両腕を伸ばして頭の上の鉄棒を掴《つか》み、懸垂の要領で体を持ち上げる。後は梯子《はしご》を昇るのとほとんど同じだった。忍び返しさえついていないのだ。すぐに理緒が続いた。思ったとおり彼女も身が軽い。音もたてずに飛び降りて来た理緒と、顔を見合わせてにやりとする。共犯者の笑いってやつだ。 「庭はこの向こう?」 「ええ、こっちよ」  玉石を敷いた道が玄関に通じていたが、ふたりは南国らしい棕櫚《しゅろ》や竜舌蘭《りゅうぜつらん》の植込みを抜けて家の裏に回る。 「わあ……」  蒼は思わず声を上げていた。視界を閉ざす樹木の一本もないひろびろとした芝生の庭は、行く手で目をさえぎる塀もないまま崖となって海に落ちこんでいる。もちろん庭の敷地と海の間には国道もあれば伊豆急行の線路も走っているはずだったが、ここに立ってみる限り芝生の向こうはすぐ海だ。  そのちょうど真正面、手の届きそうなほどの近さに深皿を伏せたようなかたちの島影が浮かぶ。そして陽は島の稜線をかすめ、水平線に漂う薄雲の層を貫いて、金色の光の箭《や》を走らせようとしていた。  蒼は両手を引いて深呼吸。潮の香のする空気が肺に染みるようだ。 「あれ、大島かなあ。近いんだねえ」  理緒はだがそれには答えず、じっと迫《せ》り上《あ》がってくる太陽に顔を向けている。 「すごいねえ、海と朝日がひとりじめだ。遊馬さんのおじいさんは、毎日こんな景色を見ていたんだね」  少しして、理緒は海を見たまま小さく首を振る。 「ううん。おじいちゃまは海は見なかった」 「──え?」 「朝日も嫌いだった。いつも日が昇りきるまでは、庭に出ようともしなかったわ」 「どうしてだろう」  せっかくこんな見晴らしのいい場所に家を建てたのに、海も朝日も嫌いだなんて信じられない気がする。 「それにこの家に『黎明荘』って名前をつけたのもおじいさんなんでしょ。黎明って、夜明けのことだよね?」 「ええ。でもスペイン語のMadrugadaは、あかつきというよりは夜明け前のことらしいの。だからほんとうは『未明荘』とでも呼ぶ方が正しいのかもしれない」 「それにしたってさ──」  蒼がなおも聞き返そうとした、そのときだった。 「おまえたち、なにをしているッ!」  突然凄じい大声が背後から鳴り響いて、全身の細胞が飛び上がってしまう。庭の左手のへりをかたちづくっている木立の中から大股に現われたのは、両手で長い棒のようなものを構えた長身の老人だ。離れていてもはっきりわかる鋭い目つき。黒っぽいコートの裾をなびかせ、痩せて禿げ上がった頭の回りに白髪がぼうぼうと乱れているところは、まるで黒魔術師だ。蒼はそのまま走って逃げ出したくなった。 「私よ、蔵内さん。勝手に入りこんでごめんなさい!」  理緒の声に老人は足を止めた。逆に理緒の方が、足早に老人に近づいていく。 「顔を見るのは一年ぶりね、元気そうで良かったわ」 「や、──これは、理緒お嬢様でしたか……」 「いやだ。それ、猟銃?」 「門の前に薄汚い車が止まっておりましたので、これはてっきりまたよそ者がキャンプに入りこみおったかと思いましてな。少々おどかしてやるかと、はい」  冗談じゃないや、と蒼は思う。この老人が仕えていたのが彼女のおじいさんなら、確かに相当の偏屈爺いだったに違いない。 「またって、これまでもそんなことがあったの?」 「ございましたとも。お庭のあちこちが妙な具合に掘り返されていたり、ポーチの敷石に傷がついていたり。ついこないだも、私の足音を聞いてあわてて逃げ出したんでしょう、ついたまんまの懐中電灯が、ころがっていたことさえございます。去年の冬に若旦那様があんなことになられてから、もう何度もでございますよ」  若旦那様というのはつまり彼女のお父さん、スペイン文学研究者の遊馬灘男氏のことだろうか。でも、『あんなこと』ってなんだろう。蒼は聞こえぬふりをして、聞き耳だけは立てておく。 「これから気候がよくなってまいりますと、もっとそういうことが増えてくるかもしれませんで。私が申し上げることでもありませんが、これだけのお宅を空家にしておくのは、はあ、良くないのじゃありませんかなあ」 「私もそう思うわ、蔵内さん」  理緒は唇をきちっと結んで、老人にうなずいて見せた。    3  蔵内老人が鍵を開けてくれたので、『薄汚い』ランドクルーザーは門内に入ることができた。 「土建屋が乗るごとき車じゃねえ」  といわれて深春は腐っている。もっともその評価はあながち的外れともいえない。車の持ち主は彼がよくバイトさせてもらう、測量会社の主任だからだ。最近はすっかり垢抜《あかぬ》けたデザインに変わってきたランクルだが、古い年式のごつさがいいのだと常日頃主張している深春も、この爺さんにかかってはひとたまりもない。  庭先にコールマン・ストーブを出して湯を沸《わか》し、コーヒーを入れる。カフェ・オ・レに渋谷で買ってきたクロワッサンで朝食だ。目の前は朝の海。芝生は緑。蔵内氏には悪いが、ここでキャンプしたくなる人間の気持ちはすごくよくわかる。  いささか意外に思えたことに老人は、蒼のいれたコーヒーをいたくお気に召したようだった。明治生まれの遊馬歴氏の朝食はいつもパンだったのだという。 「あんたら今夜は泊まっていかれるのじゃろう? だったら明日は私が、旦那様から教わった『ちょこらて・い・ちゅーろ』を作ってやろう」 「ははあ。スペイン式の朝飯ってわけですか」  深春が嬉しそうに顎髭《あごひげ》を掻く。 「なーに?」 「chocolate y chulo、すなわちホット・チョコレートとドーナツの一種さ。どっちも日本のやつよりずっとこくがあって、しかも強烈に甘いんだ」 「私が泊まりに来たとき、よく蔵内さんが作ってくれたわね」 「俺もスペイン旅行したときは、ずいぶん食いましたよ。なつかしいな」 「明日の楽しみができたところで」  それまで黙っていた京介が、おもむろに立ち上がる。 「仕事といこうか、諸君」 「あんたが建築の先生かね」  と蔵内氏。さっき理緒がひとわたり一行を紹介したはずなのだが、立ち上がった京介をじろじろと大きな目で眺め回している。 「まあ、そうです」 「またえらく髪を伸ばして、なんぞ世間に顔の晒《さら》せんわけでもあるのかね」  蒼と深春が同時にぷっと吹き出した。理緒は困惑したように頬を赤らめる。 「そんな。失礼よ、蔵内さん」 「いや、おおせのとおりだ。京介、いいかげんなんとかしろよ」  しかし彼は怒ったようすもなく、ひょいと肩をすくめる。 「その内ね。──ではご案内願えますか、蔵内さん」  鍵を持った蔵内老人を先頭に、理緒、京介、蒼、深春の順でぞろぞろと玄関に回る。厚みが十センチ近くもある一枚板の扉は、しかしきしみも上げずに開いた。入ったところはこぢんまりとした玄関ホール。床は茶色の陶板敷きで天井と壁は白塗り、壁につけた無骨なチェストの上にはグラナダ焼きの壺が飾られ、中世の僧院あたりに似合いそうな鉄製のランプが下がる。もちろん中には電球が入っているのだが、電気はいまは止められている。  内部へ通じているらしいドアは三つあった。左右と正面と。 「ちっとも黴《かび》臭くないわ。ちゃんと手入れしてくれているのね、蔵内さん」  理緒が嬉しそうに声を上げた。 「それはもう。二日に一度は必ず開けて掃除しておりますので」 「私の部屋もそのままかしら?」  理緒が先に立って右手のドアを開ける。そちらは鍵をかけていないらしい。短い廊下が現われた。半円アーチの天井に煉瓦敷きの床、白壁に点々と埋められた絵タイルが唯一の装飾だ。左手の壁の中央に、がっちりした黒塗りの扉がある。 「これが私の部屋、作ったときはお客様用の寝室だったのでしょうけど、私が来たときに泊まる部屋だったの」  開かれた扉の向こうから現われたのは、かなり広々とした板張りの部屋だった。左の壁につけて木製のベッド。右手は下半分が作りつけの棚になった広い張り出し窓で、扉の正面の壁は床までカーテンに覆われている。 「わあ、凄いや。みんな馬だ!」  蒼が歓声を上げた。床の民芸風カーペットからカーテン、ベッド・カバー、どれもが意匠はさまざまの、しかし馬のデザインで統一されている。壁にかかった額の絵はクラシックな馬の銅版画だったし、棚に並んでいる本も馬術の理論書や写真集、窓に向かっては木や金属や陶器で造られた大小の馬の像が十いくつも飾られていた。 「埴輪《はにわ》の馬、唐三彩《とうさんさい》の馬、メリーゴーラウンドの馬、北欧の馬、これは、インドかな」  黒い木を削って作られた馬だ。かたちはいかにも素朴だが、金色の真鍮《しんちゅう》と白い貝の象嵌《ぞうがん》が美しい。 「毎年の、誕生日の贈り物なの。おじいちゃまからの」 「ふーん。毎年馬なの?」 「大旦那様は、理緒お嬢様が乗馬を始められたのをそれはそれは喜ばれましてな、お嬢様のお誕生日のたびにそのときだけは東京に出られて、ご自分でこういうものを探してこられたものですわ」 「楽しかったわね、いつも。庭でお月様を見ながら蔵内さんの作ったパエリャを食べて、翌日は馬に乗って。去年だっておじいちゃま、あんなに元気だったのに──」 「まったく突然のことでございましたから……」  ふたりはしんみりとことばを交わしているが、京介はインテリアにはあまり関心がないというようすで、磁石を出したりカーペットをめくって見たりしている。蒼は奥の壁を覆うカーテンを引いてみた。白くペンキを塗った木の桟《さん》があるガラス戸の、向こうは四角い柱で支えられた石張りのポーチと、庭だった。明るい午前の陽射しが緑の芝生に映えて、まぶしいほどに輝いている。 「あら? ──」  理緒が低くつぶやいた。 「ね、蔵内さん。去年の馬がないわ。覚えてるでしょ。中国風の、白磁の大きな」 「あれは、東京のお宅にお持ちになられたのでは」 「どうして? だって私がここに来たのは、おじいちゃまのお葬式のとき以来なのよ。持ち出してなんかいないわ、なにひとつ!」 「しかし──」  きつい口調で理緒に問われて、蔵内老人は困惑の態だった。 「暮れに若旦那様があんなことになられて、私がまたここを見るようになりましたときはもう、あの馬はございませんでした。ですから私はあの半年の間に若旦那様か、それとも理緒お嬢様が持ち帰られたのだとばかり……」  理緒は唇を噛んで首を振る。また若旦那様の『あんなこと』だ、と蒼は思う。研究室で彼女がいおうとしていわなかったことに、それは関わる話なのだろうか。そっと横目で眺めると、心配げな老人に向かってようやく気を取り直したように微笑《ほほえ》んでみせた理緒の顔は、しかしまだ固かった。  玄関ホールの左手にはかなり広い食堂がある。分厚い一枚板のダイニング・テーブル、背と座に革を張った背もたれの高い椅子、絵タイルを扉にはめたがっしりとしたカップ・ボード、周囲に同じようなタイルを張った暖炉。床には藺草《いぐさ》のマットが敷かれている。こちらでは入って右が庭に面して、寝室から続くポーチのあるガラス戸だ。 「こりゃいいな。外の景色を見なけりゃあ、まるっきりアンダルシアの田舎家だ」  深春が陽気な声を上げた。 「この家具はスペインから輸入したんですか?」 「いや、あんた。昭和の初めにそんなもの、やすやすと手に入りゃあせんて。これはみんな特注で作らせたものだがね。大旦那様がひとおつひとつ、絵に描いて職人に渡して」 「へえっ。するとまさかこのタイルも鉄のシャンデリアも?」 「そうじゃよ。そのタイルは確か伊万里《いまり》の窯元《かまもと》に、旦那様の下絵に従って描かせて焼かせたんじゃ」 「うーん、いわれてみればこれは呉須《ごす》の染め付けか。まいったな、こいつは」  深春はしきりに顎をひねって感心している。 「図柄は風景画だな、しかもひとつひとつ違うよ……」  食堂の奥には勝手口のある厨房《ちゅうぼう》と、蔵内老人が使っていた部屋がある。そこを見て一行は三度《みたび》玄関ホールに立った。正面の壁についた無愛想な黒い木扉を、老人は別に出した鍵で開けた。その向こうにあったのはもうひとつの扉、イスラム風のアラベスクを編んだレエスのように繊細な鉄格子の扉と、中庭《パティオ》だった。 「いやあ、これはまさしくアンダルシアのパティオだなあ!」  ふたたび深春が感嘆の声を上げる。床には白と黒の大理石をチェス盤状に張り、中央には小さな噴水の水盤。四方の壁際には二本ずつ白い円柱が立って、瓦の軒を支えている。ただ顔を上げてみても、パティオの上に空は見えない。鉄枠で支えられたガラスの屋根が軒の上で中庭全体に覆いがぶさり、中央の梁《はり》から噴水の上へ、ブリリアント・カットの宝石のようなかたちをした、鉄と青ガラスのランプが吊り下げられていた。 「そうか、やはり雨多き伊豆では、屋根なしというわけにもいかなかったんだな」  深春は残念という口調だ。 「──鉢植えが、ひとつもないわ」  それまで黙っていた理緒が、低くつぶやく。 「蔵内さんがあんなに丹精して、冬でも緑が絶えなかったのに。お父さんがどかしてしまったのかしら」 「だと存じます。空の鉢は庭先に並んでおりますが」 「中の花や草をあけてしまったってこと? でも、なんのためにそんなこと」  いってしまってから理緒は、自分からかぶりを振った。 「ごめんなさい。あなたに怒ったってしかたないことなのよね」 「よろしいのでございますよ」  老人もささやくような声でそれに答える。 「たとえ若旦那様がなんとおっしゃろうと、やはり私はこの家を離れるべきではなかったのでございましょう」  ふたりが肩を寄せ合ってそんな会話を交わしている間にも、深春は大声で自分がスペインのあちこちで見てきたパティオの話をしているし、それを聞いているのかいないのか、京介は磁石を片手にうろうろと軒の下を歩き回っている。蒼はひとり中庭の中央に立って、ゆっくりと視線を巡らせた。  頭の上のガラス天井は、元は透明だったのだろうが、長年の汚れや傷みでずいぶん暗くなってしまっている。その分パティオに射す陽射しは鈍い。帆立貝のかたちをした噴水の水盤は水を止められて乾き、円柱から突き出た鉢掛けに植木鉢はなく、ひんやりと乾燥した空気だけが空間を満たしている。空家といってもこれまで見てきた寝室や食堂は、そのまますぐに使えそうなくらいだったのに、このパティオだけは廃墟の匂いがする。 (なんだか嫌だな、ここ……)  それは蒼の動物的な勘といってよかった。 (あんまり長くいたくない。気味が、悪い──)  不吉な気配などといったら、深春あたりには大笑いされてしまうだろう。だがこうして立っているだけで、うなじのあたりがすっと冷えてけばだつような感覚は否定しようもない。実物の幽霊に会ったことはないが、そういうものが出るとしたらこんなところではないかという気さえしてくる。それも日本的なぼおっとした霊ではなくて、イギリスの幽霊屋敷に出るようないやにくっきりとした白昼のまぼろしだ。そしてここに『出る』としたら、それは間違いなく遊馬歴の幽霊ということになる。  去年、この黎明荘では次のようなできごとがあったはずだ。理緒の誕生日の後に大旦那様、すなわち遊馬歴の突然の死。その死後家を守り続けていた蔵内氏は遠ざけられ、若旦那様、すなわち遊馬灘男が滞在するか少なくとも出入りしていたらしい。  その間に理緒の誕生祝いの白磁の馬が消えたり、中庭の鉢植えがあけられたりした。そして去年の暮れ灘男の身になにごとかが起こり、黎明荘はふたたび無人となり、いまにいたっている。  蒼はそっと顔を動かして、目の隅に理緒の横顔を入れる。ガラス越しの薄い陽射しのためか、その横顔はまた妙に暗く物思わしげに見える。  今年になって母親から、黎明荘取り壊しの話が持ち上がった。彼女はそれをなんとか止めるための手助けを求めて、桜井京介のところに来た。だが彼女が家の運命以上に心配していて、あのとき打ち明けようとしてできなかったことがある。蒼にもそれがなんであるかはだいたい想像がついたが、こちらからいい出せるようなことではなかった。 (ひとりで悩んでないで、思いきって話してくれればいいのにな。それともいっそぼくの方から、水を向けてみるべきなのかな……) 「ほら行くぞ、蒼猫。いよいよご当主の部屋だぜ」  深春のグローブのような手が、頭を後ろからどやしていく。気安く叩くな、とわめきたいのをこらえて、蒼は後を追った。熊男に仕返しするのは後に回しても、いまはできるだけデータを集めねばならない。見るものは見て、聞くものは聞いて、この奇妙な感覚の理由を突き止めることができたら、すべてが解決する。そんな気がする。 (でもその『解決』って、つまりなんなのかな──)  自分でもあきれたことに、解決すべき謎の正体さえ、蒼にはまだはっきりとわかってはいないのだった。  遊馬歴の書斎兼寝室はパティオの正面にあった。扉はなく、アーチ形に切れた戸口が口を開けている。蒼はその部屋に立って、中を見回して、なんということなくため息をついた。ひどく殺風景な部屋だった。広さは理緒が使っていた寝室よりはるかに狭く、装飾めいたものはほとんどない。空っぽの幅の狭い木の本棚がひとつと、木の机と椅子、というよりベンチ。ベッドは家具ではなくて、壁の厚みをベッドの大きさに掘り窪《くぼ》めただけのものだ。薄い寝具がその中に敷かれている。おまけに庭側の開口部はただひとつ、それも腰より低い位置に切られた、ガラスを嵌《は》め殺《ごろ》しにした穴とでもいいたいようなもので、大きさはせいぜいトランプのカードくらいのものだ。これでは海も庭も見えようがない。 「こいつはほとんど修道士の瞑想《めいそう》室だな」  深春がぼそりとつぶやく。今度ばかりは蒼も彼の感想に賛成だった。いったい遊馬歴という人は、なにを考えてこんな家を建てたのだろう。明るい東の海の真ん前に、その景色に目をつぶるような部屋を作って。 「──深春、ちょっと見てくれ」  京介の声がした。 「スペイン語だな、これは。読めるか?」  京介はペンライトを片手に、壁龕《へきがん》ベッドの前に立っている。その奥の壁に小さな額縁がかかっていて、中に入っているのは絵ではなく手書きの文字の並ぶ紙きれだった。ていねいに小さく畳んだものをまた伸ばしたらしく、四角い折りしわが一面に寄っている。どう見ても、美術品でも貴重な古文書でもない。ただノートから切り取ったような、端の黄ばんだ紙に書かれた、四行の文字。詩みたいに見える。 「スペイン語だ。発音の方は無論わかる。簡単なセンテンスばかりだから、意味の方も大体のところはな。読むか?」 「ああ」  こほんとひとつ空咳をして、栗山深春はそれを読み上げた。まだ意味はわからなくとも、一行目と三行目が韻を踏んでいるのはすぐにわかった。 「Frio nuevo: Canta un gallo.  Trueno y luna: Llora un nino.  Calle sola: Se ve un perro.  Aun noche: Piensa un hombre.      MADRUGADA  フリオ ヌエボ、カントゥン ガジョ。  トゥエルノ イ ルナ、ジョラ ウン ニニョ。  カジェ ソラ、セ ベ ウン ペッロ。  アウン ノチェ、ピエンサ ウン オンブレ。      マドルガーダ」 「あれ、マドルガーダってその詩の題名なの?」  蒼は尋ねたが深春はそれには答えず、即興の訳を続けた。 「ええと、『新たな寒さ、鶏が鳴く。      雷鳴と月、子供が泣く。      人気ない街路、犬がいる。      いまだ夜、男は思いに耽ける。          夜明け』  ──ってなもんかな」  眠らぬまま男は思いに耽ける。この、海が見えるのに海を見ようとはしない家で。未明の、明けない夜の中で。遊馬歴が彼の家にマドルガーダという名をつけたのは、この詩の男に自分をなぞらえたからに違いなかった。 (でも、彼はなにをそんなに考えていたんだろう……)  蒼はそっと横目を使ってみたが、蔵内も理緒もなにもいおうとはしない。 「蔵内さん」  代わって口を開いたのは京介だった。 「彼は、遊馬歴という人は、とても悲しい人だったのですね。物質的にはなんの不自由もなく、これほど美しい場所に自分の設計になる家を建てて、だがそんなものはなにひとつ、彼を慰めてはくれなかった。彼はここにはないものを、もはや取り戻すべくもないなにかを、それだけを追い求めていたのでしょうね」   閉ざされたパティオ    1 「悲しい、人……」  蔵内老人はつぶやいた。骸骨《がいこつ》のように痩せこけた顔の中でふたつの目ばかりが、ぎろぎろとひかって桜井京介を見つめている。 「悲しい人と、いわれるのかね。あんたさんは、あの大旦那様を──」  蒼はなんだかどきどきした。不法侵入のキャンパーを追い払うのに、いきなり猟銃を持ち出すような爺さんだ。大事な主人を侮辱したというので、怒り出しでもしたらなにを始めるかわからない。 「あんたさん、どうしてそんなことを思うたね。一度も会うたことのない人間のことを、そう目の前にしたように」  彼の表情は明らかに青ざめ強ばっている。老人とはいえ手も大きく上背もあって、そのすぐ前にひょろりと立っている京介より力も遙かにありそうだ。理緒も深春も声を呑みこんでいる。当の京介だけが相変わらず、なんの危機感も覚えていないらしい。左手は無精たらしくジーンズのポケットに入れたまま、コンパスを持った右手をどこを指すということもなく体の回りに一周させて、いつもの無雑作な口調で答える。 「どうしてって、この家を見ればわかることですよ。すべてが遊馬歴氏の心象を、これ以上ないくらい明確に表現している。だから僕はそう感じたのです。それは蔵内さんだって、やっぱり感じておられたのじゃありませんか」  老人はなにもいわなかった。怒鳴ろうともしなかったが、強ばった頬をゆるめるようすもなかった。だがやがて目を伏せると、血の色の薄い唇から長いため息をもらす。 「私が初めて大旦那様にお目にかかった、あれは十二の歳じゃった──」  続いて聞こえてきたのはそんな、問わず語りの述懐だった。 「松濤のお宅で、ひとりお部屋にこもるようにして、しきりと書き物のようなことをしておられた。後で思えばこの家の、設計図を書いておられたのじゃろう。大旦那様はそのとき二十七歳で、欧州から帰られたばかりで、なにを見てもなにを聞いても、にこりともなさらない。口を開けば話されるのはスペイン語で、まるで異人のように見えて、子供心にもいったいこのお方はなにを考えておられるのかと、それはそれは恐ろしゅう思われたものでありました……」  理緒は驚いたように目を見張っている。彼女にしても聞いたことのない思い出話なのかもしれない。 「そんな西も東も知らん子供の時分から、あんまり長いこと大旦那様おひとりにお仕えして、ほかのことはわからん、しかしあのお方のことならなにもかもわかっておる。そう思っておりましたがほんとうは、その大旦那様のことさえお心の底のところは、わかっておらんかったのやもしれません──」  親指と人差し指が閉じたまぶたを押さえる。 「悲しい人……」  頭を一振りしてまた目を開けた老人は、まばたきしながらことばを継いだ。 「私にゃあとてもそんなことばは使えんが、あんたさんのいわれることはわかるような気がいたします。おっしゃるとおりかもしれません」  そして会釈するように軽く頭を下げた京介に、つけ加える。 「あんたさん、ようものの見えているお人のようですなあ。──なりはおかしいが」  しんみりと老人のことばを聞いていた蒼と深春は、そこで思わずそろって吹き出した。    2  駅近くの食堂で昼を取って、京介と深春は黎明荘に戻った。今回はざっと見るだけという話のはずだったが、京介はかなりこの別荘に興味を覚えたらしい。もう一度じっくり細部を観察したいというのだ。彼に対する評価をある程度改めたらしい蔵内老人が、鍵束を貸すことに同意してくれた。  深春がジェラルミン・ケースから、一眼レフを出してそれに続く。冬はスキー・ロッジのコックから夏はプールの監視員まで、やたら種類の多い彼のバイトのひとつは写真家の助手で、彼自身カメラいじりが趣味だ。アパートの押入を暗室に、伸ばしや焼きも自分でこなす。そばでうっかりぶらぶらしていると、今度はこっちが助手代わりにこき使われることになる。蒼は理緒にせがんで、馬に乗せてもらうことにした。  呼んでもらったタクシーで五分ばかり山側に入ったところ。遊馬歴の愛馬を預けてある乗馬クラブ、といっても最近リゾート地に作られているようなしゃれた施設があるわけではない。砂を入れた長方形の馬場が二面と、馬が十頭ばかりいる馬房と、納屋みたいな小さな事務所があるだけだ。それでも伊豆の乗馬クラブとしては歴史が一番古く、近郊の住民たちにかなりの数の会員がいて、かわるがわる乗りにくるのだそうだ。  その馬場のある敷地はすべて、戦前は遊馬家が所有していたのだという。歴は主馬寮に勤めて宮中で使われる馬を管理しながら、こちらでは自分が乗る馬を飼っていたらしい。繁殖こそ手掛けなかったものの、日高や岩手の馬産地にはしばしば足を運び、若駒を買い付けては自ら調教した。その馬が宮中で使われることもあれば、老いた馬や傷ついた馬を預かることもあったそうだ。  それが戦後になって、土地も馬のほとんども手放さざるを得なくなった。幸い買手は以前遊馬家の牧場で働いていた人物で、元主人の意を汲んで牧場を牧場として残せるよう骨を折ってくれた。面積こそ往時の半分以下になってしまったが、かくしてこの『東伊豆ライディング・クラブ』が『遊馬牧場』の後身というわけなのだった。 「じゃあ、いまここにいる馬はそのころの馬の子孫なの?」  どこかなつかしいような匂いのする馬房の通路に立って、蒼は頭を巡らせた。敷《し》き藁《わら》を入れた清潔な房のひとつひとつには、馬の名前や年齢を書いた札が下がっている。だがそのほとんどはいまは空だ。観光客向きではない住民主体のクラブといっても、土曜日の午後ともなれば客は多いのだろう。ほとんどの馬は馬場に出払っていた。 「ううん、ここじゃ繁殖はしないもの。それに乗用馬のほとんどはせん馬《ば》だから」 「『センバ』ってなに?」  理緒は一瞬くすぐったいような笑いを浮かべたが、 「去勢した馬のことよ。睾丸《こうがん》を取ってあるの」  さらりといってのけた。そして蒼がその意味を把握するより早く、一番奥の馬房へと小走りに行ってしまう。あわててついていくと彼女は、鉄棒を並べたドアの上からにょっきり伸びた、真っ黒な馬の顔を両手で愛撫している。 「紹介するわね。これがおじいちゃまの馬、ネーロっていうの」 「ふわあ、凄いね──」  動物はなんでも好きな蒼だが、さすがに初めて目の前で見る馬は大きい。その顔だけで、よりそっている理緒の顔の何倍あるだろう。 「馬って、こんなに大きいんだあ」 「ネーロは特に大きいの」 「体重、何キロくらいあるの?」 「五百キロは越えてるんじゃないかしら。でもこれで、一メートル以上ある障害もきれいに飛ぶのよ」 「障害って?」 「オリンピックで見たことない? 木の柵とか生け垣とか水濠とかを順に飛んで、タイムと失点の少なさで競うの」 「ああ、うん」 「前はもう一頭、ビアンコっていう馬場馬がいたのよ。さっきの障害に対して馬場っていうのは、人と馬の調和を競うっていうのかしら。おおざっぱにいうとフィギュア・スケートの規定問題みたいなことをするのね。一定の歩度で図形を描いたり。でもビアンコは去年の内に、人に譲ってしまったの。競技会にも出られるくらいの馬だから、きちんと定期的に乗ってあげる人がいないとかわいそうで」 「ネーロとビアンコ、か。あれ、どっちもイタリア語だね?」 「ええ。向こうから輸入した馬だから」  蒼はネーロの前に立ってみた。初め理緒の手に顔をすりよせて甘えていた馬は、いまはふたつの耳をこちらにピンと向けている。丸い瞳はちょうど人間の視線の高さだ。茶の底に青を沈めた色の目が、蒼をじっと見つめている。 「触ってもいい?」 「いいわよ」  手を伸ばして長い鼻面をそっとなでてみた。なめらかな毛足の手触りが不思議と快い。 「あったかいね。──あ、鼻の方はすごく柔らかいや」 「あんまり口の近くを触ると、噛《か》まれるかもしれないわよ」 「えっ……」  思わず手を引くと、ネーロは大きな鼻の穴を震わせてぶるぶるっといった。目が細くなり鼻面にしわがよって、黒い唇から大きな前歯が覗いている。なんだか笑われたような気がした。 「馬って、噛むの?」 「噛むわよ。剥《む》き出しの腕なんかだとペンチではさまれたみたいで、あざが二週間は消えないわ。──どうする、乗るの止める?」 「乗るさ!」  蒼は憤然として答えた。  だが内心ほっとしたことに、蒼が乗せてもらえたのはネーロではなかった。見るからにおとなしそうな栗色の雌馬で、体の大きさもずっと小さく感じられる。それでも初めて乗った馬の背は、思わずあたりを見回したくなるくらい高い。理緒がついていてくれるのかと思ったら、そうではなかった。顔見知りらしいクラブの指導員に二言三言いうと、 「がんばってね。私も少し乗ってくるから」  手を振ってさっさと行ってしまう。指導員は若い女性。といっても髪を男のように刈り上げて、日焼けた顔はまるで愛想もない。 「初めてですか?」 「あ、はい」 「もう少し肩の力を抜きましょう。体を固くしているとかえって危ないですよ。手綱は伸ばして、ぶらぶらするくらいでいいです。はい、蹴って」  馬はゆっくりと歩き出した。指導員は脇を歩いてついてくる。置き柵で小さく仕切った馬場だ。柵にそって歩いて角に来ると、馬は自分でちゃんと曲っていく。 「それが並足です。簡単でしょう? はい、じゃあもういっぺん蹴って」  いわれたとおりにしたら、馬の歩調がいきなり変わった。上下動が大きくなり、体が鞍の上でぽんぽん弾《はず》み出す。あわてて体を支えようにも、手綱は長く伸びているからなんの助けにもならない。足に力を入れたとたん、逆にぐいっと加速がついてしまう。これはもう歩いているのではなく、走っているのだ。  角まで来て止まるかと思ったが、止まらなかった。スピードも落とさずに曲ったとたん、振られた腰が鞍の上で外にすべる。体のバランスの崩れるのがわかる。 (やばいッ!)  背中に冷や汗が浮いた。 「体後ろに倒して、手綱引いて!」  いわれたとたん体が反応した。鞍の上で思いきって上体を反らす。気がつくとちゃんと馬は止まっていた。 「どうして急に走り出したんですか、この馬……」 「勝手に走ったわけじゃありません。あなたがそういう指示を出したからです」  指導員の答えはにべもない。 「速足になったとたん、あわてて脚に力を入れたでしょう。踵《かかと》が脇腹にきつく当たったんです。それで馬は駆足だと思ったんです」  つまり自分のミスだということになるのか。へたをしたらあのまま落ちていた。理緒がいなくて幸いだったのかもしれない。 (それともどこかで見てるのかな──)  馬上から顔を巡らせた蒼は、奥の馬場を黒い矢のように飛んでいくものにいきなり目を奪われた。それはネーロに騎乗した理緒だった。  広い角馬場いっぱいに、障害がいくつも設置されている。オリンピックの中継で見たように、かたちや高さもいろいろなら、飛ぶ方向もてんでんばらばらの飛越障害だ。その中を柵に沿って疾駆していく理緒とネーロ。さっき蒼の体験した駆足などとは較べものにならない速度だが、理緒の腰は鞍に吸いついたように離れない。軽く漕《こ》ぐような体の動きで、馬の上下動にぴったりと合せている。  馬場の端でくるりと反転したネーロは、障害のアプローチ・ラインに乗った。重さのないような軽やかさで、黒い巨体が宙に浮く。その背に理緒がいる。空中で軽く前傾した理緒は、着地と同時に体を起こす。と思う間もなく次の障害だ。  飛ぶ瞬間馬の首は大きく前に伸びる。乗り手は軽く鐙《あぶみ》の上に立ち上がり、体を前に倒して手綱を譲る。馬の首の動きを邪魔しないために。障害が高いか幅があるほど馬の動きは大きくなり、それについていく人の動きも大きくなる。見ていれば蒼にもすぐに、それだけのことはわかった。  だが理緒とネーロの飛越は、優雅なケンタウロスの舞踏だった。ふたつの体はまるでひとつのもののように、同時に伸び、起きた。走る。飛ぶ。浮かぶ。着地する。走る。すべての動きから動きがなめらかで、まったく無理がない。理緒の右手には鞭《むち》が見えたが、そんなものは少しも動きはしなかった。  一連の複雑な曲線を描き終えて、柵沿いを軽やかに走っていくネーロ。その毛並みはいまや汗に濡れて、陽射しに黒曜石のように輝いている。馬場の角で反転した。再び障害に向かう。馬が宙に浮く瞬間、ヘルメットの下から解き流した理緒の黒髪がさっとなびく。同時にネーロの黒いたてがみが、理緒の手の下でなびく。 「きれいだなあ……」  蒼は自分も馬に乗っていることなど、すっかり忘れてただ見とれている。 「まるで、羽が生えてるみたいだ──」 「ええ、彼女は凄いですよ。実力は全国レベルといっていい」  いきなり下から指導員にそういわれて、蒼はびっくりして相手を見下ろした。長身の女性指導員は、腕組みをしてじっと理緒に目を注いでいる。 「あなたは遊馬さんの、親戚かなにか?」 「知り合い、だけど」 「じゃ、なにか聞いてます? 彼女がどうして馬を止《や》めようとしているのか」    3  夏木という名の女性指導員は、理緒が乗馬を止めようとしているといった。理緒は子供の頃から東京の、オリンピック選手などを出している名門クラブに所属している。どんなスポーツも同じだろうが、いくら力のある競技者でも練習は一日も欠かすことができない。去年、つまり大学受験を控えた年にも、彼女は怠《おこた》りなく乗馬を続けていた。  それが今年の初めあたりから急にとどこおりがちになり、そのときはさすがに入試が近づいたためかと考えられていたのが、合格が決まってもなかなかクラブに顔を出そうとしない。ようやく姿を見せたと思うといきなり理由もいわずに、乗馬を止めるかもしれないなどともらしたのだという。  祖父歴に死なれたことは無論彼女にとって痛手だったろうが、そのためだとしたらなぜその死の直後ではなくて今年なのか。祖父以外の家族があまり彼女の乗馬に好意的でない、ということは確かにあるらしいが、それもいま始まったことではない。クラブの指導者にも理由がつかめないまま、遊馬家に縁深い『東伊豆ライディング・クラブ』にまでなにか心当りはないかと問い合せの電話が入ったらしい。 「なにかわかったら、知らせるようにします」  蒼は約束した。 「あんな凄いことできる人が、止めるなんて変だもの。それに彼女は馬がとっても好きなんだ。お祖父《じい》さんが亡くなったくらいで、止めたりなんかしないよ。むしろお祖父さんのためにもがんばるっていうよ」 「そうだね。私もそう思う。──で、どう。君は? また乗ってみたい?」 「もちろん!」  勢いこんで答えると、夏木は初めて白い歯を見せて笑った。  黎明荘に戻ると京介と深春も、ちょうど仕事を終えたところだった。車を出して百三十五号を南に十キロほど下り、今井浜海岸にできたばかりだという町営温泉へ汗を流しにいく。屋内の風呂は意外と狭かったが、離れて庭にある露天風呂は目の前が波打ち寄せる磯浜で、いかにも伊豆の温泉という感じだ。  夕飯は、まだ時間も早かったのでさらに南に下り、安くてうまいと栗山深春推薦の下田の魚料理屋に行った。京介はどこか心ここにあらずという感じで、温泉も食事もどうでもいいようだ。もっともこれは珍しいことでもないので、蒼は全然気にもしない。理緒はやはりどことなく沈んでいる。こちらは少し気になったが、食欲の前にはちょっと脇に置かせてもらう。  店の造りはちゃちだが安くて味はいいという触れこみだったが、いつの間にか四階建てのビルに建て替わっていて深春自身がびっくりしている。しかし幸い中身に変わりはなかったようで、新鮮な刺身や焼き魚、骨まで食べられる金目鯛の唐揚げやら茶碗蒸しやら、料理の味はどれをとっても文句のつけようがなく、しかも確かに値段は東京の半分かと思えるくらい安かった。  夜は黎明荘の庭にキャンプさせてもらうことにした。理緒は自分の寝室を使うというので、蒼たち三人は外のテントに寝袋だ。最近のは地面に杭《くい》なんか打たないんですよ、と張るところを見せてようやく蔵内氏に許可をもらえたのだ。植物の灌水《かんすい》用に黎明荘の水道は止めていないので、トイレは使用可能だが、電気もガスも止まっている。コールマンのツーマントル・ランプを点火して、元は植木鉢をかけていたのだろうポーチの柱から下げると、闇の中にあざやかな芝生の緑が浮かび上がった。 「さっきの魚料理もうまかったけど、ほんとはここでぶわっと焚《た》き火《び》してバーベキューできたら最高だよな」  深春がストーブで湯を沸《わか》しながらいう。 「アウトドア・ライフとかいってさ、こういうこぎれいな道具でちまちまやってるのって好かないんだよな、俺。やっぱりキャンプはワイルドじゃなくちゃ。拾ってきた石積んで火おこしてさ、その上にこう魚でも海老でも貝でものっけて……」 「うん。でもさ、こんなきれいな芝生だもん、火なんか焚かしてもらえっこないよね」 「ちぇっ、これだけの庭ならバーベキュー炉くらい作っとけってえの。ブロック積んで鉄の網置いて、海老がぴちぴちっ、さざえが口からあぶくブクブク、それが火の上に落ちてしゅんっ、しゅんっ──」 「うっ、美味しそう……」 「君たちは、いま夕飯済ませてきたばかりでどうしてそういう話になるんだ──」  寝ころがっていた芝生の上から、京介がうんざりしたような声を上げる。 「ほかに考えることはないのかってか?」  深春が髭の中から歯を剥いて笑った。 「だったらほれ、先生よ。コーヒーいれてやるから、食後の腹ごなしに研究発表といったらどうだい」 「研究なんてことばに値するものが、あるわけないだろ、まだ」 「しかしなにか考えてることはあるはずだぜ。おまえさん、昼間っからずっと上の空じゃないか」 「──まあね」  京介は芝生の上でごろりと寝返りを打つと、胴の長い犬みたいなかっこうで腹這いになる。ムク犬というにはやや痩せすぎているものの、ボルゾイかアウガン・ハウンドといったら誉《ほ》めすぎだろう。  だが彼が口を開く前に、理緒が立ち上がった。 「ごめんなさい。私、疲れたからお先に寝ます」  蒼はあれっと拍子抜けする思いだ。今夜みんなでゆっくりできれば、彼女の口もほぐれてくるのではないかと期待していたのだ。しかし京介はポーチのガラス扉を開けて寝室に入っていく理緒を、止めるようすもない。 「初めに聞くけど君たち、この黎明荘を見てどう思った?」 「どうって、典型的なスパニッシュ・スタイルでしょ?」 「そう。インテリアなんか、アンダルシアの民家そのままって感じがしたな」  蒼と深春がこもごもにいうのを頬杖ついて聞いていたが、 「じゃあ僕の考えをいおうか。この家は実に奇妙な家だよ。そしていま君たちがいったせりふ自体が、その矛盾点を余さず指摘している」 「なんでー?」  さっき胸をかすめた直観のことなどすっかり忘れて、蒼は唇を尖らせて反論する。 「昭和初期にはスパニッシュの住宅建築がすごく流行《はや》ったって、京介んとこで読んだ建築史の本に書いてあったよ。藤森照信の『日本の近代建築』」 「あれは名著だ」 「でしょ。あったかい伊豆にあったかいスペイン風の別荘。全然奇妙でも矛盾でもないじゃない」 「どんな名著でも不正確な読み方をされたらなんにもならない。半端な理解は理解ではないって、いつもいってるだろう?」  あっさり切り捨てられて蒼はふくれたが、深春の反応は当然ながら遠慮のかけらもない。 「だからどうだっていうんだよ。毎度ながら思わせ振りなんだよな、おまえのしゃべり方は」  垂れかかった前髪の中から苦笑するような声をもらした京介は、 「OK、それなら手っとり早く行こう。確かに蒼のいうとおり、昭和初期の住宅建築にはスパニッシュが流行った。だがそれはスペインから直接日本に来たわけじゃない。学ぶために海外に渡る日本人の数はますます多くなっていたが、それは常に先進の知識に向けられていたので、スペインなんていう過去の大国との結びつきは無に等しかった。  それはアメリカ経由でやってきた。移民によって持ちこまれカリフォルニアに広まった様式が、モダニズムや田園趣味の愛好といった時代の傾向にマッチして、日本でも大きく受け入れられることになったんだ。当然ながら日本のスパニッシュは、スペインの民家建築とは似てはいても重ならない。ひとつにはカリフォルニアというフィルターがそこにあるからだが、もうひとつには日本とスペインとでは風土があまりにも違いすぎるからだ。しかしこの家の与える印象は、非常にスペインの民家に近い。そうだな、深春」 「ああ、確かに──」 「でもそれはさ、スペイン帰りのお祖父さんが自分でデザインしたからでしょ? 一般的なスパニッシュとは違うっていうのはわかったけど、奇妙とか矛盾とかいうほどのことでもないじゃない」  蒼は反論を試みる。だが京介は、そんな反応もちゃんと予想していたようだ。 「それに答える前に、日本とスペインとの風土の差ということをもう少し考えてみよう。中庭を中心にして部屋を配置する住宅形式は、古代以来地中海世界では普遍的なものだ。温暖小雨の地中海性気候が、その背景にはある。  日本との大きな違いは、陽光に対する扱いを考えればわかるだろう。日本では伝統的に南側に主たる部屋を配置し、窓を開けて採光を図る。だが夏にはアフリカ並みの陽射しが降り注ぐ南スペインでは、暑熱を避けるために壁は厚く、窓はあくまで小さく作られる。四囲を壁に囲まれ涼しい日蔭に富む中庭は、こういう環境で戸外生活を楽しむための優れた手段なんだ。  しかし日本でスペインのような中庭を作っても、雨は多いし湿気はたまるし、少なくとも関東以北ではとても同じようにはいかない。似たような楽しみ方をしたいなら南側に庭を広く取って、ポーチを張り出しでもする方がずっといいだろう。だから日本のスパニッシュ住宅を見ても、中庭、パティオのある作例はそう多くはないはずだ」 「でも、黎明荘だってちゃんと庭側にポーチはあるし、パティオの上にはガラスの屋根がかかってたじゃない」 「そう。だがなぜ遊馬歴は、そうまでしてパティオを作らねばならなかったんだ?」 「なぜって……」  いい淀んだ蒼に代わって深春が答える。 「そりゃ、自分が見てきたスペインの家をできるだけ忠実に再現したかったんだろう」 「それは確かにひとつの、そして相応の妥当性ある解釈だ。玄関ホールや食堂に置かれていた家具を見ても、それは感じられる」 「飾りのタイルまで日本で作らせたっていうんだから、驚くよな」 「うん、すごい執念て感じ」 「だが奇妙なことに、この家はスペイン民家の忠実な再現ともいえない」 「なんだよお」  京介の隣で腹這っていた深春が、がくっと肘を崩した。 「おまえの話し方ときたらまったく、どこが手っ取り早くだよ。夜が明けっちまうぞ」 「でもさ、この家って外から見るとやっぱり、わりと普通の日本風スパニッシュだよね。庭側にはポーチがあるし、食堂や寝室には広い窓が開いてるしさ」 「そう。主人の部屋を別にすればね」  京介の視線をたどって、蒼は顔を振り向けた。黎明荘の庭側には、煉瓦色のスペイン瓦を載せた軒庇《のきひさし》のあるポーチが作られている。そして庭から見れば左に理緒の寝室、右に食堂のガラス扉が壁面いっぱいにそれぞれ開いている。だが家の中央、遊馬歴のあの瞑想室めいた部屋のある部分の壁には、ほんの小さな明かり取りのほか、窓がない。こちらからだけ見れば、そこに部屋があるとはちょっと思えないだろう。一続きのポーチの柱に隠されて、おまけに左右の部屋がやや張り出し気味になっているので、中央にある不自然な壁があまり目立たないのだ。 「つまりおまえがいいたいのはこういうことか? 黎明荘は日本の一般的スパニッシュ住宅とは違う。それはスペイン帰りの素人が自分の見聞にもとづいて設計したからだが、そこにはインテリアや家具や当人の窓なしの部屋みたいに強引に現地式を敷き写した部分と、寝室や食堂の大窓、ポーチ、パティオのガラス屋根のような日本の風土に妥協した部分が混在している」 「整理してくれてありがとう」  皮肉でもないらしく礼をいった京介は、だが、とことばを継ぐ。 「それを前提とした上でさらに、黎明荘には奇妙というか不審な点があると僕は思う。これを見てくれないか、ふたりとも」  芝生の上に開いたのは一冊のスケッチブックだ。午後もう一度家の中を歩いたときに、取り敢えず部屋の配置を書き留めたらしい。造りはシンプルな平屋建てだから、ざっとしたラフスケッチで充分感じは掴める。 「見てのとおり家の中心にパティオがある。玄関から入って右に短い廊下と客用寝室。左に食堂、厨房、バス、トイレ、使用人部屋と勝手口。正面がパティオでその奥に主人の部屋だ。今朝ぼくたちは、いまいった順番で部屋を回った。玄関から寝室、玄関から食堂、玄関からパティオを通ってその奥の部屋。そうだな?」  なにをいまさらくどくどしくいうのだろうと思いながら、蒼はうなずく。 「そうだよ。でもそれがどうしたの?」 「待てよ……」  顎を掻きながらつぶやいたのは深春だ。 「ははあ、そうか。こりゃ確かに変だよ」 「深春なら真っ先に気がつくと思ったがな」 「インテリアがあんまりそれらしいんで、それでだまされた感じだな」 「ちぇッ、なにふたりだけで納得してんのさ」 「なあ、猫小僧。ちょっと考えてみろよ。どうして俺たちは今朝、あんな回り方をしなけりゃならなかったんだ?」 「止めてよ、その猫小僧っての。妖怪じゃないんだから。──どうしてって、それ以外回りようがなかったじゃない」 「そうだよ。寝室も食堂もパティオの左右に壁一枚へだててあるのに、その壁にゃあドアどころか窓ひとつなかった。こんなパティオはスペイン中探したってあるわけがないんだ」 「そう、か……」  まばたきして今朝の記憶を探る。蒼の視覚的記憶力はカメラ以上だ。ほぼ正方形のパティオ。鉄骨にガラスの天井の下には四方からポーチと同じに瓦の載った軒が出て、その軒を白い円柱が支えている。一辺に二本ずつ。玄関側と部屋側には戸口の左右に、だが残る二方の柱の向こうは、飾りタイルを散らしただけのただの壁だった。 「ああいうのって、向こうにはないの?」 「ないよ」 「でも、お祖父さんの知ってる家はそうだったのかもしれないじゃない」 「いいか、蒼。地中海世界の住宅において中庭というのは、さっきいったような楽しみのための場であると同時に、部屋と部屋を結びつける動線の要《かなめ》だったんだ」  講義の口調で京介はいう。 「古代ローマの大型住宅では採光と換気の機能を重視した玄関に直結するアトリウムと、歓楽の場としての中庭であるペリスタイルが分離していたし、戸外生活を楽しむにはやや気候のきびしいヴェネツィアあたりの中庭、コルテは、外階段と貯水槽を備えた実用的な空間だった。だがいずれにせよ家の中心にパティオの空間を取りながら、周囲の部屋からの開口部を持たない、これは矛盾としかいいようがないんだ。スペインにそんな家があったとしたら、黎明荘以上の謎だということになってしまう」 「でも、寝室や食堂にはちゃんと庭向きに窓があるよ。だからパティオ側に窓はいらなかったんじゃない?」 「そう考えるとまた、矛盾が出てきてしまうのさ」 「え、どーして?」  京介はぱたんとスケッチブックを閉じると、寝返りを打って仰向けにころがった。 「遊馬歴は自分の見聞にもとづいて、できる限り忠実にスペイン風の住宅を建てたかった。しかし日本の風土条件のために、一部は妥協せざるをえなかった。それがさっきまで黎明荘の構造を検討して、たどりついた前提だったはずだろう」 「うん」  京介は前髪の間から、眼鏡を引き出して外す。 「ではなぜ彼はパティオのふたつの壁に、いかなる開口部も作らなかったのか。それは少しも日本の風土から来る制約ではなく、しかもそのことによってスペイン民家の原型からも明らかに隔たってしまうにもかかわらず」 「そう、だよね……」  ようやく遅まきながら蒼は、あのパティオに足を踏み入れたとたん胸に湧き上がった、直観というか、異様な感覚を思い出す。別に汚れているわけでも、ほこりまみれなわけでもないのに、ここは廃墟だ、という感覚。そしてこの家はどこか変だ、という気分。  パティオということばの持つ響きに反して、妙に陰気な空間だった。あんまり長いこといたくない、そんな感じさえした。寝室や食堂や、この芝生の庭の与える印象とはおよそ対照的に。それはつまりこの、存在するはずのないものを目の前にしたときの違和感だったのだろうか。 「設計ミスとは考えにくい。また彼がほかの部分ではスペインの再現を、まったく志向していなかったとも思われない。つまり彼はその志向にもかかわらず、意図的に、世界のどこにもあるはずのない奇妙に閉鎖的なパティオを作ったということになる。それはなぜか、というのが黎明荘のはらんでいる謎というわけなのさ」 「おまえ、その答えもちゃんとわかってるんだろうが」  しばらく黙っていた深春が、ぼそりという。 「さっき蔵内の爺さんを感服させた例のせりふは、そのあたりから出てきてるんじゃないのか?」 「半分は仮説、半分ははったり。そして底にある理由の方は、当然ながら全然わからないけどね」 「ほんと、京介。ほんとにわかってるの?」  蒼は眼鏡のない彼の顔を覗きこんで尋ねる。 「二方の壁に開口部を作らないことで、黎明荘になにが起こったか──」  さすがにしゃべり疲れたのかもしれない。京介は腕枕をしたまま、ぼんやりとした口調で答えた。 「この小さな家は、ふたつの部分に分離されてしまった。玄関に通ずるドアを閉めれば、主室とパティオは完全に外に対して閉ざされる。貝のように。牢獄のように」 「ああ──」 「閉じこもること、それが設計者の当初からの意図だったとしか思えない。外壁に小窓のあるのが、いっそ不思議なくらいだ」 「…………」 「こんな明るい、暖かな、開けた景色のさ中で彼は、なにを拒んでいたのだろう。分厚い壁の中で、ほの暗いパティオを見つめて、ひとりでなにを考えていたのだろう。たぶんいまとなっては、だれにもわからないことなんだろうさ。でもそんな人間のことを思ったら、『悲しい』とより呼びようがないじゃないか」  背後でこすれるような音がした。蒼は反射的に振り返った。真後ろのポーチの奥、食堂のガラスを僅かに開けて、立っていたのは寝たはずの理緒だった。 「あ、あー、びっくりしたあ」 「ごめんなさい……」 「ぼくたちうるさくて、眠れなかった?」 「違うの。私、ずっと立ち聞きしていたの」  彼女がどうしてそんなことをしたのかわからなくて、蒼は目をぱちくりする。 「桜井さん、いいでしょうか。私、聞いていただきたいことがあるんです」  京介は驚いたようすもなく、ゆっくりと体を起こす。その顔にはもうちゃんと眼鏡と前髪がかかっている。 「研究室にお邪魔したときも、ほんとうは話したかったんです。でもどうしても決心がつかなくて、笑われたりしたくなかったし。でもいまのお話を聞いていて、気持ちが決まりました。どうか、聞いてください」 「聞くだけなら」  さっきまでの熱のこもった物言いとは別人のような、無愛想な口調で京介は答える。 「ですが遊馬さん。この前もいったとおり、僕に名探偵ホームズを期待されても困りますよ。あなたの抱いている疑惑がそれほど深刻なものなら、むしろ警察に話すべきでしょう」  青ざめていた理緒の顔に、稲妻のように怒りの色が走った。 「お話しするまでもなく、すべてお見通しだとでもいうんですか」 「とんでもない」  例のなんの感情も表わさない淡々とした声音で、桜井京介は首を振る。 「聞くだけでいいというなら、伺いましょう。どうしてあなたは遊馬歴氏が、あなたの母上に殺されたなどと思っているのですか」   白馬の肖像    1 (ったく……)  蒼は内心舌打ちをする。桜井京介という男はどうしてこうも、人並外れて性格が悪いのだろう。  あの日、理緒が初めて訪れた大学の研究室で、話そうとして話せなかったことを推察するのはそれほど難しくはなかった。彼女はかなり唐突に、京介が殺人事件の犯人を見つけたなどという話題を口にした。それもいうつもりはなかったのに、うっかり口走ってしまったみたいな表情だった。一番いいたかったはずのことをいえないまま結局理緒が彼に求めたのは、伊豆の別荘を見ることと家族に会うことだった。さらに別れ際に京介が指摘した、彼女の奇妙な口ごもり。それをいおうとする度に顔色が変わりかけたり、不自然な間が空いてしまったりすることば。それは『母』だった。一方で理緒はその一年足らず前に、祖父遊馬歴を失っている。  意識しないで口からこぼれるほど気にかかっている事柄、すなわち殺人事件。加えるに現場、容疑者、被害者。これだけ要件がそろえば、結論は決まったようなものだ。蒼だってそれくらいのことは、とっくに考えついていたのだ。  だがなにも相手がせっかく口を開こうとしているところに、そんな横面を張るようなことばをぶつけなくともよさそうなものだ。たいていの女の子ならそれだけでパニックして、泣き出してしまうかもしれない。さもなければカッと頭に来て、相手をぶん殴るのではないか。  しかし蒼が感心したことに、遊馬理緒はそのどちらの反応も示さなかった。大声を上げたいのをこらえるように、顔を伏せぐっと下唇を噛む。両手を胸の前に握りしめ、深く息を吸った。ふたたび上がった顔には京介を見つめる目のきつさのほか、動揺の気配はすでにない。 「とにかく、聞いていただけるのでしたら話します。長くなりますけど、そうでないとなぜ私がそう思ったのか、わかってはいただけないでしょうから」  この子もやっぱり並みじゃないや、と蒼は思った。  時刻も夜半近くなって、さすがに空気も冷えてきている。寝るだけならテントで済むがそれでは話などできないので、四人は屋内の食堂に席を移した。ダイニング・テーブルに置いたコールマン・ランプが、ややまぶしすぎるほどの光を四方に投げかける。  だが昼は明るい空と海を見せていた庭側のガラス戸も、夜のいまは室内の光景を映す陰鬱な大鏡だ。たった四人には広さも天井の高さも充分すぎるほどなのに、妙に息苦しい気分がする。それはカップボードを置いた壁の向こうの、閉ざされたパティオを意識してしまうせいだろうか。  蒼が新しくいれなおしたコーヒーのカップを両手に握ったまま、理緒はやや伏し目がちに口を開いた。 「祖父が、自分の部屋の床に倒れて死んでいるのを見つけられたのは、去年の八月十六日、月曜日の朝早くのことでした。前夜東京に行っていた蔵内さんが、帰ってきて発見したのです。仰向けに倒れて後頭部を打って、もう体は冷えきっていたそうです。いちおう不審死ということで警察の調べもあったそうですけど、八十六歳の老人なら床にすべって倒れてそのままでも不思議はないということにされてしまって、事故として処理されてしまいました。でも──」 「でも理緒ちゃんにはどうしても、そうとは思えないってわけだ」  深春が合いの手を入れる。京介は椅子にもたれたまま、なにもいわない。 「ええ、そうです」 「その理由が聞きたいな」 「私、その二日前にここに泊まっています。いつものようにいっしょに食事をして、翌朝は馬に乗りました。元気でした。足が弱っているなんてことも、全然ありませんでした」 「うん。だがそれが根拠じゃあまりにも薄弱だな」 「もちろんそれだけじゃありません!」  理緒は両手をテーブルについて、深春の髭面をきっと睨みつける。 「蔵内さんが帰ってきたとき、鍵が開いていたそうです。それも門も玄関もパティオのふたつのドアも、すべて。夜の間鍵をかけないなんてそんな不用心なこと、祖父はいままで一度もしたことはありません。  それに蔵内さんが前の夜留守にしていたのは、日曜の午後になって急に祖父から買物をいいつけられたからでした。それもそう急ぐとは思えないスペイン語の本を、どうしても見たいからその日手に入らなければ一晩泊まって、月曜に探してくれといったそうです。だからそのことば通りにしていたら、もう半日以上も祖父は発見されないままだったはずなんです」 「なんだかそれ、蔵内さんにここにいて欲しくなかったからみたいだね」  理緒は暗い顔でうなずく。 「蔵内さんが祖父の用事で東京まで行くことは、月に一度くらいはあったといいます。でもそれはちゃんと前もって予定を立てて、一日で片付くようなことばかりで、その午後になって急にいい出して、泊まっても探してこいなんて、そんな強引ないいつけ方をすることはなかったんです。本ならなじみの書店に電話で注文して、送ってもらうのが祖父のいつもの遣《や》り方でしたし。ですから蔵内さんはその晩は品川のビジネス・ホテルに泊まってみたものの、どうにも気持ちが落ち着かなくて、怒られるのは覚悟で翌朝一番早い電車に乗ったのだそうです」  それに、と理緒はことばを継いだ。 「蔵内さんだけではないんです。私は金曜日に二、三日泊まっていくつもりで来たのに、土曜日にはもう帰りなさいって、そんなことをいわれたのもあのときが初めてだった。月曜日から富士吉田で乗馬クラブの合宿に合流するつもりだったから、東京に戻るよりここから行く方が楽だし、それまでいさせてっていったのに、おまえは受験生なんだから少しは勉強しないといけないなんて、なんだかとってつけたみたいにいって、笑ってたわ、自分でも。それがおじいちゃまと話した、最後……」  だが理緒は追憶を振りきるように、きつくかぶりを振った。 「祖父は日曜の夜、だれか客を迎える予定でいたんです。でもそれは私にはもちろん、蔵内さんにさえ知られてはまずいことだった。あのときの祖父の言動の理由は、それ意外考えられません」 「うーん、なるほど。状況証拠、だがなあ──」  深春はうなりながら顎をひねる。 「無視するにはいささか気懸かり、てとこか……」 「それだけではないんです。これはむしろ蔵内さんに聞いてもらう方がいいことなのですが、倒れた祖父の頭のそばには木の小テーブルがひっくりかえっていました。祖父はそのテーブルの角に頭をぶつけたらしいのです。近くには赤ワインを入れたクリスタルのデキャンタとグラスが砕けて、散らばっていたそうです。これが、そのセットの残りですけど」  理緒は立ち上がって、無骨なスペイン風のカップボードを開く。小さな楕円の盆にふせられた、卓上ベルみたいなかたちの足の長いカット・グラスだ。細工がすばらしく細かい。理緒がその細い足を指でつまんで持ち上げると、コールマン・ランプの強い白色光に宝石のようにきらめいた。 「うわあ、きれいだ──」 「ハンド・カットのボヘミアン・グラス。いまではとても手に入らないだろう逸品だって聞きました。戦前から祖父が大切にしていた品で、グラスが六個とデキャンタのセットだったのですが」 「四つしかないよ」 「でも床に落ちていたグラスの破片は、一個分だけだったんです」  深春がひゅっと低く口笛を吹く。 「つまりそいつは客が持ち去ったってわけか」 「指紋隠しに?」 「いや、それよりも割れてないなら洗って返しておくのが一番いい。だが傷物になっちゃあそうもいかない。といって床に落ちたグラスがふたつあったら、その場にもうひとり人がいたのは一目瞭然だ。それであわててかけらを拾い上げてってとこだな」 「そのこと警察にはいったの?」  理緒は首を振る。 「蔵内さんが残ったグラスの数に気がついたのは、お葬式も済んでしまった後だったのですって。もちろん破片は処分してしまった後でした」 「惜しいな。それが残ってたら、調べられたかもしれないのにね」  注意深く集めてみればそのかけらが、グラス一個分より多いことがわかったかもしれない。いっしょに砕けた中から自分の使ったグラスの破片だけを完璧に拾い上げるなんて、できるはずはないからだ。 「私はでも今年の初めに、蔵内さんから手紙をもらって──」 「確かに、おじいさんが倒れたときその場にだれかいた可能性がある。それはわかったよ、理緒ちゃん」  深春が木の根のような太い腕を胸の前に組む。 「しかしそのだれかを、その」  さすがに母親とはいいかねるらしく、ことばを淀ませて、 「特定の個人と考える根拠はあるのかね?」  深春のためらいがおかしかったのか、理緒はかすかに笑った。 「その週末母は修善寺にいました。そこに母の実家の杉原家の別荘があって、伯母、つまり母の姉と、母と、うちの姉たちが滞在していたんです。東京に残っていた父が夜電話したら、まだ八時前なのに伯母がもう寝たって、昼から風邪気味だったからといったそうなんです。でも私、後になって偶然アルバムを見たら、『8/15』の日付のあるスナップがありました。海岸で、ノースリーブを着て笑っていました。全然風邪気味なんかに見えなかった。どうして伯母は父に、そんな嘘をついたんでしょう。──たぶんその時間、母はもう修善寺にはいなかったんです」  理緒はきつい口調でいいきった。 「んー」  腕を組んだまま天井を見上げて、深春は変な音をもらす。 「修善寺から熱川、距離はどれくらいだ?」  それも何度となく考えたことなのだろう。理緒は即座に答える。 「五十キロもありません。天城峠から河津に出て北に上がっても、伊豆スカイライン経由で南下しても、同じくらいです」 「するといくら暗い夜とはいえ道は空いているころだろうから、一時間とはかからないというわけだ」 「ええ、そうです」 「しかし理緒ちゃん、アリバイがないからってそれだけで、人を犯人扱いするわけにはいかない」 「動機、ですか?」  理緒はまた少し笑った。暗い笑いだった。 「それも、あるんです」    2 「──私の父と母は、ほんとうに嫌なことばですけれど打算の上の結婚でした。母が私たちに自分でそういうんです。お義父《とう》さんは私の家のお金が必要だった、私の家は遊馬のコネクションが欲しかったって。ええ、お金が要ったのは祖父の方でした。たぶんこの黎明荘と、最後に残った何頭かの馬を手放さないために。  母の実家である杉原家は横浜の資産家です。私立杉原学園という、小学校から短大まであるわりに名の知れた女子校を経営していて、いまの学長は母の姉、杉原|静音《しずね》という人です。さっき、父が別荘に電話したとき出た、といった伯母がこの人なんです。  母は遊馬|明音《あかね》といいます。もともと事業家肌の人で、結婚前の二十代初めのころから横浜市内にレストランを開いたりしていたそうです。この数年はジュエリー・ブティックのチェーンを広げているようで、日本全国どころかヨーロッパ、アメリカまで飛び歩いています。ところが父は根っからの学者で、お金のことなんてなにもわからない、書斎にこもっているのが一番いいという人ですから、これほど性格の合わない夫婦も珍しいでしょうね。家族旅行どころか、父と母が同じ食卓につくこともめったにない。でもうちでは物心ついたときからその調子でしたから、別に不思議だとも思いませんでした」 「──あすま・あかね、か。すると『ジュエリー・アカネ』が彼女の?」  そういったのはいままでずっと黙っていた京介だ。理緒はびくっとしたように目を見開いたが、うなずく。 「そうです、ご存知ですか?」 「オリジナルなデザインで、若い女性向きの比較的安い商品を主に扱って、よく伸びている店だとなにかで読んだ覚えがあります」 「京介、なんでそんなことまで知ってるのさ?」 「別に」  そしてまた黙ってしまう。まったくあきれた男だ。理緒もあきらめたように、京介から視線を外してまた話し続ける。 「祖父は父と母の結婚を期に、伊豆へ移ったのだそうです。もちろん私の覚えている限り、ずっとこの家に住んでいました。東京に出てくることはあるらしくても、松濤の家に寄ることはありませんでした。修善寺の杉原家の別荘は休みに決まって行くところ、というより、そこ以外どこへも連れていってもらえなかったのですけど、この熱川には立ち寄ることさえ一度もありませんでした。  でもどういうわけか私だけが、それこそ幼稚園に行く以前から、黎明荘には泊まりに来ていたんです。小さいときは蔵内さんが連れに来てくれて、少し大きくなってからはひとりで電車に乗ってきました」 「お父さんもいっしょには来なかったの?」 「ええ。おじいちゃまが亡くなるまでは、私の知っている限り来ていないと思うわ」  とすると嫁と舅《しゅうと》だけではなく、父と息子の仲もよくはなかったらしい。 「でもさ、お父さんがスペイン文学やってるのは、絶対におじいさんの影響だよね」 「それはそうね。パパも子供のときには、連れられて来たのかもしれない。いつか乗馬クラブの馬房で、おじいちゃまがもらしたことがあったわ。あいつは臆病者だ、ここで馬の顔を見せたとたん泣き出したって。孫どももみんな同じようなものだ、おまえだけだ、泣かなかったのは──」  理緒はそのまま回想に落ちたように、ふうっと黙りこんでしまう。深春にひとつわざとらしい咳ばらいをされて、はっと顔を上げた。 「ごめんなさい。話、続けますね。──さっきいったみたいに、私の家族は初めからばらばらでした。ばらばらなのがあたりまえに思えるのですから、それがどうしてかなんて子供は考えもしません。顔を合せることもないので、喧嘩《けんか》しているところを見ることだってなかったんです。  でも、どう考えても不自然です、そんなの。いくらおじいちゃまが頑固で偏屈な人嫌いの性格をしていたとしても、少なくとも私にはとってもやさしい人だった。なのに父も母もまるで彼を避けるようにしていて、母なんか私が熱川に行くというたびに、嫌でたまらないというように顔をしかめるくらいでした。  だから私、いまになって思うんです。うちの親たちの間には、私の知らない不和の原因があったのじゃないかって」 「だがね、理緒ちゃん。お舅さんと折り合いの悪い嫁さんなんて、この世にゃ掃いて捨てるほどいるぜ。親父の顔を見たくないせがれもさ」  深春が口をはさんだ。 「それも問いだたしてみたところで、大した理由があるわけでもないんだ。ただ虫が好かない、気が合わない。他人なら会わなけりゃそれで済むのが、家族だからかえって始末悪いってものでさ。かくいう俺にしたって、親父と会うのなんざ年一がせいぜいでね」  だが理緒の思いつめたような表情は変わらない。 「私もそう思っていました、去年までは。八月におじいちゃまが死ぬまでは。その数日前に母が黎明荘に来て、おじいちゃまとひどい言い争いをして、しかもそのことを、蔵内さんを威《おど》しつけるようなことまでいって口止めしていたとわかるまでは──」 「ええ、ほんとに?」 「そりゃまた……」  蒼と深春はそれぞれに、そんなことばをもらしている。 「威しつけるとは穏やかじゃないなあ」 「しかもあの蔵内さんだよ、相手は」 「確かにあの、だな」 「祖父の葬儀に東京へ出てきた蔵内さんをわざわざよそへ呼び出して、念押ししたそうです。くれぐれも誤解を招くようなことを口にして、遊馬家の名に泥を塗ったりしないようにして欲しい。さもないと黎明荘を残すこともできなくなる。  蔵内さんはそのときはもちろん祖父の死は事故のためだと思っていましたから、わざわざ警察にも母が来たことを話すまでもあるまいと思ったそうです。でも後になってグラスの数のことにも気がついて、そうすると玄関の鍵の開いていたことや、命ぜられた買物の不自然だったことが気になってならなくなって、──その上母の許可をもらったという不動産屋までうろうろするようになって」 「不動産屋? ──」 「ええ。私が聞かされるよりずっと早く、取り壊しの計画はできていたんです。蔵内さんが私に手紙をくれたのは、そのこともあったからだと思います」 「──言い争いの理由は、わかっているのですか」  京介だ。ずっと黙っていていきなりぽつんぽつんとものをいうのだから、そのたびについどきっとしてしまう。 「推測はできます。蔵内さんが聞いたのは、ほんのひとことですけれど。──『ブルー・サファイヤ』って」    3 「ブルー・サファイヤって、あの、宝石のこと?」  思わずばかなことを聞き返してしまった。あまりにも縁のないことばだったもので。 「あ、そうか。お母さんのお店って宝石屋さんなんだよね。でも……」 「続きはパティオの方でしませんか。お見せしたいものもあるし」  理緒は椅子から立ち上がった。正直いって気が進まないな、と蒼は内心思う。昼間でさえどことなく嫌な雰囲気が漂っていたあそこへ、こんな真夜中に行くのはあまり嬉しくない。しかし深春はさっさとランプを持ち上げて、先に立ってしまう。当面明かりはそれしかないのだから、置き去りにされてはたまらない。  蔵内から借り出してあった鍵で、パティオへの扉を開ける。二重になったドアのうち木の扉の方は開けておいてもらう。蒼は狭くて暗いところが苦手なのだ。  昼見ても陰気な感じがしたが、夜のパティオはいっそう陰鬱だった。コールマン・ランプの投げる長い影が、灰色の大理石に踊っている。干からびた噴水、植木鉢のない鉢掛け、明かりのつかない吊り灯…… 「ちょっと、手伝ってもらえませんか」  理緒の声に飛んでいった。彼女は窓のない壁際に寝かせて立てかけてあった、ドアくらいある板を持ってこようとしているのだ。耐水紙のようなものでくるんで、紐がかけてある。けっこう重い。パティオまで引き出して縦に起こして、円柱の一本に寄せかけると紐を解き紙を外す。中から現われたのは、額に入った一枚の油絵だった。  かなり古いものなのだと思う。絵の色が汚れてくすんでいる感じがある。そのところどころにやけに明るく見えるところがあるのは、汚れを落とそうとなにかでこすりでもしたのだろうか。ダヴィッドを思わせる緻密で写実的なタッチで、描かれているのはひとりの男と、そして一頭の馬だった。  男はそんなに若くもないが中年というには間があるという感じ、黒いシルクハットに黒い燕尾服《えんびふく》、ただズボンはぴったりした白で、膝までの黒い乗馬ブーツを履《は》いている。なんとなく暗い思いつめたような目つきでこちらを見ながら、馬の顔の前に向い合せに立ち、手袋をした左手で馬の轡《くつわ》を押さえている。だがこの絵の主題は明らかに馬の方だった。  こんなきれいな馬、見たことがない……  馬のことなどなにもわからない蒼も、そう思わないではいられない。今日乗馬クラブで見たり乗ったりしたのはサラブレッド、競馬に使う競走馬のほとんどもサラブレッドだ。それとは明らかにプロポーションが違う。顔はやや大きく、首は太く、四肢もやや太い感じがある。といって北海道の道産馬《どさんこ》のように、ぼってりと太っているわけではない。均整の取れた彫刻的で厚みのある馬体は、むしろこれこそが馬本来の体型だ、そう思わせさえする。  そしてすばらしいのは毛色だった。輝くような純白の首と胴、尻と足には叢雲《むらくも》のような灰色の模様がかすかに入り、弓なりに上げた首筋から風にたなびくたてがみと豊かな尾はこれもかすかにグレーをまじえた純白だ。  轡を捕えた男の目は画面の外を向いているが、彼の前に右前肢をもたげて立つ白馬は、その大きな丸い目をじっと男の顔に向けている。  金塗りの額縁には小さな札がついていた。『黎明号之図/1940』 「若いときのおじいちゃまと、おじいちゃまの馬よ」  つぶやいた理緒の声がわずかに湿っていた。 「こんな馬、生きてるときに私も会いたかった」 「ははあ、これがはるばるスペインから連れてこられたってやつか」 「正しくはその生んだ仔。たぶんいまにいたるまで、日本の土を踏んだのはこれだけだろう純血のアンダルシアン」 「黎明号、か。すると馬の名前が主で別荘の名前は従なのかな」 「そうかもしれない。サラブレッドでもそうだけれど、芦毛《あしげ》の、つまり白い毛の馬も子馬のときは茶色なの。おとなになるにつれて、だんだん白くなっていくわ。黎明って、そう考えるとぴったりする名前じゃないかしら」 「うん、ほんとだね」 「ね、わかる? ここよ」  理緒が指を伸ばして、馬の額の部分を指す。耳の間から顔にかかった前たてがみが、風になびいているあたり。 「この頭絡《とうらく》の真ん中に青い飾りがあるでしょ? これが昔おじいちゃまが、スペインから持って帰ってきたブルー・サファイヤなのですって。母は、これが欲しいんだわ」  蒼は背伸びするようにして、絵のその場所に顔を寄せて見た。 「でも、もしリアルに描いてあるんだとしたらこれ、すごく大きいよ。馬の目玉と同じくらいあるじゃない」  親指と人さし指で輪を作って、深春たちの方に示す。 「こんなサファイヤって、いったい何カラットあるのさ」 「待てよ。そもそもカラットってのは何グラムのことだっけ」 「一カラットが〇・二グラム」  京介がぼそりという。 「五カラットでやっと一グラムか。何百カラットあるのか、想像もつかないぞ」 「いくらするんだろう」 「俺に聞くな」 「京介?」 「宝石の値段は石の質によって変わる。絵で見てわかるわけがない」 「ほんとにこれ、あるの? ここに」  理緒は首を振った。 「昔はあったかもしれないけど、そんなものがあったらおじいちゃま、とっくに処分して馬のために使ったと思うわ。でも母は、そうは思ってなかったみたい。去年の夏、あんなことのある前に、私もずいぶんしつこく聞かれたの。あんたはあれだけお義父さんにかわいがられてるんだから、知らないはずはない。知らないというなら、聞いてみろ。そしてお義父さんがなんと答えたか、どんな顔をしたか教えろ、あのころは口を開けばそんなことばっかり」  理緒は苦いものをなめたような顔をしている。 「なんだか戦前にそのサファイヤを鑑定した、その鑑定書を見たという人の話を聞いたのですって。実物を見たのではないのよ、鑑定書だけなの。私にはよくわからないけど最高品質のロイヤル・ブルー・サファイヤで、それもいまはとっくに取りつくされてしまったカシュミール産に間違いないのですって。いくら戦後の混乱期でもそんなものが売りに出されたら、話題にならないわけがない。それがどこにも記録がないということは、いまもおじいちゃまが持ち続けているとしか考えられない──母はそういうの」  それはでも、一理あるかもしれないなと蒼は思う。かりにも宝石屋さんの社長なら、情報はそれなりに確かだと考えねばならない。 「もちろん母だっておじいちゃまのものを、ただ取り上げようとしたわけじゃないと思うわ。でもそんな国宝クラスの石なら、たとえば店頭に飾るだけですごい宣伝になるでしょ。いつまでも若者向けの店だけじゃなくて、もっと高級な品を扱うところも作りたいっていつもいっていたから」 「でも、それは違うよ──」  理緒の顔を覗きこむようにして、蒼は首を振る。 「そんな理由で人は、人を殺したりなんかしないよ」 「計画殺人ではないとしても、衝動的殺人または事故の可能性は否定しきれない」  背後からつぶやく京介に、理緒は黙ったままうなずく。 「お宝どころかとんだ災いの種ってわけか。いくらきれいだといっても、所詮ただの石ころじゃないかと俺は思うがね」  憮然とした顔で顎をひねっていた深春の、表情がふっと変わる。 「おい、理緒ちゃん。こりゃまさか、血か?」 「ええッ」  深春は指さしているのは絵の下の方、黄褐色に塗られた地面の部分だ。絵の中の遊馬歴は左手で馬の轡を押さえ、鞭を持った右手を下に降ろしている。その人さし指が自分の足元を見ろというように伸びているのだが、ちょうどその指の示しているあたりに黒っぽいしみがあった。横たえた絵の上から液体が垂れた、そんな感じで直径五センチ程度の円がいくつか、重なり合いながら落ちている。 「じゃ、これお祖父さんの血?」  理緒はゆっくりと首を振る。顔が青い。 「それは、父の血」 「お父さんの──」 「去年の十二月二十八日、あの人はおじいちゃまの死んだその部屋で、お腹にナイフを突き立てて倒れてた。蔵内さんが見つけて、病院に運んで」  去年の暮れに起こった『あんなこと』。半分予想していたような気もするが、はっきりいわれると背筋が冷たくなる。現実の事件なのだ、ミステリを読むのとはわけが違う。 「どうしてそんなことになったの?」 「自殺未遂。あの人は警察にはそういったわ。──でも嘘よ、そんなの!」  理緒は激しくかぶりを振る。その口を出る声は悲鳴に近い。 「だってそのころはもう蔵内さんは、黎明荘には住んでいなかった。いたのは父だけで、父はひとりでいたいからといつも蔵内さんの来るのを喜ばなかったから。それがその朝わざわざ訪れたのは、明け方変な電話があったからなのですって。しわがれた女の声で、怪我人がいるから行ってくれって。さもなければ、たぶん手遅れになっていたわ。父は犯人をかばっているのよ。私にはそうとしか思えない」 「それじゃ理緒ちゃん、そのお父さんの怪我もお母さんがって?」  うつむいたまま理緒はうなずく。 「父には自殺の動機なんてなかった。でもそれ以上に、殺される理由もなかったわ。少なくとも、他人には──」  他人にはなくとも、その妻にはあるというのか。 「でもさ、だからって……」 「少し整理してみよう」  京介がいつもの淡々とした口調でことばをはさんだ。 「いまここで証拠調べをするわけにもいかないから、聞いたことはすべて事実だと考えて推論してみることにする。するとその日ここで起こったこととして、考えられるケースは三つある。  遊馬灘男氏はここではわからない動機で実際に自殺を図り、電話の『女』はそれを止めきれなかった。あるいは『女』は彼の殺害を図ったが、なんらかの理由で未遂に終わった。または彼は一種の事故によって負傷した。いずれのケースにせよその時点では遊馬氏の死を望まなかった『女』は電話で蔵内氏を呼んだが、自分がその場にいたと知られるわけにはいかなかった。  ただしどのケースを取るにせよ、なぜ遊馬氏は『女』の存在を隠そうとするのか、その理由は謎として残されてしまう。いえるのはこんなところかな」 「いいえ、桜井さん。考えられるケースはもうひとつあります」  理緒はうつむいたまま小さく首を振る。 「『女』には初めから父を殺すつもりはなかった。ただ彼をすみやかに黎明荘から遠ざけることが目的だった。邪魔者をなくして、この家のどこかに隠されているはずのブルー・サファイヤを探すため。そしてそれが見つかったら今度はすみやかにこの家を取り壊して、自分の殺人と傷害と窃盗の現場をこの地上から抹殺する。  そして父はいままでいつもそうだったように、今度もあきらめて口をつぐんだんです。『女』の、母のことを。それですべての疑問は埋まります。違いますか?」  理緒の顔が静かに上がる。その目がこちらを見ている。蒼も、深春も、たぶん京介も、そのときは思わず息を呑んだ。理緒のほっそりと小柄な体が、白く冷たい炎に包まれているように思えたのだ。 「実の母親を、祖父と父の殺人傷害の犯人として告発するなんて、ひどい娘だと思われるかもしれませんね」  理緒は唇を上げて微笑もうとしたようだった。だがそれは小刻みな痙攣《けいれん》にしかならない。 「でも、私、やっぱり母が赦《ゆる》せない──」  理緒は震えていた。震えながら、叫んだ。 「あんな、いつでも自分だけは正しくて、自分だけは陽の下を歩いてるみたいな、おじいちゃまもパパもできないことを自分はやっていて、私たちを養っているのも自分で、そんな顔をしてる人が、たとえ事故だったとしても目の前で死んでるおじいちゃまを置き去りにして、それもグラスを片付けたりするようなことまでしてこっそり逃げ出したり、宝石のために父を死ぬような目にまであわせて、平気で口をぬぐっていたり、そんなことするような人なら、全部嘘だもの。いつも私に見せたり聞かせたりしてきたことなんて、全部まやかしだってことになるもの。私、絶対にそんなの赦さない!」    4 (こりゃ、きつい娘だな……)  深春は口の中でつぶやいている。でもそんなふうに思われたら、彼女がかわいそうだと蒼は思う。母親を憎みたくないからこそ理緒は、これほど苦しんでいるのだから。誰にも相談できないまま、ひとりで疑ってひとりで悩んで。大好きな乗馬さえ続ける意欲を失うほどに。  京介がどう考えていたのかは、相変わらず全然わからない。例の前髪に覆われた顔を上げたまま、なにを見るでもなく立っていただけだからだ。 「ね、とにかく移ろうよ、ここから」  このパティオは良くない。気持ちがふさぐ。深春がそれに答えようとしたとき、蒼の耳はある物音を捕えた。車のエンジン音。下の国道ではない。あきらかにこちらへ向かって来る。 「だれか、来るよ」  そう口に出したときには、他の者の耳にも届いていただろう。悲鳴のようなブレーキ音が門前で止まる。相当に乱暴な停車だ。門を開ける音、そして玄関が引き開けられた。鉄格子の扉の向こうに、ぱっとまぶしい光輪が浮かぶ。 「なにをしているんです、あなた方は!」  かなり高ぶった女の声だ。ハンド・ライトを片手に大股に近づいてくる。派手な赤色のスーツを着ているのはわかるが、さしつけられたライトがまぶしくて顔の方はよく見えない。 「いったいどういうつもりなの、理緒さん。こんな時間に男の人を家に連れこむなんて、若い娘のすることではありませんよ」 「お母さん」  理緒がようやくかすれた声を出す。蒼は遅ればせながら気づいた。あ、するとこの派手な女が彼女の母親ってわけなんだ。女性実業家遊馬明音、そしてもしかしたら『犯人』。 「なにがお母さんですか。私はいままであなたを信用していたから、好きにさせてあげていたのに──」 「失礼ですが、遊馬社長。いささか誤解がおありのようなので、説明させていただきたいのですが」  京介がゆっくりと口を挟む。 「だれですか、あなたは」  遊馬明音はきっとばかり顔を振り向けた。だがさすがにかん高い声のトーンはいくらか下がる。 「我々はW大学文学部美術史学科の近代建築調査チームです。このたび遊馬理緒さんと蔵内|哲爾《てつじ》さんのご協力をいただいて、この黎明荘の実測調査を実施させていただく運びとなりました。御挨拶が遅れて申し訳ありません。私はチームの責任者を務めております、神代研究室の桜井京介と申します」  指しつけられているライトには気も止めず悠然と足を運んだ京介は、相手の真正面に立つと慣れた仕草で名刺を差し出す。 「どうぞ」   笑わない男    1  遊馬明音──  この不景気な時代にもかかわらず現在も急成長を続けているベンチャー企業、ジュエリー・チェーン・アカネの女性社長は、娘の理緒が十八歳でその上にも何人か子供がいるらしいのだから、少なくとも四十代の半ばにはなっているはずだ。だがいまハンド・ライトを片手に蒼たちの前につっ立っているのは、お世辞のつもりなら大輪の薔薇といえなくもないくらいの、なみなみならぬ迫力に満ちた『オバサン』だった。  パーマでボリュームを出した短めの髪を明るい栗色に染めている。しわのない額の下の黒々とした眉は理緒を思い出させるが、目は一重の理緒とは違ってかなり濃いめのメイクを差し引いてもくっきりした二重まぶただ。鼻も高くて大きければ、真っ赤に塗られた唇もまた大きい。つまり顔の造作すべてが、とにかく大きくて派手なのだ。身長も百七十は越えているだろう。それがデブぎりぎり二歩手前くらいのグラマラスな体を目の覚めるような緋色のスーツに包み、共色の高さ八センチはありそうなハイヒールを履いている。美人でないとはいわないが、その『美』は男を喜ばせるものとは違う。むしろたじろがせ、めげさせ、屈伏させるたぐいのものだ。  一目見ただけで蒼は、心から理緒に同情したい気持ちになっている。赤の他人として眺めるならともかく、母親にしたいタイプでは絶対にない。いや赤の他人としても、たとえばビジネスでこういう人間と渡り合うのは、さぞかしエネルギイを消耗するに違いない。  しかし彼女の前にいるのは誰あろう桜井京介だ。彼なら相手の迫力に押されて、態度を変えさせられるなどということは断じてない。必要とあらばエリザベス女王にだろうがマドンナにだろうが、これと同じ口調で平然と名刺を差し出すだろう。  だがたとえばいまのように、気の立った相手を丸めこまねばならない場合、どういう対応をするのがもっとも効果的か、瞬時に見抜くのがまた彼の得意技なのだ。いまも身なり風体はとうていまっとうとはいえないが、口上の方はちゃんと定式を踏まえている。  そして相手がどんな化けものだろうときちんとあいさつされて名刺を差し出されれば、『頂戴します』と受けて自分も名刺を差し出す。これが日本のビジネスマンの反射行動だ。女性実業家遊馬明音にも、ちゃんとこの回路は組込まれていたらしい。  娘の行動にいきりたっていた母親の顔が、京介の名刺を見たとたんカチリと切り替わった。近代建築調査云々というはったりの効果も、多少はあったのだろう。自分の名刺と交換に受け取ったそれをじっくりと眺めながら、 「桜井、京介さんね。そう、W大の学者さんでいらっしゃるの」  つぶやいた口調もさっきまでとは、較べものにならないくらい冷静さを取り戻している。もちろん京介はまだ大学院修士課程の三年で、学者などといえたものではないのだが、そのへんを誤解してもらうのも予定の内だから訂正などしない。 「私のうちも代々W大、祖父も、父もW大の経済でしたよ。戦前の話ですけどね」 「お父上は杉原|毅《つよし》氏、杉原学園の創立者でいらっしゃいますね」  あら、というように明音の目が動く。 「よくご存知ね、あなた」 「情報収集はあらゆる学問の第一歩ですから」 「そうなの? 私、学者なんてものはみんな書斎にこもって、本だけを相手にしているものかと思っていたわ」 「それは学問の分野にもよると思います。私の相手は建築ですから、文献調査は無論しますがやはりそれだけで研究を済ませるわけにはいきません。そして可能なら自分の目や耳で集めた生の情報に、勝《まさ》るものはないというのが私の考え方です」 「でも、この家を建てたのは遊馬の義父《ちち》ですよ。杉原家にはなんの関係もないでしょうに」 「ですが、いまこの家の命運に、決定権を持っておられるのはあなたではありませんか」 「そんなことはありません。相続したのは主人ですもの」 「いや、私は所有権ではなく決定権と申しました」  明音の太い眉の根がぴりっと震えた。 「うちの中のことまで、調べたというのですか?」 「はい、もちろん。それにご実家の杉原家のことも、あなたの独身時代の事業から現在の株式会社アカネのことも」 「ずいぶん失礼だこと。建築の調査にそこまでの詮索が必要なのですか?」 「確かにいくらか度を越していたかもしれません。私はどうも脱線しやすいたちなのです」  次第にまた険悪な表情になってきた明音を気にするふうもなく、京介はしれしれとした口調で続ける。 「社長の見事な経営手腕に対する個人的な興味に引かれてしまって、と申し上げたら気を悪くなさいますか」  理緒は目を丸くしている。深春は後ろで笑いをこらえている。蒼は別に驚かない。京介というやつは目的のためなら、もっと露骨なお世辞だって平然と口にできるのだ。俗にいうマキャベリストとは、こうした人間を指すのかもしれない。  遊馬明音の険悪な顔が、ふいにぱかっと割れて崩れた。 「──おもしろいわね、あなた。そういうのが最近の学者さんだっていうなら、どうやら私も認識を改めなけりゃいけないようね」  肉づきのよい顎を上げて男のように笑っている。案の定、彼女は的確なお世辞がもっとも効果を発揮するタイプだった。 「それで? いまはこの家から、生の情報を集めてるってわけ?」 「はい」 「で、学者さんとしてはどんな結論を引き出すおつもり?」 「それはもう決まっています。我々研究者としては、今後も保存と現状の維持をお願いしたい。それだけの価値はある建築だと考えます」  しかしさすがにあれだけのお世辞で、気持ちをひるがえすほど相手は甘くない。 「残念ね。せっかく誉《ほ》めてもらったのに悪いけど、それはもう無理。でもあなたがきちんとした調査をするくらいの、日の余裕はあるはずですよ。土地の測量は来週にも始めて、この夏中には解体も終えるつもりですけどね」 「お母さん!」  こらえきれないように理緒が叫んだ。 「お願いだから、お母さん──」  とたんに明音は元のけわしい表情に戻って、娘を睨《ね》め付ける。 「なんて声を出すんです、みっともない。しかたないでしょう。いまの遊馬家はこれだけの土地を、遊ばせておけるほどの資産家じゃないんだから。家の維持費は別にしても固定資産税だけで、いくらかかると思うんです」 「お母さんはいつもそうやって、お金のことばっかりいうんだわ」 「ええ、いいますとも。いったらなぜいけないんです。それならおまえこそどうしてそんなことがいえるの。一円だって自分で稼いだこともないくせに」 「でも、お金より大切なことだってあるでしょう」 「そういうことは自分の身を、自分で始末できるようになってからおいいなさいといっているんです。毎日家で寝る暇もないくらい、駆けずり回っているのは私なんですからね。それを忘れないでちょうだい。お金より大切なことですって? おまえといい、灘男さんといい、遊馬の者はみんな同じことをいうのよ」  明音の口調はだんだん早くなる。それは母子の間でこれまで幾度となく、繰り返されてきた喧嘩だったに違いない。理緒はうつむいて唇を噛みしめる。彼女は思っていることの、半分も口に出していない。娘の胸を侵す疑惑に、それでも母親はまったく気づいていないのだろうか。  理緒は顔をそむけて出ていこうとした。だが明音は手を伸ばして娘の腕を掴んだ。 「待ちなさい、どこへ行くつもり?」 「寝るんです」 「この空家で? とんでもないわ。あなたは私と修善寺に来るんです。そもそも私はあなたを連れに、ここまで来たんですからね」 「いやよ、そんなの!」  理緒は腕をもぎ離そうとするが、明音は歯牙にもかけない。女社長は気力だけでなく、体力にも不足はなさそうだ。 「さっき修善寺に着いて、蔵内さんにこちらの様子を聞くつもりで電話したら、あなたがうちの誰にもいわないで勝手なことをしてるっていうじゃありませんか。第一そうでなくっても嫁入り前の娘がひとりで、ほかの人目もない場所で男の方と同宿するなんてとんでもないことですよ」  古風な女らしさといったものとはどう見ても対極にあるタイプの彼女だが、やっぱり娘のこととなるとそういうことをいうのだろうか。蒼は内心あきれた。 「同宿といっても、我々は庭のテントで寝るんですが……」 「あなた方を信用しないといっているんではありません。世間の常識を申し上げているんです、私は」  深春の遠慮がちの抗議は、あっさり切って捨てられる。 「よろしければあなた方もごいっしょにいかが? 古い別荘ですけど広いだけが取柄で、部屋数は充分にありますわ。この週末は久しぶりに伊豆ですごすつもりで、娘たちや私の姉もいっしょに来ているんですけどね」 「お招きいただけるのでしたら明日、といってもすでに今日ですか」  京介は腕時計にちらりと目を落として、 「夕方にでも伺わせていただきましょう。朝には蔵内さんとの約束もあるので、今夜は予定どおり庭のテントで休むことにしますよ」  もともとこっちのお招きはことのついでに過ぎなかったのだろう、女社長はあっさりとうなずいて、 「明日の晩なら家族以外にも、ご紹介できる人が増えますわね。小さなパーティーをする予定になっていますから。でしたら、そういうことにいたしましょうか」 「それなら私も明日いっしょに行くから──」 「お黙りなさい。第一そんな服装で出てこられたら、家の者が恥をかきます」  なんだか変なことになってきたと蒼は思う。服装なんてことをいわれたら、こっちの誰ひとりろくなものは着ていない。 「道案内には蔵内さんを乗せて来られればよろしいわ。遅くても六時には着くようになさって下さいね。で、桜井さん。明日はそれまで、なにをなさるおつもり?」 「せっかくの機会ですから、もう少し黎明荘の調査をさせていただくつもりです」 「調査って、どんなことをなさるの?」 「機材の用意はないので、観察、写真撮影、スケッチ、まあそういった程度ですね」  それくらいなら今日でとっくに終わっているはずなのだが、京介はすました調子で答える。 「そう。するとそのとき家の中には、あなた方だけということになるのね──」 「ご心配なら我々が室内にいる間中、蔵内さんについていてもらうことにしましょう。それとも誓約書でも書きましょうか。壁、床、天井、その他家具備品を含めこの家に属するいっさいのものを動かしたり傷つけたりしない、とでも。そしてもちろん」  京介はわざとらしくつけ加える。 「調査の過程で発見したどんな拾得物も、私物化することはしない」  遊馬明音の頬にさっと血の色が昇った。京介のことばは明らかに、彼女の耳にはあてこすりとして響いたのだ。しかしその程度でたじろぐ彼女ではない。腕を捕えたままの理緒にじろりと一瞥《いちべつ》をくれると、返す視線で正面から京介を見返す。 「おもしろいことをおっしゃるのねえ、桜井さん。まさかこんな空家で、宝探しでもなさるおつもり?」  赤い口元に不敵な微笑を浮かべて聞き返すのに、京介はいとも平然といってのけた。 「そのとおりです、遊馬さん。学者にとっての調査とは、まさしく宝探し以外のなにものでもありませんよ」    2 「京介、おまえは女の趣味が悪い」  深春が唐突に断言した。理緒と明音を乗せたBMWのエンジン音が遠ざかり、残された男三人は並んでテントの寝袋の中にもぐりこんでいる。京介はさっさと眼鏡を外して眠る態勢だが、深春はウィスキーの入ったスキットルを取り出しているし、蒼にしても気分が高ぶっていてまだとても眠れそうにない。 「あんな人喰いおばんには見えすいたお世辞なんぞこくくせに、理緒ちゃんをかばってやろうともしなかったじゃないか。冷たい」 「別にそういうつもりじゃないさ……」  おでこまでもぐりこんだ寝袋の中から、くぐもった声が聞こえてくる。蒼も首を伸ばしてその顔を覗きこんだ。 「ねえ、京介。ほんとにあのおばさんのことまで、そんなに詳しく調べてたの? だってさっきは彼女に聞いてたじゃない。ジュエリー・アカネはお母さんの会社かって」 「杉原毅の名前を覚えてたのはたまたま。後は、はったり」  またか。 「でもあの女社長は、なかなか興味深い人物、だ──」  あとは寝息になってしまう。 「おい、こら、寝るな、京介!」 「無理無理。京介は寝るとなったら、十秒で熟睡しちゃうんだ」  蒼が首を振った。 「そんで眠ったとなったら八時間は死体といっしょ、いくらまわりが騒がしくてもびくともしない」 「普段は夜昼逆転のヴァンパイアじゃねえか」 「調査中の京介は別人みたいに健康的なんだよ。深春ったら、つき合い長いくせにまだわかんないの?」 「野郎の睡眠パターン知ってどうすんだ、気色わりいな」 「ふーん、女の子のならいいんだ」 「そりゃそうだ。──馬鹿、なにいわすんだよ」  栓をねじこんだスキットルを枕元に放り出して、深春はごそごそと寝袋のファスナーを引き上げる。 「おい、蒼」 「なーに」 「俺は意見を改めるぜ。断固理緒ちゃん支持だ。あの人喰いおばんなら確かにサファイヤ狙って祖父さんぶっ殺したり、亭主刺しといて口ぬぐって知らん顔してるくらいのことは平気でやるだろうぜ。ところがこの馬鹿ときたら」  と、寝袋からはみ出した京介の頭をひとつこづいて、 「相変わらず建築のことしか頭にありやがらねえ。成り行き次第じゃあおばんにケツ振るくらいのことはやりかねねえや。俺はだが理緒ちゃんを守る。おまえもいまのうちに考えとけ、どっちにつくのか」 「でも守るって、具体的にはどうするのさ」 「そりゃあおまえ、これから考えるよ。だがともかくも必要なのは真実の解明だな、うん」  いいたいことをいってひとりで納得して、深春の寝袋からはたちまちいびきが聞こえ出す。蒼は京介の頭越しにそっと手を伸ばして、枕元のスキットルを引き寄せた。熊と間接キッスはごめんだし、といって近くにコップもないから、手のひらのくぼみに溜めた酒を舌の先でなめる。安ウィスキーはぴりぴりするばかりでおいしいとも思えなかったが、それでも喉のところがぽっと熱くなる。少しだけ気持ちがいい。 (真実の解明、か)  目を閉じると闇の中でアルバムをめくるように、今日見た光景がつぎつぎとよみがえってくる。白馬の肖像、暗いパティオ、泣き出さんばかりにゆがんだ理緒の顔、窓のない奇妙な部屋、そのベッドの上に掛かっていた小さな額の中の詩。 『男は思いに耽ける……』 (彼はなにを思っていたのだろう、この家で五十年間も、ひとりで)  五十年の歳月は、美しい白馬の轡を取っていた物鬱げな青年を孤独で偏屈な老人に変え、その老人はおそらくはなにものかに頭を割られて死んだ。回りの床には砕けたクリスタル・グラスの破片が散乱し、小さな明かり取りから射し入る朝の光に、宝石のようにきらめいていただろうか。 (宝石──、国宝級のブルー・サファイヤ──)  そんな、とっくの昔に世間から降りてしまった老人がほんとうに殺されたのだとしたら、動機は確かにそれ以外なさそうだ。でも、いまもどこかに隠されてあるんだろうか、それは。あるとしたらそんなすごい宝石を、彼はいったいどこでどうして手に入れたんだろう。スペインで? そうはいってもあの国では、宝石なんて取れやしない。いくらお金持ちの留学生だって、簡単に買えるものじゃなさそうだし。いや、彼はスペインでは完全に消息を断っていたのだから、日本からの仕送りも受けられなかったはずで、お金持ちなどであったはずはないのだ。 (そのころのスペインて、きっと王様がいたんだろうな。なにか手柄を立てるかして王家の宝物をもらって、とかそういうのかなあ)  だけどそれはいくらなんでも、ほんとうとは思えないお伽噺だ。わからないことが多すぎる。当の遊馬歴が死んでしまったいまとなっては、わからないまま終わるしかないだろうようなことが。 (でもそれがわからなかったら、彼女の気持ちは救われないんだ──)  ふいに蒼はそう気づく。問題は宝石の行方でも、殺人犯の正体でもない。理緒が求めているのはなにも、母親の告発とか逮捕とかそんなことではないはずだ。自分が物心つく以前から、ボタンをかけ違えたようにゆがんでいた家族の関係。祖父の不審死も父の奇妙な負傷も、つまりはその矛盾の現われに違いない。そのかけ違いの、ゆがみの真相を明らかにすることによってだけ、理緒は解放される。 (だけどそんなの、ミステリの解決よりずっと難しいよ……)  手のひらに残ったウィスキーを口の中に放りこんで、蒼は寝袋の中でうーんと体を伸ばす。  ミステリの名探偵は犯人を指摘する。犯行方法と動機の謎をあばいてどこかへさっそうと立ち去って行く。残された人間たちがその結果幸せになれたか、それからどうやって生きていくのか、そんなのはまるでおかまいなしだ。  でももしかすると関係者たちにとっては、謎の解明なんてどうでもいいことだったかもしれない。だって、殺された人はそりゃあかわいそうだけど、生き残った人間はそれからもとにかく、生きていかなくてはならないのだから。  しかしその晩の夢の中で蒼は、ミステリそのまんまの名探偵をやっていた。どこかの家の薄暗い広間のような場所で、椅子に座った人間たちをぐるりと見回して、おもむろに口を開く。 『さて、皆さん──』  ところが自分でもあきれたことに、それに続けるべきせりふがまるで頭の中にないのだった。──    3  五月十五日、日曜日の午後三時。  例によって栗山深春がハンドルを握るおんぼろランクルは、伊豆半島の中央部を貫く国道四百十四号を騒音まき散らしながら北上している。しかし天気はよし、それも日曜の午後ともなれば、とても深夜の高速のようなわけにはいかない。どこへ行っても呼び物にはことかかない伊豆のこと、この附近も日本で唯一、猪《いのしし》の曲芸が見られるなんたら村だ、わさび田で有名なかんたらの滝だ、名作『伊豆の踊子』ゆかりのハイキング・コースだと、観光のポイントが踵《きびす》を接するばかりに並んでいる。おかげで片側一車線の狭い道はやたら混んでいる上に、大型の観光バスが多くて見通しはまるできかない。 「くそッ、やっぱりスカイライン経由にすべきだったかあ」  深春のぼやくせりふもこれで何度目だろう。 「なあに、この時間だとどちらを回っても混み具合は同じようなものじゃろう。まったくどこからこうもぞよぞよと、きりもなく集まってきよるものやら」  助手席から蔵内老人がにがにがしげなことばを返す。 「戦前の伊豆といったらあんた、温泉があるといっても東京とはほとんど別天地じゃった。当時から見ればとてもとても、同じところとは思えんですわ」 「遊馬歴氏は、最初っから熱川に住みついておられたわけじゃないですよね。勤めもしておられたんだし」  深春が尋ねる。 「それはそうじゃ。あのころ旦那様は松濤のお屋敷に住んでおられて、無論私も普段はそちらで働いておった。ただ熱川の牧場では宮家の馬を何頭もお預りしておったもので、半ば公務のかたちでこちらにご滞在なさることもしばしばでありましたよ」 「結婚は、いつなされたんですか」 「あれは昭和十七年、太平洋戦争の始まった翌年の秋であった。旦那様は確か満で三十四におなりで」 「そりゃあまた、失礼だがかなり遅いめのご結婚ですね。彼は遊馬家の跡取りではなかったんですか?」  始めは運転の合間の退屈しのぎかと思ったが、それだけでもないらしい。深春はどうやら本気で『真相の解明』に乗り出すつもりなのだ。それにしても、もう少しうまい聞き方ができないのかな。そうやたら質問して相手が機嫌を損ねたらどうするんだよ、と蒼は心配半分に後ろで耳を澄ます。  だが蔵内老人は、最初の印象よりは遙かに話好きの人間らしかった。もっとも大抵の年寄りは、昔の話を聞いてもらうのは好きなものなのだ。 「いやそれは確かに、あんたのいわれるとおりなのだわ。旦那様のご結婚が決まるまでは、ずいぶんいろいろなことがあったようで、まあ、私自身は当時兵役についておったがために、ご結婚前後のことは直接知っておるわけでもないんじゃが。そのあたりの事情、お知りになりたいか?」 「知りたいです!」  蒼は後部座席から身を乗り出す。京介はなにもいわないが、眠っていないことはわかっていた。老人は痩せた顔に苦笑めいた笑いを浮かべる。 「それならちいっとしゃべらせてもらいますかな。まあ、あんたらが聞いておもしろい話かどうかは知らんが、道も混んどることだし、ここいらで遊馬家の来歴をざっとお耳に入れておくのも悪いことではないじゃろうて」  遊馬家の明治以前の祖先は、秩父在の土地持ちで富裕な養蚕《ようさん》農家だった。さらにさかのぼる本家が草加の遊馬にあったというので、明治になったときその地名を取って姓を遊馬とした。同時に進取の気性に富んだ若い当主は、養蚕を妹|婿《むこ》にまかせて横浜に出、貿易業を始めた。当初は生糸を専門に、やがては広くさまざまな商品を扱って、開化期だからこそ可能なかなり投機的商売を行い、見る見る政府にも顔のきくほどの巨商に成り上がったのだという。  二代目は高額納税の功により男爵《だんしゃく》位を賜《たまわ》った。三代目が明治四十年生まれの歴、といっても上にはふたりの兄がおり、家督に関しては彼の身は取り敢えず自由だった。そして大正十二年、父親は商売にはあまり向きそうもない十七歳の三男を、英国ケンブリッジへの留学に送り出したのだった。 「英国? スペインじゃなかったの?」  思わず聞き返した蒼に、蔵内老人は首を振る。 「私も後に聞いた話じゃから、詳しい事情までは知らん。だがなんでもあちらで偶然に馬のおもしろさを知られた旦那様が、どうしてもスペインへ渡りたい、そしてマドリッドで馬術を修めたいといい出されたのだそうな」  もちろん日本の父親がそれを、すぐに承諾したわけではない。英国留学といっても明確な目的があるわけではない、官界政界あるいは財界、将来どこへ進むにしてもエリートとして箔《はく》をつけようというほどの意図なのだから、当然といえば当然だ。いまさら職業軍人になるというのでもない限り、馬術などいくら上達しても出世の手段にもならない。  だがいくら手紙で叱責《しっせき》しようが、現地の知人に頼んで説得に出向いてもらおうが、遙かところを隔ててでは効果も上がらないだろう。そして歴はついに実家の承認を待つことなく、ひとりで勝手にスペインへ渡ってしまった。やがて気をもむ親元に、マドリッドから王立馬術学校に入学を許されたという手紙が舞いこむ。父親は勘当だと息巻いたが結局のところ、遊馬家はそれを追認せざるを得なかった。 「ところがその翌年、恐ろしいことが起こったので」 「どうしたの?」 「スペイン革命、ですか」  そういったのはそれまで黙っていた京介だ。 「一九三一年の四月でしたね、スペインの王政が倒れたのは」 「へえ。王様殺されちゃったの?」 「亡命したんだ、フランスへ」 「さようで。無論王立馬術学校もそのとき閉鎖されたのでしょうが、それきり旦那様からはなんの連絡もなく、どこへ行かれたやら皆目わからんようになってしもうた。いまのようにテレビがあるわけでもなし、電話がかけられるわけもなし、なにせ遠い日本ではさっぱり様子も知れず、尋ねようにも現地に日本人はおらず、ご本家ではずいぶんと心配なされて、人を頼んで探してもらうようなことも幾度もされたが確かなことはなにひとつわからん始末。ついにはもうあきらめるよりないか、とまでお考えになられたそうな」  ところが──  それからさらに三年後、まさしく青天の霹靂《へきれき》というように消息不明だった歴からの電報が届いた。しかもそれは某日横浜港に着く便船にて帰国するというあまりにも簡潔な文面で、いったいこの三年をどこでどのようにして過ごしていたのかは、なにひとつ記されてはいなかった。  そのためもあって、なにものかの悪質ないたずらではないかという疑いを消せぬまま、半信半疑で出迎えに出た家族らの前に、遊馬歴はあやまたず姿を現わしたのだった。しかしだれひとり予測もしなかったことに、腹の大きな一頭の牝馬を連れて。彼が日本を出てから、実に十年という歳月が経過していた。 「私がご奉公に上がったのはご帰国から半年ばかり経ってからだが、その折の騒ぎについてはずいぶんいろいろと聞かされたものじゃった。以前の旦那様はむしろ気のやさしいおっとりとしたお方だったそうじゃが、十年ぶりだよくぞ生きていてくれたと、すがりついて泣くやら笑うやらする母上様や伯母様たちに、笑みひとつ見せるどころか馬の身にさわるから静かにしろと声高に怒鳴りつけられたそうな。その上、お父上やお兄上がきつく問いただされても、なんの説明もなさろうとせぬばかりか、顔色ひとつお変えにならぬ。  人がまるで変わってしまった、いったい異国でなにがあったやら。旦那様のこととなると、だれもが口癖のようにそればかりいう。母思いのそれはやさしい、よく気のつく子であったのに。どうしてこうも変わってしまったやら。ほんとうに別人のようだ。まるで憑《つ》き物《もの》でもしたようだ……」 「つまりスペインでなにがあったのか、彼の口から聞くことはできなかった、というわけですか」 「はい。それはもう口にのぼせるさえ禁忌でありましたな。それだけでなくちょっとでもお気に召さぬことがあると、石のように押し黙ってしまわれる。そんなときに強《し》いておそばに寄ろうなどとすれば、ものもいわれぬままあたりのものが飛んでくるという有様。若い女中が怯《おび》えて逃げ出すほどだったそうな」 「うわあ、家庭内暴力だ──」 「そうですな。きびしいお父上もしまいには、あれはどうにもならぬと匙《さじ》を投げられた。ほかのご家族の方々も音を上げられて、どうにも扱いかねる。まあ私がご奉公に上がることとなったのも、いっそこんな子供の方が旦那様も手荒なことはなさるまいと、そう思われたからなようで」 「それで蔵内さんは、だいじょうぶだったの?」 「松濤のお屋敷でお目通りした日、一番始めに覚えさせられたのはスペイン語では、はいが『シ』でいいえが『ノ』だという、それじゃったな」  老人は目を細めて微笑んだ。 「それをいっぺんで覚えこむと、にこりともなされぬまま、それでもおまえはなかなか筋がいいとおおせられた。私はなにせ以前の旦那様のことはなにも知らんで、恐いお方だ、きびしいお方だとはわかっても、それがあたりまえだと思えばなんということはない。おそらくは、かえってそれが幸いしたのじゃろう」 「蔵内さんは、歴氏が所蔵していたというブルー・サファイヤは見たことがおありなんですか?」  深春がそろり、という感じで口に出す。老人は口元の笑みをひっこめて、じろりと大きな目を動かした。 「理緒お嬢様から聞かれたのかね?」 「ええ。それとあの肖像画を見せてもらいましてね」 「黎明号の額革《ひたいがわ》にはまっていた、そう、確かにあれなら見たことはある。値打ちのことなどはなにも知らん。ただ馬の目玉ほどの青い石じゃ。しかしあの頭絡を実際に使われることは、まずなかったな。いや石がどうこうというより、そもそも旦那様は黎明号に馬具をつけることを好まれなんだ」  蒼には蔵内のいう意味がよくわからない。 「でも、鞍とかつけなかったら、普通乗れないでしょ?」 「めったに乗らなかったのですわ、黎明号には」 「どうして? 好きじゃなかったの?」 「いや、あんた。旦那様の黎明号に対するかわいがりようは、ひととおりではなかった。旦那様は熱川に来られたときは、黎明号と文字どおり寝起きを共にされていたほどなのですわ」  無論彼が東京にいる間は、ほかの馬同様牧場の馬房で世話をされていた。しかし当時は別荘の庭にも馬房があって、彼が滞在するときは黎明号もその馬房に入るのが習慣だった。そして時間の許す限り、運動、手入れ、飼い葉の世話、すべてを彼自身の手で行う。へたに手を貸そうなどとすれば、逆に叱りつけられるのが落ちだった。 「いまでも思い出しますわ。東京におられるときはいつもこう眉をきつく寄せられて、必要な以外口をきくこともなければ歯を見せることなどまるでない、女中たちはお部屋の前の廊下を歩くときも息を殺すほどの旦那様が、あんた、黎明号とおられるときは笑っておられましたよ。それはそれは楽しそうに、まあ小さな子供のように。  運動させるといっても、手入れをするといっても、私に手など出させるものじゃない。顔を寄せてはなにやらスペイン語でしきりと話しかけられて、あの長いたてがみを櫛《くし》でもって、それも馬用の荒い金櫛ではない、わざわざ買ってこられた赤い塗りの櫛を使われてゆっくりゆっくり、それはいとおしげにていねいにけずられて、それがただもう楽しくてしかたないというご様子。ですから私も旦那様がそうしておられるときは、できる限りほかの者もそばには行かせぬように、後に回せる御用は後にしてお邪魔せぬようにとそれは気遣《きづか》ったものでありました」 「その馬に乗って、馬術の大会に出たりはしなかったんですか?」 「いんや、旦那様は黎明号を人目に触れさせるさえ喜ばれぬようじゃった。世話係の牧童にさえ乗るな、引き運動だけでいいと厳命しておられたほどで、噂を聞いた人々からその美しい馬を東京に連れて来い、ぜひ見せてくれ、大会に出せとずいぶんいわれておられたようじゃが、宮家の方々の重ねてのお求めにも、とうとう最後まで一度もうんとはおっしゃられなんだ」 「ふーん……」  なんだか不思議な飼い方だと蒼は思う。せっかくそんなすごい馬を持っていたのに、人に見せたくもなければ乗りもしない、ただかわいがるだけなんて、どうもよくわからない。女の子が人形遊びでもしているようではないか。 「そうすると、あれかな。馬は好きだけど、乗るのは好きじゃないっていうか。踵で蹴ったり鞭使ったりするのが嫌だったのかしら。いじめてるみたいで」  しかし蔵内はふたたびいんや、と頭を振った。 「旦那様は馬の調教には、それは優れた手腕をお持ちじゃった。どんな気性の悪い悍馬《かんば》でも、旦那様がしばらく預って乗りこめば別の馬のように素直に人に従うようになった。宮家の馬といえば成田の御料牧場で育成されるが普通なのを、わざわざ旦那様の牧場で預ったりすることがあったのも、その優れたお腕を買われたことがあったればです。  しかしな、私もおそばで見ておったから少しはわかるが、馬を馴らすというのはどうしてやさしい仕事でもなければきれいな仕事でもない。もともと人を乗せるとわかって生まれてくるんでもないものを、馬銜《はみ》やら鞭やら手綱やら、道具を使うて無理矢理従わせるのじゃもの。おまえは獣でこちらは人、こちらはおまえより強くて賢いもの、どうあがいても逃れられはせん、それを覚えこませて従わせねばならんのじゃもの。酷《むご》いようでもとにかく一度はそこを通り抜けんことには、人が乗れる馬を作ることはできん。  しかし旦那様は黎明号にだけは、鞭を当てるはおろか馬銜さえかけたくないと思っておられたようじゃ。それだけ、なんというかの、特別だったのじゃと思う」    4  天城から湯ケ島を抜けて修善寺へいたる長く混んだ道のりの間、思いがけぬ多弁さで蔵内老人が語ったのは無論これだけではない。ごく幼いころに両親を失って日本各地の親戚らを転々とした彼の苦労話、それが知人のつてで思いがけず遊馬家に奉公に上がり、難しい主人だとさんざ威かされたが、それまでの暮しを思えばむしろ極楽のように思えたこと、などといった話も縷々《るる》聞かされることとなった。 「なにせ綿の布団で寝られる、白い米の飯が腹いっぱい喰える、それだけでもたいそうなものなのに、昼の仕事がないときには学校にも行かせてもらえましたで」  蒼は内心ため息をつきながら耳を傾けている。たった五十年さかのぼれば、自分には別世界としか思えない老人の半生記も、さして珍しいものではないのに違いなかった。 「男おしんかあ……」  ついことがば口からもれて怒られるかとあわてたが、 「いまの子供のあんたらにゃあ夢物語じゃのお。結構なことだわ、まっこと」  蔵内は逆にからからと声を上げて笑った。 「すると蔵内さんが不在の間に、遊馬氏は結婚されたというわけですか」  京介の問いかけに、笑いを収めた老人はうなずいて見せた。 「さようです。私がいまにいたるまで、その十二の歳から旦那様のおそばを離れたのは、兵役についていた足かけ四年ばかりのことだけですが、最初の徴兵の明けたが昭和十七年九月、その足で松濤のお屋敷にまいりますと、この数日前に旦那様がとうとう結婚されたということで、さすがにたいそう驚いたものでした。  もちろんご縁談はご帰国当初から出ておりましたが、お母上がいくら情を尽くして説こうと耳を貸そうともなされない、お父上が半ば力ずくで先様のお宅へ連れていくと、いきなりスペイン語でまくしたてたあげく席を蹴って逃げ出して、そのまま熱川へ行ってしまわれる。どうにも手がつけられぬ始末でありました。  使われている者たちの中では、やはりあの方はまともでない、心が病んでおられるなどということさえささやかれるほどで。ご両親も、一度は死んだと思ったのが戻ってきてくれたのだから、仕方ないかと半ばあきらめ気味になっておられたものでした。それがなんでも私が兵役についておる間に、上のおふたりの兄上が次々とあっけなく病死されてしまい、もはや家を継がれるのは歴様以外ない、どうでも結婚なさって跡継ぎをもうけていただかねばならない、ということになってしまったのでありました」  蔵内青年は祝いを述べに参上した。遊馬歴は十二歳の蔵内が初めて彼と引き合されたときと同じ、屋敷の一番奥にある書斎にひとりいた。昼だというのにカーテンを引いた薄暗い洋間の椅子にかけた主人を見て、彼は激しく胸を突かれる思いであったという。 「このたびはおめでとうございます、と申し上げようとして、このたびは、の後のことばが口から出ませなんだ。青ざめて、やつれて、落ち窪んだ目の下には黒く隈《くま》が浮いて、まるで幽鬼のようなありさまであられた。『蔵内か』、そう申されたお声にもまるで力があられませぬ。『黎明号が死んだよ』、投げ出すようにおっしゃいます。『俺はもうどうでもよいような気持ちになって、結婚してしまった。なのに誰も彼も人の気も知らず、顔を見れば馬鹿のように祝いのことばしか口にせん。せめておまえはいうな、めでたいなぞと。なにがめでたいものか、これは俺の二度目の弔《とむら》いさ』。私はなんとも申し上げようがありませなんだ」 「そこまでいうかねえ──」  深春が横からため息のような声をもらした。蒼もつぶやく。 「お嫁さんがかわいそうみたいだ……」 「そうですな、確かに。ひっそりと影の薄い、見るからにおとなしげな方であられた。私はその翌年にはまたすぐ再度の応召で北支に行き、帰れたのは戦後も昭和二十二年になってから。そのときはもう奥様もお亡くなりだった。お子を生まれてそのまま逝《い》ってしまわれたのだとか。戦争も末期のことで医者も薬も足りなかったのでしょうが、思えばいたわしいことでありました」 「その夫人が残されたのが、遊馬灘男氏というわけですね」 「さようです」  さあ、するといよいよ遊馬家の戦後の話が聞けるぞ、と蒼は後部座席で身構える。遊馬歴と黎明号の不思議な関係もおもしろくはあったが、なんといってもいまの状況に直結しているのは、灘男と杉原明音の結婚以降の事情に違いないのだ。この結婚に歴の意思はどれほど反映されているのか、理緒が昨夜語った通り、歴は杉原家の資産が目的で息子を結婚させたのか。  いやそれだけでなく黎明荘で起こったふたつの事件の、第一発見者は彼なのだ。理緒からの間接的な説明ではなく、実際に彼が見聞きしたことを聞いておかなくては。ところが気がつくと深春は大きく左にハンドルを切っている。 「さあて、やっと修善寺だ。蔵内さん、道案内を頼みますよ」  深春の馬鹿たれ、なんて気がきかないんだと蒼は腹が立ってならない。もう着きそうだとなったらそしらぬ顔で、少し遠回りでもすればいいじゃないか。このチャンスを逃してしまったら、いつまた蔵内の話を聞くときがあるかわからないのに。  修善寺の町というのは桂川に沿う道の両側に、ごちゃごちゃと小さな店屋の並ぶひどく古めかしい温泉街だった。中には射的屋やスマートボールなどという古色蒼然とした、いまどき田舎の縁日かこうした温泉街でしか見られないような店も混じっている。天気に恵まれた日曜の夕方というせいか、恐ろしく狭い道は人と車で目一杯混み合っていて、かさ高いランクルは前に進むだけで一苦労だ。 「こりゃひどい。迂回《うかい》路はないんですか」 「ありませんな。混んではおってもこの先の虎渓《こけい》橋を渡るのが一番近い。そうしたら指月殿とある矢印の方へまっすぐに上がっていって、後は道なりですぐですわ」  その附近は修善寺観光の中心らしい。ただでさえ狭い道に車を止めて、土産を買ったり川の中州に建つ露天風呂を見物したり、写真を撮ったりする人であたりはいっぱいだ。だが、それならいっそ動けないくらい混んでしまえばと思う蒼の希望とは裏腹に、車は人をかき分けながらのろのろと桂川にかかる橋を渡った。  川に臨んで高級そうな温泉旅館の立ち並ぶ町並みの背後へ、細い坂道を昇っていく。あたりはすでに黄昏《たそがれ》、初夏の遅い夕闇が竹の緑濃い山肌からすべり落ちてこようというころあいだ。  丸石を敷いた細くていかにも古そうな道を横揺れしながら走っている、と思っていたらふいに、ずっと続いていた右手の暗い緑が切れた。開かれた大きな門がある。緑はきちんと手入れされた高い生け垣だったのだ。 「あんたらはここでお降りなさい。車は私が裏に回しておくから」  蔵内老人にうながされて三人は門前に降り立った。門を入ってすぐ目につくのは枝振りも見事な松の老木と大きな石灯籠。地面に敷き詰めた細かな砂利にはきれいにほうき目が入れられ、御影の飛び石が緑の築山を巻くようにして数寄屋造りの玄関へ続いている。この前庭だけで最近の住宅なら、ゆっくり二軒は建とうという広さだ。灯の点された玄関の格子戸はすでに開かれ、はしりの花をつけた百日紅《さるすべり》の枝が垂れかかってあざやかないろどりをそえていた。 「いらっしゃいませ、お待ち申し上げておりました」  ぴんと糊《のり》のきいたような声がして、蒼は思わずどきっとなる。玄関の内側にきっちりと着物を着た中年の女性が立って、ふかぶかと頭を下げている。顔が上がった。それも声にふさわしい、女学校の舎監かなにかを連想させる恐いような感じの顔だ。 「あ、あの、杉原さんでいらっしゃいますか」  かなり間抜けた深春の問いに、女はにこりともせずに答える。 「とんでもございません、私は当家の女中頭でございます。どうぞお上がりくださいまし、皆様お待ちかねでいらっしゃいます」   魔女たちの宴    1 (じょちゅーがしら、だって──) (まいったな、こりゃ……)  外よりも気温が二、三度低いような気さえする広々とした玄関に立って、蒼と深春は思わず目と目を見交わしている。  青紫のあやめを投げ入れて、さりげなく置かれた備前焼の大壺。壁には黒漆の色紙掛けに薄墨で書き流された色紙が一枚。無論一字も読めはしないが、左下に押された落款《らっかん》の朱色があざやかだ。床では古代裂《こだいぎれ》をしいた小さな青磁の香炉が、ゆらゆらと香煙を上げている。超高級な日本旅館、それとも料亭。無論そんな場所には行ったこともないが、それくらいしか連想が浮かばない。  女中頭と名乗った女性の後について、焚香《ふんこう》のかおりの漂うほの暗い長い廊下を歩く。黒びかりするほど磨きこまれた床板に、スリッパの足音のぺたぺたと鳴るのが我ながらぶざまに感じられてならない。先をいく女性はほとんど音をたてないのに。 「俺たちそぐわねえな。思いっきり」 「ンなこといったっていまさら、だよ」  声を殺してささやき合う。深春は遅まきながら頭に巻いた赤いバンダナを外したが、そんなことをしてもとうてい追いつくものではない。着たきりのカーキのTシャツに作業ズボン、ポケットつきのベストでは、よく見られてもジャングルの従軍カメラマンといったところだろう。蒼にしてもスリムのジーンズにアニマル・プリントのTシャツと肩のトレーナーだから似たようなもので、こうなるとしわだらけの、それでも麻のジャケットをひっかけてきた京介が一番ましだった。例によって両手を無精たらしくそのポケットにつっこんで、たいそうな家の造りにたじろぐふうもなく長い足を運んでいる。  廊下を回りこむように曲ると、急に行く手が明るくなる。こちら二段ほど下りますので、足元をお気をつけください、といわれたそこから向こうは、驚いたことに完全な洋館だった。刳《く》り形《がた》の控え目な装飾がある白い壁には金色の壁灯が輝き、床にはワイン・レッドの絨毯《じゅうたん》が敷きこまれている。いくつものドアが並ぶ小さなホールのような場所だ。女中頭はその一番手前のドアをノックすると、細く開いた内部に向かって二言三言いったようだったが、 「お入りください。ただいまお茶をお持ちいたしますので」  いいおいてさっさと行ってしまう。 「おい、どうする?」 「どうするったって……」 「蒼、開けろよ」 「深春こそ」  なんとなくためらっているふたりを後目に、ひょいと肩をすくめた桜井京介は、ドア・ノブを掴んで無雑作に引く。そして目の前に部屋の内部が出現したとたん、 (うわッ──)  蒼は危なく声を上げるところだった。ドアの真正面から三つの顔、六個の目が、まるで舞台に登場する役者を待ち受けるようにまっすぐにこちらを見つめていたのだ。    2  室内装飾はぞんぶんに金をかけたロココ調。切り子ガラスの玉が滝のように下がるシャンデリアに、レエスのカーテンがまつわる縦長窓、薄肉彫のレリーフに飾られた白大理石のマントルピースというこしらえだ。  四本の脚がほっそりと曲線を描く椅子の布張りも、蹴つまずきそうなほど毛足の深い絨毯も、お定まりのロカイユ装飾で固められた壁鏡の縁も、目の行くところはほとんどすべて明るい薔薇色に統一されている。普通の男なら座っているだけで、気恥かしくなるようなデザインだった。  だがそのときはとうていインテリアなぞ、鑑賞している余裕はない。鑑賞されているのはこっちだった。三人の娘たちのそれぞれふんいきの違う、だが遠慮ないことでは変わらない視線によって。 「座らせていただいてよろしいですか?」  真っ先に口を開いたのはやはり、めったなことでは動揺などしない京介だ。 「別荘だと伺いましたが、ずいぶん広いお宅ですね。すっかり足が疲れてしまった」 「まあ、すみません。気がつきませんで……」  そういって立ち上がったのは、向かって右手に座っていた着物の女性だ。血を昇らせた色白の頬を両手で押さえると、 「失礼いたしました。どうぞ、おかけくださいまし」  つやつやと絹糸のようなまっすぐの黒髪の後ろに、明治の女学生さながら大きなリボンを結び、細かな花柄を散らしたやや暗い赤色の大振り袖を着ている。軽く会釈して向かいのソファに腰を落とした京介に、 「遊馬|蘇枋《すおう》と申します。なんですか妹が、お手数をおかけしているようで」  髪が床につくほど深々とおじぎした彼女のことばに、かぶさるように新しい声がある。 「あらお姉様。せっかくの自己紹介ならもっとちゃんとなさらなくっちゃ。遊馬蘇枋、二十三歳、長女。杉原学園短大卒業、現在花嫁修業中。婚約者あり、この秋挙式予定。そして未来の杉原学園学長──」 「朱鷺《とき》ちゃん、あなたったらそんなことまで──」 「どうして? 別にスリーサイズや下着の好みをいったわけじゃないわよ」  いいながらけらけら笑っているのが、扉の真ん前に陣取っていた娘だった。こちらも髪は肩を越すくらい長いが、それをきついカーリーにしておまけにところどころ金色のメッシュに染めている。着ているものも体の線をはっきり出すピンクのニット・ワンピース、それも高々と組んだ腿の奥まで見えそうなミニだ。メイクもかなり濃い目だが、作りの大きい派手な顔立ちにはそれがよく似合う。プロポーションも含めて、充分美人の範疇《はんちゅう》に入ることは間違いない。 「あたしは次女の遊馬朱鷺、顔にも似合わずクラシック、というより絶滅寸前な名前なのよ。ただいま二十一歳。去年杉原学園短大を卒業して、仕事にはちゃんとあぶれてるわ。友達は多数、でも婚約者はもちろん恋人もいまのとこなしってわけ。あなた、どう。立候補してみない?」  誘惑というにも露骨なせりふだったが、京介はなんの反応も示さない。耳のないように聞き流している。もっとも彼の顔のほとんどは例によって長すぎる前髪と眼鏡の向こうに隠れているわけで、少々赤くなったりしたとしてもわかりはしないのだが。 (あの真っ赤っ赤おばさんの娘なら、こっちの方がぴたりだな)  蒼は思う。姉妹なのだから顔の造りは似ているのだろうが、妹が目立たせようとしているところを姉の蘇枋はことごとく押さえこもうとしているようだ。  たとえば目つきひとつ取っても、朱鷺は挑戦的なまでにまっすぐ相手を見据える。逆に蘇枋は伏し目がちで、ほとんど視線を合せようとしない。そのくせ長いまつげの間から、ちらりちらりと常にあたりを窺《うかが》うように見回している。昔、ひたすら家の中に閉じこめられていた時代の女というのは、そんな目つきをしていたのではないだろうか。日本的とか女らしいとかいって喜ぶ男は多いかもしれないが、抑圧が強そうな女というのはどこか本音が知れなくて不気味な気がする。 「ほら珊瑚《さんご》、あんたの番よ。なにかいったら?」  朱鷺が顎をしゃくった。つられてそちらに目を向けた蒼は、あれっとなってまばたきした。理緒が黙って座っていたのかと思ったのだ。だがよく見ればもちろん違う。こっちは理緒よりずっと太めで、しかもへたくそな化粧をしている。ふわふわにパーマをかけた髪は顔の左右にリボンで結び、黄色みがかったピンクのサマー・セーターを着ているのだが、これが髪型も服装もまったく似合っていない。ぽっちゃりしていちご味の綿あめみたいな顔なのだから、せめてニコニコと愛想のいい笑顔でも見せていればそれなりにかわいいのに、ふてくされたようにむっつりとしているからよけい不細工に見えてしまう。 「いやよ、ばかばかしい。なんであたしが関係もない人に、自己紹介なんかしなきゃなんないのよ」  彼女は肉のついた頬をふくらませて、ぶすっと答える。 「いつまでここに座ってなきゃなんないの? あたしはパパのとこに行きたいのに」 「ほっといたってパパはいなくなったりしやしないわ。でもそんなに行きたけりゃ行けば? ママは怒るでしょうけどね」 「なによ、朱鷺姉さんなんかえらそうに。自分だってしょっちゅうママに怒られてるくせにさ!」 「はは、あんたふくれるとよけい太って見えるわね。おもしろい顔して、いったいいま何キロあるの?」 「そんな、ひどおいッ!」  驚いたことに珊瑚はテーブルの上のガラス壺に手をつっこむと、掴み取ったキャンデーを三つ四つ、姉の顔めがけてたて続けに投げつけた。朱鷺は笑いながらよけていたが、とうとうその一個を鼻に命中させられてきゃっと悲鳴を上げる。 「痛っあ!」 「朱鷺ちゃん、珊瑚ちゃん、お客様の前で喧嘩なんかしないでちょうだい」  長女がようやく立ち上がっておろおろと口を挟んだ。 「申し訳ありません、ほんとうに、お見苦しいところを」  珊瑚はふんと顔をそむけ、朱鷺はたったいま上げた悲鳴も忘れたように、口を笑いのかたちにしてこちらを向く。 「あらどうして? よそ様にはけっこう興味深い見ものだったんじゃない。ねえ?」  マスカラ塗りの視線がいきなり蒼に回ってきた。そうあけすけに問われても、はいそうですといえるわけはない。抑圧の強い女は不気味だが、抑圧ゼロの女もどうかしてると蒼は思う。 「当人がいわないからあたしが代わるわね。この子は遊馬家の三女で珊瑚、十九歳。いまの見事な投げっぷり、ごらんになったでしょ? 高校時代はソフトボール部のエース・ピッチャーだったのよ。いまは杉原学園短大の二年生。  そ、我が家の娘はみんな、学校は杉原学園なの。別に喜んでそうしたわけでもないけど、おわかりでしょ? あの母上にそうと決められれば、ちょっとやそっとでひっくり返せやしないわ。アマゾオヌの女王様に逆らい抜いて、あっぱれ初志を貫徹したのは理緒が初めてってわけ」  さすが実の娘というべきか、遊馬明音を指して『アマゾオヌの女王様』とはぴったりしすぎるくらいのニックネームだった。もっともそういう朱鷺にしても、充分王女様くらいの迫力はある。椅子からゆったりと腰を上げ、高く突き出た胸の下に腕を組んで話しながらぶらぶらと近づいてくると、椅子にかけた京介の正面で足を止めた。まつげを上げて例のぶしつけなまでの視線を、彼の顔に集中させる。 「桜井さん、ておっしゃいましたっけ」 「はあ」 「変わった髪型をしてるのね。なにか理由でもおありなの?」 「目的というよりは、結果ですので」  不吉な予感でもしたのかもしれない、京介はさりげなく立ち上がって奥の窓の方へ歩く。相手を避けたのではなく、外の景色に気を惹かれたといったポーズ。縦長のガラス窓の向こうはよく手入れされた和風庭園だ。 「ふーん、そうなの。だったら別にいいわけよね、こうさせてもらっても!」  遊馬朱鷺がなにかスポーツをやっているのかどうかは知らないが、その瞬間のすばやさは相当なものだった。はっと振り返った京介が腕を上げるのも間に合わない。朱鷺の右手が垂れた前髪を撥ね上げる。左手が眼鏡を引き外す。そうしてあらわにされた彼の顔を、立ちはだかった朱鷺はまじまじと見つめた。  もちろんほかのふたりの目も、そこに集中する。いや、彼らだけではなかった。ちょうどその折も折、部屋の扉が開かれて四人の女性が入ってこようとしていた。先頭は明音、後ろに五十年配のもうひとり、それから和服に着替えた理緒とお茶のワゴンを押してきたさっきの女中頭。女七人の十四の目だ。なまじ椅子から窓際に移動していたために、彼はその場の全員の視線にさらされることとなった。 「驚いたわ──」  ややしばらくして朱鷺がつぶやいた、声がわずかに喉にかかってかすれている。頬が上気したように赤い。 「どうして隠したりするのよ、あなた。そんなきれいな顔して……」    3  その夜。杉原家の修善寺別邸では、遊馬明音いうところの『小さなパーティー』が開かれている。会場は数寄屋風の和館に隣接する、さっきの応接間を含む洋館だった。  広間と大小ふたつの応接間のある洋館のドアはすべて開け放たれて、何ヵ所かに料理や飲み物を置いたテーブルが置かれた。立食式とはいっても椅子やソファ、小卓はあちこちにあるので、客たちはむしろ話の合う相手と気に入ったところに陣取って、そこへ料理を運んでもらうというかたちだ。おかげで立ったまま、皿と箸とグラスの三つを二本の手でいかにそつなく操るか、という問題にだけは悩まなくてすむ。  もともと自分はただのおまけだと心得ている蒼は、三つの部屋をつなぐ小ホールの壁際にさっさと居を定めた。料理の方は無論|怠《おこた》りなくたっぷりといただいている。年配の客が多いためか大半は、伊豆の魚介を材料にした日本料理だったが、このためにプロの料理人を頼んでいるのか、味はもちろん見た目の美しさにも大いに力が注がれている。使われている食器類も、おそらくは高価なものだ。蒼にわかったのはガラス器がバカラ製なことだけだが、後は推して知るべしだろう。  家族と蒼たちを除いた招待客は二十人ばかり、杉原家と昔からつきあいのある修善寺の人たちらしい。その間をとても四十代とは思えないあざやかな茜《あかね》色の着物を着て、さっそうと巡り歩いては誰にも愛想のよいことばと笑顔をふりまいているのが遊馬明音社長。着物姿にさっそうというのは変かもしれないが、ほかの形容詞は彼女の場合見当たらない。  明音のそばについているのが彼女の姉、杉原静音。未婚の学園長というわけだ。聞いたところでは明音と二歳しか違わないというのだが、明音の方が若作りすぎるせいもあるのか、それよりずっと老けて見える。髪は染めずに灰色のまま、着物もくすんだ錆桔梗《さびききょう》という地味さだが、身なりだけでなく顔の表情も声も話し方さえ妹とは対照的に控え目な姉だ。背丈や体つきは同じくらいなのに、印象はまったく違う。 (明音《あかね》に静音《しずね》、蘇枋《すおう》に朱鷺《とき》に珊瑚《さんご》に理緒《りお》、か。女だらけだな、このうちって)  伊勢海老の塩茹《しおゆ》でにマヨネーズをつけてぱくつきながら、蒼は考える。 (お祖父さんは長生きしたけど死んじゃったし、健在な男は結局夫で父親の遊馬灘男氏だけか。──あれ?)  いま気がついた。遊馬家の当主の姿がどこにもない。来なかったのだろうか。昨夜女社長は、娘と姉と来たとしかいっていなかった。しかしさっき三女の珊瑚が『パパのところへ行く』といってたのは、当然彼のことなはずだ。とすれば前に理緒がいったとおり彼は体を悪くしていて、別荘までは来たものの、パーティーに出られるほどには回復していないのだろう。  それにしてもさっきはすごかった。女もあれだけ一部屋に溜まると、そのままほとんど『魔女!』という感じがする。さすがの桜井京介も十五秒は完全に絶句していた。しかもそのときの彼ときたら── 「蒼くん、隣座っていい?」  顔を上げると理緒が立っていた。 「もちろんどうぞ。着物、似合うね」 「そう? これ、静音伯母様からの借物なの。蘇枋姉さんの振り袖を着ろっていわれたんだけど、どうしても気が進まなくて」  たしかに普通若い女の着る和服といったら袖のぞろりと長い振り袖だが、いま彼女が着ているのは袖丈がだいぶ短い。紬《つむぎ》というのだろうか、着物は紺色の無地で帯は臙脂《えんじ》。だがそんな渋い色合いがむしろ、きりっとした彼女の顔にはよく映る。 「さっき見たとたんにいいなって思ったよ。でもいうチャンスがなくってさ」 「さっき? ──ああ、でも驚いたわ。あのときは、ほんとに……」  いいながら理緒の視線があたりを見回す。話題の主を探しているのだろう。 「京介のこと、あんな顔してるなんて思わなかった?」 「思わないわよ、それは。でも、どうして?」 「どうして、顔隠してるかって?」 「ええ──」 「嫌なんだよ、あんなふうにじろじろ見られるのがさ」 「でも、あんなにきれいなのに……」  理緒は心底不思議そうだ。どういうものか同じものを見せられて、しかし反応は男女で完全に分れてしまう。どうして隠すのか、女はいつまでも不審がり男はすぐに納得する。つまり、桜井京介の素顔を見てだ。  実のところ桜井京介は、美形というか美貌である。それも類稀《たぐいまれ》な、といってもさほど誇張したことにはならないほどの、だ。  彼が髪の毛のバリアなしで道を歩いたら、すれちがった女の百人に九十九人までは確実に足を止めて振り返る。たとえはあまり良くないが、猫がまたたびの匂いでも嗅ぎつけたみたいに。  髪と眼鏡で隠していればだれも気づかないのだから、それはやはり未知のフェロモンなどではない、視覚的な刺激なのだろう。だがほんの一瞥《いちべつ》で立ち止まってしまった女たちは、それほど鮮明に彼の顔を捕えたわけではない。むしろそれは一瞬の印象とでもいったもので、視界をかすめたとたんほとんどの女と、一部の男さえその場に釘付けにしてしまう。目の開け閉めにじゃまになりそうなくらいまつげが長くて濃いとか、その下の目がやけに大きくて切れ長で、しかも日本人にはちょっと珍しいくらい淡い色をしているとか、やせた頬のわりに唇が豊かだとか、細部にまで目が行くのはそれから後のことだ。  ハンサムという、男の顔に対する形容としてはより一般的なことばは、この場合まったく適当ではない。ハンサムなら同性にも羨ましがられるかもしれないが、美形ではむしろ忌避される、とでもいおうか。そして決して逆説ではなく、顔は桜井京介の最大の弱点なのだ。人目を引きすぎるほどに特異な容貌というものは、醜であろうと美であろうと一般人には重荷である。しかし男には簡単に納得されるこのことが、どういうわけか女には、頭の善し悪しにかかわりなくさっぱり理解されない。 「あのさ、そのことあんまり、面と向かって京介にいわない方がいいよ。ぼくになら、なにいってもかまわないけど」  まだ得心のいかない顔をしている理緒に、蒼はいった。 「顔のことをいろいろいわれるの、はっきりいって嫌いなんだ、彼」 「わかったわ。でも、朱鷺姉さんはあきらめそうもないけど」  理緒の目がさしたところに、羽織|袴《はかま》を着た禿頭の老人と立ち話する京介と、なんとかその注意を引こうとうろうろしているピンクの大振り袖が見えた。プロポーションには姉妹の中で一番恵まれた遊馬朱鷺嬢も、和服の着こなしは苦手らしい。動作が妙にぎこちなくて、派手な着物ばかり浮いてしまう。しかしあれではまるで鶴の求婚ダンスだ。  蒼は思わず声を上げて笑いそうになって、あわてて下を向いた。京介にはとんだ災難としかいいようがないが、さすがにそこまで面倒を見るつもりはない。  食事の方はだいたい終わったらしく、招待客たちは腰を上げて飲み物のグラスを片手にゆるゆると動き回っては会話と社交に精出している。京介はあちこちにできた人の輪を、まんべんなく回り歩いているようだ。あの髪型で反感を持たれることさえなければ、人に話を合わせて聞きたいことを聞き出す技術は彼のお手のものなのだ。  深春はやけに料理のテーブルに張り付いていると思ったら、蔵内老人へのインタビューで味をしめたのか、今度は杉原家のコックやお運びさんたちに接近しているらしい。  それほどの勤勉さは持ち合せない蒼は、相変わらず椅子に座ったまま行き交う人間たちを観察する。だれも紹介などしてはくれない分は、隣に座った理緒が片っぱしから教えてくれた。 「いま静音伯母様と話してる和服のおじいさんは、杉原家が戦前からおつきあいしている修善寺彫りの名人なの。いっしょにいるのは修善寺のご住職、いま離れて飲み物を取りにいった中年の人は確か老舗《しにせ》の鈴屋旅館のご主人だと思う」  よく覚えてるもんだなと感心しはするものの、どう考えても蒼にとって興味のありそうな人はいない。壁際の椅子から目をきょろきょろさせて、やはり覚えのある者の方に視線が行く。 「いま蘇枋さんのとこにジュース持っていったのは?」 「杉原|晋《すすむ》さん、姉さんの婚約者」  後ろ姿なので仕立のいいスーツと、ぴしっと固めた髪くらいしかわからない。広間のソファに腰掛けた蘇枋が礼をいってグラスを受け取る。男はそのまま前に立っているが、彼女の方は伏し目がちに座っている。大して嬉しそうでもない顔だ。結婚間近な婚約者とはいっても、恋人ではないということだろうか。 「杉原さんていうと、親戚かなにか?」 「静音伯母様の養子なの。学園の理事の息子さん」 「なるほど……」  未婚の学長が理事から養子をもらい、姪《めい》の婿にして学校を継がせるというわけだ。まあ遊馬家にはあと三人娘がいるんだし、長女を嫁にやっても問題はないのだろう。明音がそれだけ実家の事業を、重く見ていることの表われかもしれないが。 「──あら、ずいぶん遅かったのね。|醒ヶ井《さめがい》さん」  いきなり遊馬明音のよくとおる声が響いた。和館からつながるのではない、洋館側の玄関に通ずる扉が開いて、男がひとり入ってきている。紺のダブルのブレザーを着て、半白の髪に口髭をはやした中年男だ。たっぷりついた皮下脂肪を日焼けした皮膚でどうにか引き締めて、口をきかなければ印象は一見辛うじて紳士風、とでもいっておこうか。女社長はいやに親しげな身振りで彼を出迎えた。 「あなたときたらまるで連絡もくれないんだから、てっきりすっぽかされたのかと思ったわよ」 「いや、社長、誠に申し訳ない。東名の渋滞に引っ掛かった上、自動車電話が故障してしまいましてね」 「言い訳には事欠かない人ねえ。まあいいわ。こちらはね、W大で建築史をやってらっしゃる桜井京介さん。熱川の別荘を調査してくださっているの。桜井さん、こちらは醒ヶ井玻瑠男さんとおっしゃって、主にリゾート地の不動産を取り扱っておいでになる方よ」 「調査、というと社長、私は初耳ですがなにか──」  もちろん初耳には違いない。明音自身知ったのは昨日のことなはずなのだから。ところが彼女は平然としたものだ。戸惑った顔で口ごもる醒ヶ井にさっさと水割りのグラスを持たせて、 「別に心配することはないわ、私たちの方針に変わりはないんですから。気になるというならしばらく先生に、講義でもしていただいてちょうだい。桜井先生、よろしくお願いしますわね」  にっこり笑ってほかへ行ってしまう。これでは相手は調査を頼んだのは、明音自身だとしか思えまい。 「おもしろいね、どうしてお母さんはあんないい方したんだろう」  蒼は声をひそめてささやいたが、答えはない。振り返って驚いた。理緒の顔はひどく青ざめ強ばっている。 「だいじょうぶ? 気分悪いの?」 「ううん、平気よ」 「ぼく、あのふたりがどんな話をしてるか聞いてきたいんだけど」 「いいわよ、行ってきたら。私はここにいるから」  それじゃあと立ち上がったが、理緒の表情が気になってならない。思わずもう一度振り返って、 「ね、どうしたの?」  尋ねた蒼に理緒は小さな声で、だがきっぱりと答えた。 「私、あの人嫌いなの」  桜井京介と醒ヶ井玻瑠男は、広間の外に張り出したポルティコの椅子に向い合っていた。庭に臨んだ石張りのテラスには、鋳鉄のテーブル・セットが何組か並べられている。温暖な伊豆の五月ともなれば陽は落ちても寒くはないが、他の客の姿はなかった。室内からの明かりのほかは照明のない場所なので、誰の目につく心配もない。蒼は大胆に背中合せの椅子にすべりこんだ。もしかすると初めからそのつもりで、京介は相手をここに誘導してきたのかもしれなかった。 「──ですからね、これからはレジャーもクオリティと同時にリーズナブルなプライスが要求される。質が良ければ高くてもいいとはだれもいわないが、決まった祭日や盆暮れに押し合いへし合い、くたくたに疲れて帰るようなレジャーはいまさら御免だとわかってきとるんですよ、日本の大衆も。不景気だといって、別にいますぐ貧乏が来るわけじゃない。むしろつまらない金の使い方はしないでじょうずに遊ぼうと、何十万の海外旅行より近くでゆったり楽しめればその方がずっといいと、ますますそういうことになりますよ」  樹の香に満ちた心地好い外気に、あまり心地好いとはいえない中年男のがらがら声が響いている。 「伊豆はいいところだ。東京からも名古屋からも近い、きれいな海がある、深い山がある、温泉がある。夏はマリンレジャー、冬は避寒、春は花で秋は紅葉だ。そして一年中うまい魚が食べられる。伊勢海老に高足がに、あわびに金目鯛、ねえ。おあつらえ向きに新鮮なわさびも取れれば、ヘルシーな椎茸《しいたけ》も、魚ばかりじゃ物足りないという人には天城の猪もある。こんなところが日本中でほかにありますか。まったくもって、いうことないでしょうが」  まるで自分が伊豆を作ったみたいな口調だ。蒼は笑いたいのを必死にこらえる。 「しかし伊豆の旅館は高い。まったくうんざりするくらい高い。団体には値引きするくせに個人の客からは、それも二人客なぞからは、目の玉の飛び出るような料金をふんだくる。施設はどんどん大規模化するのに、きちんと客を扱えるプロの仲居は減る一方。日本旅館のくせに食堂でお願いします、部屋でゆっくり夕飯なんて贅沢になってくる始末だ。  おまけに旅館の献立ときたら十年一日の懐石風で、この飽食の時代だというのに量と品数ばかり無闇と多い。食べきれないほど料理が並ばなけりゃ満足できないなんてあんた、食糧難時代の発想でしょうが。食べられないものを出されてそれで高いんだから、だれだってうんざりしますよ。といってほんとにこまやかなサービスの受けられる小規模な宿は年中常連で占められているし、民宿は安いが部屋や風呂が貧弱だ。ではどうします。  だからねえ、桜井先生。伊豆ではもっともっと分譲式のリゾート・マンションが増えますよ。近いから気軽に来られる。遊び方がいろいろあるから飽きない。和食でも洋食でも車でちょっと出さえすれば、うまいものを食べさせる店はすでにいくらでもあるし、キチネットはついているからやる気があれば新鮮な素材で料理道楽も結構だ。お仕着せの旅館飯よりその方がずっと、いまの人間の感覚にゃマッチするってもんでしょう。そして部屋は無論冷暖房、防音も完全でプライバシーは保て、バス・トイレは完備だが旅館なみの大浴場もちゃんと用意されている。いかに不景気の時代とはいえ、これなら売れないわけはないでしょうが。あなたもいまの内にいかがです、おひとつ」  長口舌がようやくひと区切りついた。と思ったらぱんぱんと手を鳴らして人を呼ぶ。 「おーい、ビール頼むよ。グラスはふたつね。──で、先生。調査の件ですが」 「はい?」 「ひとつこう、手っ取り早く結論を聞かせていただけませんかな。あの別荘の建物が、どうだとおっしゃるんです?」 「非常に興味深い建築だと思います。デザイン的にも密度が濃いし、保存状態も大変によい。あの敷地にマンションを建てるにしても、別荘をそのまま残すことはぜひ検討していただきたいものですね」 「そーれはだめだ、先生。無理ですよ、とっても敷地が足らない」  醒ヶ井は後ろにいる蒼の目にも映るほど、ぴらぴらと右手を振り動かした。 「いまでさえ狭すぎるんですからね。ごらんになられたんならおわかりでしょう? 庭の半分は傾斜と崖だもの。戦前の敷地のままだったらともかく、遊馬の爺さんもずいぶん回りを切り売りしちまいましたから」 「しかし醒ヶ井さん。熱川の近辺だけでもすでにかなりの数の別荘地やリゾート・マンションが造られているようですね」 「ええ。そりゃさっき私がいったようなことは、まあ、だれでも考えることではありますからね」 「これは素人考えですが、リゾート・マンションのような必需品でない商品には、やはりイメージとか特色といったものが必要なのではありませんか? 設備の質といっても、結局はどこも似たようなものになってしまうでしょう。伊豆の魅力だけでは、お隣のマンションではなくここ、という吸引力に乏しいのではありませんか」 「それはまあ、そうですな。後は価格の競争か。あ、どうぞ一杯」 「ちょうだいします」  自分から進んで飲むことはめったにないが、飲ませればいくらでも飲めるのが京介の酒だ。そして飲んでもなにひとつ変わらない。つまり酔ったように見えない。深春なぞ、こんなやつに飲ませるのは酒の無駄使いだという。ともかく潰される恐れはないだろうが、彼はどこへ話を持っていこうとしているのだろう。 「で、先生はなにか、よいお考えをお持ちなわけですか?」 「遊馬歴の別荘ですよ。そのスタイルをマンションの建築にも生かして、南国スペイン、それもアンダルシアのイメージですべてを統一する。もちろん別荘は残すんです、共有スペースとして」 「ほうほう」  醒ヶ井の相槌にはどことなく、馬鹿にしているような響きがある。 「まあしかし、スペイン風というのはさして珍しい趣向じゃありませんな。東京のマンションでもあのざらざらしたスペイン壁というやつを使ったのが一時ずいぶん流行ったが、後で薄汚れて始末に困ったようです」 「ですからその趣向を差異づけるのが、あの別荘なのですよ」  京介は自信たっぷりの口調で断言する。 「赤坂や高輪のプリンスホテルに行かれたことはありませんか? 旧宮家の住居を買収して建てられたあのホテルの敷地には、宮内省|内匠寮《たくみりょう》の建てた宮邸の洋館がそのまま残されていますよ」 「ああ、そういえばポスターなんぞで見たような気がしますな」  醒ヶ井は口髭の端をひねる。 「そう。ありゃあ素人目にも、なかなかきれいなもんだった。貸席なんかに使っているらしいですな。しかし先生、こちらの別荘の方はそれほどたいそうな建築ですか?」  京介は軽く間を置いた。 「醒ヶ井さんは、ヴォーリズという名の建築家をごぞんじですか?」 「いや、ぞんじませんが」 「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。アメリカ西部カンザス州に生まれ、一九〇五年来日し、後に日本人と結婚して日本に帰化、六四年に日本で亡くなりました」 「ははあ、するといわゆるお雇い外国人というやつですか」 「いえ、彼の来日は明治三十八年ですが、明治政府が西欧技術導入のために外国人を雇った時代は、すでに過去のものとなっていました。彼はそもそもキリスト教の伝道師をこころざし、県立滋賀商業高校の英語教師として来日したのです。それが彼の人柄に心酔した生徒たちの大量洗礼、危機を覚えた仏教徒側からの反対運動による解雇、その逆境をバネとして近江伝道団と建築設計事務所の開設、さらにはアメリカ・メンソレータム社の日本代理店としてメンソレータムの生産販売権を与えられての近江兄弟社の設立、と進むヴォーリズの軌跡は変化に富んで実におもしろいのですが、いま我々にかかわりがあるのは彼の建築家としての実績です。  彼の営んだ建築事務所は日本全国におよそ八百の作品を実現し、その半数が大小さまざまの住宅です。そして彼がもっとも好んだ建築スタイルがスパニッシュでした。大正から昭和初期に流行した洋風住宅の、モデルともいうべきものを彼は設計したのです」 「メンソレータムの近江兄弟社、というのは確かに覚えがありますな。するとそのヴォーリズというのは、非常に名高い建築家だということですか」 「おっしゃるとおりです」 「スペイン、スパニッシュ。おや、すると先生は遊馬さんの別荘もそのヴォーリズが作ったんだというわけですか?」 「そう、あの別荘が建てられたのもちょうど昭和の初めでしたね」  あれあれっと蒼は思う。昨日とは話がずいぶん違うようだ。 「同じ伊豆の熱海にヴォーリズの作品がありました。あるいはごぞんじかもしれませんが、明治のディレッタント貴族として名高い蜂須賀正侯爵の熱海別邸がそこにあったのです。侯爵は十七歳で英国ケンブリッジに留学し、七年間の留学を終えて帰国後もフィリピンのジャングルに有尾人を探しに行くやら、日本人で初めてアフリカにサファリ旅行をするやら、みずから飛行機を操縦して事故を起こすやら、いわば奇行で世間の耳目を集め続けました。その彼がヴォーリズに命じて作らせたのがこの熱海別邸で、庭には椰子《やし》の木を茂らせ、イスラムともゴシックともつかぬ装飾をほどこした奇怪な屋敷に、ジャングルやサバンナから持ち帰った剥製《はくせい》に囲まれて、戦後も昭和二十八年に亡くなるまで住み続けたといいます」 「ほおほお、なにやら似とりますな、その侯爵と遊馬氏の経歴は」  今度の相槌は、前のよりだいぶ熱がこもっていた。 「遊馬歴氏も、戦前は男爵でいらしたはずですね」 「そうですそうです。そして自分で建てたあの別荘に戦後は閉じこもって、家族ともろくに顔を合わせぬまま何十年も過ごして、この間、まあやっとというか、ようやくというか、お亡くなりになられたわけで」  ひとりでしきりとうなずきながら、手酌《てじゃく》でビールを注いでは音たてて飲み干す。今度は京介がそのコップに、すばやくおかわりを足す。 「や、恐縮です。しかし先生、それはなかなかおもしろいですな。その熱海の建築、ぜひ見てみたいもので」 「残念ですが醒ヶ井さん、その熱海別邸はもうないんです」 「おや、そうなんですか?」 「蜂須賀家の家系は正氏で断絶してしまいましてね、しばらく空家のまま放置されていた別邸も、この八年ばかり前に取り壊されてしまいました。東京は三田綱町にあってオーストラリア大使館として使用されていた本邸も建て替えられてしまいましたし、蜂須賀侯爵の建築的遺産はことごとく消滅してしまったわけです」 「そう聞かされると、なにやらひどく惜しいような──」  いいかけた醒ヶ井は、急にことばを切ってガハハハと笑い出した。 「いや、先生。これはなんともお人が悪い。いくら私が惜しいと思っても、決めるのは遊馬社長ですからな、いやこれはこれは」 「ですが社長は醒ヶ井さんの見識を信用しておられる。違いますか?」 「いやまあそこはこれで、長いおつきあいもありますから、ははは」 「都心でもこれまで再開発だというと、古い建築はすべてこわしてゼロからやり直すのがあたりまえでしたが、そういう考え方はすでに変わりつつあります。ヴォーリズの建築でも、たとえば近年建て替えられた東京御茶ノ水の主婦の友社では、磯崎新氏の設計で、新しいビルの下部に古いビルのデザイン・イメージを大胆に取り込むというかたちでの、保存を行いました」 「ほお。磯崎新というと、かなり有名な人なんじゃありませんか」 「おっしゃる通りです。もちろん彼の試みは、建築史研究者にとっては諸手《もろて》を上げて歓迎というわけにはいきません。しかし完全な破壊に較べれば、遙かに好ましいともいわねばなりますまい。いずれにせよ一時の経済的な計算で先人が残した貴重な遺産を破壊してしまうことは、これからますます減っていくと僕は思いますね。せっかくほかにはないものが存在しているのに、それを邪魔としてしか考えられないのは発想の貧困ではありませんか」 「うーん、確かにそれは……」 「ここだけの話ですが醒ヶ井さん、こういう大局的な発想はやはり女性には難しいのではないかと思います。そういうときこそあなたのような方に、思いきってイメージの転換を提案なさっていただきたいですね」  例によって京介の臆面もないお世辞攻撃だ。それをお世辞と感じさせないのが彼の、いわば技術だった。案の定醒ヶ井は、手もなくそれに乗せられてしまっている。 「いや、先生のような方にそこまでいっていただくと、私もつい考えてしまいますなあ。まあ、この際ですから私も腹を割って打ち明けてしまいますと、このリゾート・マンション計画を遊馬社長から持ちこまれたときは、正直いっていささか迷わないでもなかったんですわ。敷地が決して充分とはいえないのがなんといっても最大のネックで、すでに近辺に大規模なマンションが二、三あるというのも明らかなマイナス要因ですな。そこを跳ね返すためにはここしかないという特色を出して、差異化を図る必要がある。確かに確かに。名高い建築家の作品であるスペイン風の別荘を核にして、となるとなにかロマンスのひとつも欲しいところですな」  蒼はそおっと立ち上がった。いい加減耳が痛くなってきている。それにしても京介の人の悪さは相変わらずだ。別に彼はあの別荘が、ヴォーリズの作品だなどとは一言もいっていない。ただただヴォーリズの経歴と、彼が建てた熱海の家と、蜂須賀侯爵の話を並べてしただけ。それでも不動産屋のおやじの耳には、学者が折り紙をつけた有名建築家の作品らしいという印象が残ってしまう。  しかし醒ヶ井が別荘保存派に転じたとしたら、どんなことが起こるだろう。 (少なくとも、遊馬明音の反応が見られる──)  そんな提案に彼女は一顧だに与えないはずだ。理緒が疑っているように、自分の犯行現場を抹消するために彼女がその解体を望んでいるなら。  広間に戻るといつの間にかパーティーはお開きで、後片付けをしている使用人たちのほかはもうだれもいない。壁際の椅子に深春がひとり、憮然と足を組んでいた。 「どこいってたんだよ、おまえは」 「外。京介の話聞いてたの」 「ふーん、まだかかりそうか?」 「そろそろ終わるんじゃない、目的も達したみたいだし」 「なんだよ、目的って」 「後で話すよ」 「ちぇっ、まあいいか。じゃおまえ、呼んでこいよ。こっちはそろそろ時間なんだ」 「なに。帰るの?」 「違うの。理緒ちゃんからのつけ文さ、ほれ」  深春はほかから見えないように、小さくたたんだ紙を開いてみせる。そこには線で描いた簡単な見取図と、『父がお会いしたいといっています。十時に、この部屋へ来てください』という文字が書かれていた。   傷つける漁夫王    1  いったいこの杉原家別邸が平面図を描けばどんなかたちになるのか、蒼はどうしても把握できないでいる。雁行する廊下にただ延々とふすまの並ぶ眺めは、どこまでがひとつの部屋なのかもわかりづらく、角を曲るたびにぐるっと回って同じ場所に戻ってきてしまったような気ばかりがしてしまう。第一どうしてこうも照明が少ないのか。 「これが別邸っていうんなら、横浜の本邸っていうのはどれくらいあるんだろうね」  そんなどうでもよいようなことを口に出したのも、黙って歩き続けるのが気味悪くなってきてしまったからだ。パーティーの会場だった洋館から理緒のくれた案内図に従って、入ってきた玄関とは反対の方向に進んできたのだが、まるで無人のお寺ででもあるように、廊下を歩く人の姿もなければ話し声も聞こえないのだ。 「元々は大正の大震災後に、旅館として建てたんだそうだ」  後ろから深春が答える。 「杉原家っていうのは元来、料亭とか料理旅館とかそういう方面で成功して大きくなったらしいんだな。例の明音社長が独身時代にレストラン経営を手掛けた、てえのもそのあたりのつながりからだったんだろう。かなり高級な客筋を狙って建物にも贅を凝らしたし、洋館がついてるのも外国人客にも応じられるように、ということだったらしい。さっき通されたピンク色の応接間も、元は客室として作られたんだろうな。だが結局営業できたのは十数年ばかりで、戦争の激化により閉鎖。戦後は事業方針の大転換で学校経営に主力を置くことになったもんで、旅館としての経営再開はされなかった。  いまはただ個人の別荘というより、杉原学園や株式会社アカネの接待所的な使われ方をしているらしいな。税金対策の意味もあるんだろう。いまどきいくら金持ちでも、これだけの不動産、個人で所有するのは大変だろうし」 「ふうん、どうりで普通の家にしちゃ広すぎると思った。でも深春。いまいったそれ、みんなさっきのパーティーの間に仕入れたわけ?」 「おう、ばっちりさ。これからは私立探偵栗山と呼んでくれ」 「ふんだ。それくらいならさっき蔵内さんの話が終わるまで、もう少しゆっくり車走らせてくれればよかったのにさ」  深春はチッチッと口を鳴らしながら、人さし指を振ってみせる。 「甘い甘い。あれだけ爺さんの口が回ったのも、関係者がみんな故人になった昔の話だからさ。いまに近い話となったら、そうほいほいとはしゃべらないに決まってる。だから自分の身の上話で時間を潰していたんだろうが。それに俺はもうわかっちゃったもんね、かの大ブルー・サファイヤがどこにあるのか」 「えッ、ほんと?」  蒼は思わず目を見張る。京介にならともかく脳みそ筋肉の熊男に、先んじられるなんてことがあるものだろうか。 「どこに? どこにあるの?」 「さーてね。とッ!」 「わお!」  半分後ろを向きながら歩いていた蒼と、深春は先頭にいた京介の背中に音立ててぶつかってしまう。彼が前触れもなしに立ち止まっていたのだ。 「な、なにしてんだよ」 「地図に描いてある廊下が、ない」 「うそ。やだよ、こんなお化け屋敷みたいなとこで迷ったら」 「どっかで曲がり角、間違えたのか?」 「そんなはずはないんだが」  三人が薄暗い廊下の隅で頭を寄せ合っていたとき、 「ごめんなさい!」  蒼はぎょっとする。いきなり壁としか思っていなかったところが開いて、理緒が顔を出したのだ。着物はもう来たときのジーンズとトレーナーに着替えて、片手には懐中電灯を持っている。 「ここらで待っているつもりだったんですけど、なかなか抜け出せなくて」 「そこ、なに? どうして抜け穴なんかあるの?」 「別に抜け穴じゃないのよ。お客様の目に触れないで仲居さんたちが出入りするための、脇廊下なの。──あの、こっちです。桜井さん」  わからないのも道理だった。曲るべき廊下はこれまでのような板張りではなく、部屋としか見えないふすまを開けた、その向こうに畳張りで続いていた。理緒が手にした明かりを向けると、突き当たりが鈍い金色にひかる。彼女が小走りに、一足先にたどりついた、それは黒漆の枠に金粉をなすった紙を張った半間幅のふすまだった。しかし引き戸ではなくドアのように開くらしい。  明かりを消した理緒が、外開きの戸をそっと引く。 「お父さん、理緒です。桜井さんたちをお連れしました」  答える声は蒼には聞こえない。しかし彼女はゆっくりと扉を引き開けると、後の三人を目でうながす。京介、蒼、深春の順で敷居をまたいだ。薄暗い廊下よりもさらに暗く感じられる室内の、一番奥にたったひとつ明かりが点されている。小テーブルに載せられた、ティファニー風のスタンド。ガラスの笠を通すやや鈍い光が、ソファに身を横たえた男の顔を斜め下から照し出している。  男はクッションに上体をもたせかけて、本を読んでいたらしかった。その顔がゆっくりとこちらを向く。まぶたが上がる。とても四人の子持ちとは見えないほど、若々しく端正な細面だった。鋭い鼻の下にたくわえた細い髭のせいか、日本人というよりむしろラテン系の血を思わせる。だがこちらを向いたその目は──  蒼はそれが自分を見ているのではないことに、心から感謝した。端から眺めていてさえぞっと背筋の冷たくなるような、髑髏《どくろ》のからっぽの穴のような目、暗い、動かない、死人のような目だった。 「君かね、桜井くんというのは──」  その目の色にふさわしい、無感動な声音で彼は尋ねた。 「W大の桜井京介です」  京介のいつ変わらぬ平静な口調がそれに答える。 「遊馬灘男さんでいらっしゃいますね。ぜひお目にかかりたいと思っていました」  相手はついと目をそむけた。色のない唇がわずかにゆがんで、苦い笑いめいた表情を作る。だがそれもほとんど仮面の演技のようだ。 「失礼だが私の方は、少しも会いたいとは思わなかったよ」  それが喧嘩腰で吐かれたことばなら、こうも不愉快ではなかったかもしれないと蒼は思う。彼の口から出るときは、あからさまな敵意さえほとんど死にかけている。 「だがこうして来ていただいたのは、一言申し上げておきたいことがあったからだ。学問だとか調査だとか称して、人の家の中へ土足で入りこむような物好きな真似はただちに止めてもらいたい、とね」    2  理緒が息を呑むのがわかった。彼女は明らかに父親がなにをいうつもりなのか知らないまま、こちらを案内してきたのだった。だが昨夜の母親に向かってのように抗議の声を上げるのはためらわれるらしく、両手を胸元で握り合わせ唇を噛みしめる。そして桜井京介の方は、今度も例のしれしれとした調子を崩すことはないようだった。 「とにかく、話をする機会を与えてくださったことに感謝します。結構なお部屋ですね。かけさせていただいてよろしいですか?」 「──好きにしたまえ」  相変わらず死んだような、ひとかけらの好意も感じられぬ口調で遊馬灘男はうなずいた。 「来てくれといったのは私の方だ。いますぐ出ていけといっても、君はその通りにはすまい」 「恐れ入ります」  京介は慇懃《いんぎん》に頭を下げると、彼の正面の肘掛け椅子に腰を降ろす。遊馬灘男はソファの上に、左肘をついて半ば寝そべったローマ人のようなポーズを変えようとはしない。  畳の部屋を洋間風のしつらえで使っているらしい。八畳ばかりの広さの中に、床には分厚く灰色の絨毯を敷き、奥のガラス障子に面して古風な木製の書き物机をどっしりと据えたところは明治知識人の書斎といった趣だ。後は当人の座っている黒革張りのソファと、向い合せにそろいのアームチェアが二脚。寝床は隣の部屋にでも取るのだろうか。書架がないのはここが彼の常居の場所ではないためだろうが、右手の床の間には掛け物のひとつもない代わり、大判の画集類が十冊ばかりたてかけられて、ゴヤやベラスケス、エル・グレコといった名が読み取れた。  残った一脚の椅子に、深春に強く勧められて理緒がかける。深春自身はその後ろに立った。蒼はなにもいわれぬのを幸い、さっさと床の間の端に腰を降ろす。高見とはいかないが、見物するにはいい位置だ。 「こんな格好で失礼するよ、少々体を壊しているのでね」 「存じております」 「で、君は私になにをいいたいのだね。私のいうことはすでに終わったわけだが」 「お父さん、それなら私から質問させてください」  思い詰めたような口調で理緒が割って入る。 「お父さんはあの黎明荘を取り壊して、リゾート・マンションを建てるっていうお母さんの計画を、どう思っているんですか。まさか、賛成するわけではないのでしょう?」  娘が父親にいうにしてはずいぶんと緊張したことばつきに思われるのは、京介たち他人がそばにいるせいだろうか。ほとんど唇を動かさないしゃべり方で、灘男が聞き返す。 「賛成しては、いけないのかね」 「だって──」  理緒の肩がぴくりと震えた。 「それじゃお父さんもやっぱり、費用のことを考えているんですか。そんなにお金がかかるっていうならあと四年、私が大学を出るまでそれを貸しておいて下さい。何年かかっても、いいえ、その先ずっとそのためにだけ働き続けることになっても、いいと思っているんです、私」 「そういう話は明音にすればいい。あれがいいといえば、その通りになるだろう」  眉間に微かに不快げなしわを寄せて、父は娘にことばを投げ返す。 「だが自分の意見をいえといわれるなら、私はあくまで取り壊しを主張するよ。あれが消え去るなら別にその跡地に、なにが建てられようといっこうにかまいはしない」 「わからないわ……」  理緒は低くつぶやいて頭を振る。 「そんなに消えてほしい建物なら、なぜお父さんはおじいちゃまがあんなことになった後に、おじいちゃまと同じようにあの家に住んでみたりしたの?」  灘男の頬がまたひくり、と引き攣《つ》れるように動いた。片頬だけの作り笑い。 「そう。私は住んだ、あの家に。その結果私の身になにが起こったか、おまえはまだこちらに説明していないのか」 「説明? いいえ。だってお父さん、私自身なにもわからないのですもの」 「わからないことはない。私はいったはずだ。自殺を図った。だが失敗したのだとね」 「ええ、それは聞いたわ。でも私には信じられないの」 「本人がそういっているのだ、これほど確かなことはあるまい」 「それがほんとうだというなら教えて。いったいなんでお父さんは、死にたいなんて思ったの。動機はなんなの?」 「動機、か。そんなものはなかった、といったら」 「ないのなら私は信じません。どうしてかはわからないけど、お父さんはほんとうにあったことを隠しているのだと思います」  理緒はきつく目を見張って、父の顔を正面から凝視する。だが灘男は顔を曲げてその視線を避けた。彼がふたたび目を前に戻したとき、向けられたのは京介の方だった。 「桜井くん、君は『黒死館殺人事件』という古いミステリを読んだことがあるかね」 「あります」  彼は短く答える。ありますどころか小栗虫太郎の『黒死館』は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、中井英夫の『虚無への供物』とともに、京介のオールタイム・ベストノベルなのだ。彼は小説については次々と新作に手を出すより、気に入ったものを幾度となく読み返すのを好む。案外京介のやつ、このゾンビなおっさんと気が合うんじゃないの、と内心蒼は思ってしまう。 「それなら話は早い。あの中に建築物の人間精神に与える影響について、論じていたくだりがあっただろう。覚えているかね」 「ええ。あれは探偵が確かドイツとスペインのふたつの例を上げて、黒死館の住人に及ぼす抑圧的な影響を云々していたのでしたね。ドミニク派修道院付属学校に入学した少年が、その陰鬱な建築のために幻聴を聞くほどのノイローゼになったが、自宅に帰ると回復した。それから、あまりの気弱さゆえに解任された異端審問僧が、故郷の古い館に戻されてにわかに残忍さを開花させた。そんな話でしたか」 「そう。あの小説家がどこからあんな例を持ち出してきたのか、それともでっち上げたのかは知らないが、リアリティは充分にあると思う。建築史の専門家としての君の意見は? 君はそのような実例を見たことはないのかね」 「残念ながら体験としてはありません。またそのような例を文献で見かけたこともありません。ただ住居としての建築が人間の心身に大きな影響を及ぼすというのは、奇矯な説でもなんでもないでしょう。もちろんそれは気候風土のもたらす力と切り離すことはできないのであって、小説に出てきた例のように、気弱な青年僧を残忍苛烈な拷問考案者に変じさせ得るかどうかは疑問ですが」  京介はあくまで慎重だ。それに対する遊馬灘男の口調は、相変わらず無感動であるにもかかわらず奇妙なほど執拗だった。 「それはもちろん、無から有を生ずるというわけにはいくまいさ。ゲッチンゲンの少年には、強いられた共同生活の中で被害妄想的な幻聴を生むだけのストレスがあったのだろうし、セビリャの異端審問僧は気弱なペルソナの下に、もともとサディストたる精神的傾向を具えていたのだろう。だがそれは逆にいえば、隠しおおせていた病理的な傾きを外に引き出すだけのファクターが、確かに外部から与えられたということだ。住環境というかたちで。違うかね」 「あるいは」 「確かあの法水《のりみず》という探偵は結論していた。黒死館の建築様式が与える感覚的な錯覚から絶えず解放されないことが、病理的個性を生む。その住人は心理的神経病者たらざるを得ないとね。そしてあの紆余曲折をたどるミステリの中で、とうてい名探偵とはいえない迷走ぶりをしか示せなかった法水|麟太郎《りんたろう》も、あの場面では正しく犯人を指摘していたとはいえないかね。真犯人を表向きの動機を凌駕《りょうが》した連続犯罪に駆り立てていった、ほんとうの要因は黒死館そのものだった。黒死館を建てた呪われた建築家の意思が、遙か時を隔てて未来の住人たちに惨劇を引き起こさせたということだ」  ことばを切った灘男は、色のない唇に薄気味悪い微笑を浮かべてみせた。 「賛成だよ。私は私自身で、それを体験したんだ」  蒼は最初の怖じけも忘れて、思わず灘男の顔を見つめる。彼がなにをいいたいのかよくわからない。京介が静かに問いを返す。 「つまり黎明荘は、黒死館だとおっしゃるのですか」 「そうだ。あれは父の狂気と怨念が染みついた家なのだ。家の構造そのものが、人の心を傷つけ狂わせるようにできている。自分で暮してみてよくわかった。私が大した動機もないままに自殺など図ったのも、そのためだということだ。だからこそ黎明荘は、取り壊さねばならないのだ」    3  人の心を傷つけ、狂わせるように作られた家。そんなものが果たして現実に有り得るだろうか。だが蒼はそのことばを、一概に否定できない自分に気づく。遊馬歴と黎明号の肖像に、赤黒い染みを残していた血のしたたり。あれに気づいた瞬間の、ぞっと全身の毛がそそけ立つような感覚が肌によみがえる。そしていま目の前には遊馬灘男の、半ば死にかけたような顔がある。あの黎明荘に囚《とら》われ、精気を吸われ、辛うじて死はまぬがれたが抜け殻となった身を、彼はそこに横たえているというのだろうか。  しかし室内に落ちかかった沈黙を、破ったのはふたたび理緒だった。 「お父さん、本気で私たちにそんなことを信じさせようというの? それくらいならいっそ黎明荘はお化け屋敷で、おじいちゃまの幽霊に取り殺されかかったんだとでもいった方がまだましでしょうに」  頬に血の色が昇っている。そうして目を強く輝かせ鋭い口調で父にいい返す理緒の横顔は、やはり遊馬明音のそれと似ていた。 「それにお父さんだって知ってるでしょう? 私は何度も黎明荘に泊まっているわ。小学校の頃は夏も冬も、お休みの間中いたくらいだわ。でも、私にはそんなのちっとも──」  京介が静かにそれをさえぎる。 「お父さんはあの窓のない主室と、閉ざされたパティオのことをいっておられるんだ」 「ほう。君も気づいたかね、あの家の奇妙な二重構造に」  灘男の声に、微かにおもしろがっているような響きがある。 「あの黎明荘は外部から眺めると、いかにも明るく開放的な別荘建築だ。だが窓を大きく取った客間も食堂も、庭側に巡らされたポーチも、結局は主室とパティオを包んで隠すための外飾りにすぎない。あの部屋に座って昼だというのにほの暗い中庭を眺めていると、生きながら墓に埋められたような気がしてくる。実験してみたまえというつもりもないが、君ならそれくらいの想像はつくだろう」  京介はその顔に向かってうなずいたが、 「ですがあなたの説のように、あの構造が居住者の精神を侵すのだとしたら、いささか矛盾が生じますね」 「──なに?」 「遊馬歴氏は半世紀近くも、黎明荘のあの部屋に居住してこられたはずです。にもかかわらず彼は亡くなられる直前まできわめて健康であられたし、いささか変人の部類には入るとしても狂気と呼ぶにはほど遠い精神の持ち主であったように思われます──」 「わかるものか」  これまでの口調に較べては性急に、彼は京介のことばをさえぎった。 「君はあの男を知らない。そして狂気の表われは一概ではない。あんなおかしな窓のない家を作って、そこに延々と住み続けたというだけであれの異常性は明らかだ。そうだ、父は狂っていたんだ」 「お父さん──」  声を上げた理緒を片手で止めて、京介はふたたび口を開こうとした。だが理緒は止めなかった。 「お父さん、いったいあなたは誰をかばっているの?」  灘男の顔が止まった。 「なにを、いっているんだ、おまえは」  ソファの上から体を起こしかけ、右手を脇腹に当てる。 「私は誰も、かばってなどいない」 「嘘よ。それなら蔵内さんを起こした電話はなに? 黎明荘に怪我人がいるっていった、しわがれた声の女って誰なの」 「どこから、そんな話を聞いた」 「蔵内さんからよ。あの人が私にだけ教えてくれたの。もしその電話がなかったら、お父さんはあのまま死んでいたかもしれないのよ」  灘男は答えるかわりにゆっくりと左手を伸ばし、スタンドの脇からたばこを取り上げた。パッケージから浮かせた一本を口にくわえ、ライターで火を点ける。一息吸いこんで口から手に移し、煙を吐く。その間も右手は脇腹から離れない。 「──初耳だな、そんな電話があったというのは」  落ち着いた口調で彼は答えた。 「いったいあの老人は、なぜありもせぬことをおまえにいったのだろうな」 「蔵内さんが嘘をついたっておっしゃるの?」  理緒は愕然としたように聞き返す。 「そんなの、まるで理由がないじゃないの」 「だがあれは警察には、電話の話などしてはいないのだ」 「え……」  理緒が息を呑んだのがわかる。驚いたのはほかの者も同じだった。 「当然だろう。警察がそれを聞かされていたら、いくら私がいいはっても自殺未遂で納得はしなかったろうからな」  確かにいわれてみればその通りだった。どうしてそんな肝心な話を、彼は隠してしまったのだろうか。 「理緒。ほんとうにおまえは蔵内からそんな話を聞いたのか」 「ほんとうにって、どういう意味なの。お父さん」 「おまえの空想ではなかったのか、というのだ」 「──お父さん……」  理緒はことばを無くしていた。なにかいおうとするのだが、唇が震えて声にならない。大きく見張った目から涙がふくれ上がり、頬をこぼれ落ちていく。しかし灘男は娘の涙にも、なんの表情も見せようとはしない。その顔を見ようともせずに、床に向かって薄青いたばこの煙を吐いている。 「私、嘘なんてつかない……」  食い縛った歯の間から、ようやく理緒は声を出した。 「だったら好きに考えるがいい。おまえが蔵内を信ずるというなら、父親は嘘つきだということになる」  取りつく島もないとは、こういうことばを指していうのだろう。どう思われようといくら詰問されようと、なにひとつ説明するつもりはないというのだ。理緒は両手を上げて顔を覆ったが、もうなにもいおうとはしない。  どこか部屋の外で柱時計が鳴った。一時だ。 「さて、もう夜も遅いようだ。まだなにかいいたいことがあるならさっさと済ませて、そろそろ引き上げてもらえないかね」 「わかりました」  桜井京介もまた、相手に負けぬ無感情な声で応ずる。 「ご意見は確かに拝聴しましたが、僕としては黎明荘の調査をあきらめるつもりはありません。幸い遊馬社長も取り壊しの意思は変わらないものの、調査自体については禁止されませんでした。また近いうちにお邪魔させていただくつもりです。ありがとうございました」  頭を下げながら立ち上がろうとする彼を、意外にも灘男の方が引き止めた。 「待ち給え。君はなんでそうもあれに固執するのだ? 素人が設計した小さな家に過ぎないじゃないか。いったい研究者にとってどれほど価値があるというのだね」 「地上に実在する黒死館だとしたら、充分価値があるのではないでしょうか」 「あれは君、冗談さ。本気にするような話じゃあない」  死人めいた青い顔にわざとらしい笑みさえ浮かべて、彼は首を振って見せる。しかしそれに対する京介も、同じようにかぶりを振って答えた。 「いえ、充分拝聴に値するご意見でした。確かにあの黎明荘の構造には謎があります。けれど僕はその不明さを『狂気』ということばで片付けたくない。たとえ黎明荘を設計したときの彼の精神が、慣習的に『正気』といわれている範囲からそれなりに逸脱していたとしても、狂気には狂気の論理があり、理由があるはずです。その追及なしに下される狂気ゆえとの断定は、なんの結論でもなく結論の放棄にほかなりません。  南フランスの郵便配達夫シュバルがただ二本の手と一輪車をもって積み上げた宮殿を指して狂気の産物と呼んでみたところで、その創造物の持つ明らかな魅惑とイメージの依って来たるところを、なにひとつ明らかにしたことにならないのと同じです。あなたの自殺未遂を遊馬歴氏の死霊にそそのかされたからだと結論づけるのと、無意味さにおいては変わるところがありません」 「──だから、なんだというのだね」  絞り出すようにつぶやいた、遊馬灘男の声には追い詰められた者のような響きがある。血の気のない顔にはいつか細かな汗が粒が浮かび、暗い目ばかりが京介の顔にまっすぐに据えられていた。 「僕は建築史を学んでいます。中でも住宅にもっとも心を惹かれるのは、人間の個性や思想や趣味が、そこにはかたちとなって残されているからです。具体的な事物からさかのぼって、いまはもういない人の思いをよみがえらせること。それが僕のやりたいことです。僕は、黎明荘の謎を解きたい。そして遊馬歴という人が、あの家にどんな思いをこめたのかを知りたい。彼は真実どのような人間であり、なにを望み、なにを愛し、なにゆえにあのような奇妙な家を作らねばならなかったのか。そのすべてを知りたい」  そこまでいって京介は短く息を吸った。 「それをあなたもまた、望んでいるのではありませんか」 「なん、だって……」  ソファに預けてあった背を、彼は弾かれたように引き起こした。そのまま立とうとした。だが急な痛みに襲われたように、右の脇腹を押さえてまた座りこんでしまう。理緒は急いで父を支えようとしたが、その手は邪険に振り払われた。両手を固く腹に押しつけたまま、灘男は顔を上げる。痛みに引き攣れた無残な顔を。 「君はいったいなんの根拠があって、そのようなことをいうんだ!」  しわがれかすれた声で、遊馬灘男は叫んだ。 「私は父を憎んでいた。生きている間中、いやいまになっても。そして父も私を憎んでいた。私が生まれたときから彼が死ぬ瞬間まで。私はそれを知っている。父が押した烙印《らくいん》を、私は最初から負わされているのだから──」 「わかります」  苦痛にゆがむ顔に向かって、京介はうなずいた。それは日頃の彼に似ぬほど、いつになく共感と同情に満ちた声だった。 「僕はあなたのいう意味を、理解していると思います。けれどわからないのは、なぜ父上がそのようなことをせねばならなかったかです。それは無論あなたも知ってはおられますまい。その理由を知りたいとは思われませんか? 治らない傷を負って不毛の城に封ぜられた漁夫王ペレスのように、聖杯の出現によってその傷が癒《いや》されることをこそ待ち望んでおられるのではありませんか」  最後のワン・センテンスは蒼や深春には謎としか思えなかったが、灘男にはそうではないようだった。彼はその端正な口もとを、いっそうゆがめて吐き捨てる。 「聖杯だって? すると君は聖なる騎士ギャラハッドを気取っているつもりか?」 「たとえ無知なパーシヴァルに過ぎないとしても、礼儀を守って口をつぐもうとは思いませんよ」 「勝手にし給え、フェア・アンノーン君。だがどうか私のことはほっておいてもらおう。私は父のことなど金輪際思い出したくもない。父の残した家など、一刻も早くこの地上から消えてもらいたい。私が望んでいるのはそれだけだ。わかったか。わかったら出ていってくれ給え、いますぐに!」    4  それだけいうと力尽きたように、彼はソファの上に体を倒してしまう。もはや声を出す気力もないように見えるものの、背けた顔はいっさいの気遣いを拒んでいるようだ。足音を忍ばせて部屋を出る以外、四人にできることはなかった。  畳敷きの廊下を戻りながら、ため息とともに理緒がつぶやく。 「──私、とっても嬉しかったんです、父が黎明荘に住むって聞いたとき。ああやっぱり父は、おじいちゃまのこと、心から嫌っていたんじゃなかった。生きてるときは仲直りできなくても、きっといまから少しでもおじいちゃまに近づきたくて、それであの家に住もうと思ったんだって。でも、そうじゃなかったのね……」  まだ濡れている頬に手を当てて、いやいやをするように顔を振る彼女に、深春が遠慮がちな声をかけた。 「なあ、それにしても理緒ちゃん。お父さん、あのまんまでいいのかい。だれか呼んできた方がよかあないか?」  理緒は、はっとしたように背後を振り返った。 「そうですね。私、行ってきます。すみませんけどこのへんで、少し待っていていただけます?」  止める間などもちろんない。彼女はさっと身をひるがえして走り出し、脇廊下の戸を開いて消えてしまう。結局男三人は、さっき理緒と会った暗い廊下の隅に取り残されてしまった。 「待っててくれっていわれてもなあ……」  深春がぽりぽりと頭を掻いた。 「さすがに疲れてきたぜ、うーっ」 「蒼、なに手に持ってるんだ?」  京介にいわれてやっと気づいた。薄手の画集を一冊、胸の前に抱えている。さっき床の間に座っていたとき、脇に立てかけられていたのを何気なく膝に載せて、開こうとしていた。それをあわてて部屋から出るとき、うっかりしてそのまま持ってきてしまったのだ。 「どうしよう──」 「あたりまえだろう。返してこいよ」 「やだ。おっかないもん」 「おっかないったっておまえ、他人様《ひとさま》のものを」 「深春、いっしょに来てよ」 「やだ。おっかないもん」  そんなことをいい合っていたとき、脇廊下の戸が開いた。早かったね、といおうとして蒼はことばを呑みこんだ。そこに立っていたのは理緒ではなかった。背格好はよく似た女の子、だが白いスウェットの上下を着ているせいもあってか、ひどくぼてぼてと太って見える。理緒のひとつ上の珊瑚だ。彼女はものもいわず上目遣いに、こちらをじっと睨み付けている。 「あの……」  深春がもそもそといいかけたとき、彼女は口を開いた。 「あんたたち、なにものよ。学者なんてうそでしょう。探偵? それとも泥棒?」 「へえ? ──」 「とぼけるんじゃないよ。今度パパやうちの回りをうろついたりしたら、理緒がなんていおうと警察呼んでやるからね。よっく覚えときな!」  そのままパン、と音たてて戸が閉まった。蒼たちは黙って顔を見合せた。   目の中の顔    1  それからの数日、蒼はもっぱらアーサー王伝説に関する本を読んですごした。遊馬家の事件に対する興味が薄れたわけではない、むしろ逆だ。しかし伊豆から戻って、あの二日間の出来事をまとめておくためにワープロを叩いている内、京介と遊馬灘男の最後の会話がなんとしても気になってきた。 『──治らない傷を負って不毛の城に封ぜられた漁夫王ペレスのように、聖杯の出現によってその傷が癒されることをこそ待ち望んでおられるのではありませんか』  そういいかけた京介に対して、灘男はこう答えたのだ。 『聖杯だって? すると君は聖なる騎士ギャラハッドを気取っているつもりか?』  いかにも意味ありげなやりとりではないか。  その前にふたりの会話に出てきた例の『黒死館殺人事件』では、探偵の法水麟太郎がやれ内惑星軌道半径だ、それ古代|丁抹《デンマーク》伝説集だと、しょっちゅう突拍子もないことをいい出しては容疑者や証人の度肝を抜いている。というよりあれはもう、相手を驚かせるためにやっているとしか思われないのだが、灘男は別に京介のせりふにとまどう様子もなかった。とすれば仮にも京介の助手である自分が、わからなかったから説明してよ、では癪《しゃく》にさわるというものだ。  幸いギャラハッドと次に出たパーシヴァルが、古代イギリスの伝説であるアーサー王の物語に登場する人名だというくらいの記憶はあった。図書館で見つけた翻訳物の『アーサー王伝説』という本を開くと、ふたりの名前のほかに聖杯も漁夫王もちゃんと目次に出ていて、読み出したらなかなかおもしろい。書架を眺めればアーサー王とか聖杯とかをタイトルに持つ本は、探すどころかどれを読もうかと迷うほどで、ついでに次々と類書に手を伸ばして、二日間は完全にはまりこんでいた。  仕入れた知識はだれかにしゃべりたくなるのが当然の衝動だ。というわけで水曜日、大学の食堂で捕まえた深春を相手にして、蒼はさっそく講義にかかる。最近新しくなった文学部の食堂は椅子とテーブルを置いた広いテラスがあって、いまの季節には近くのどんな喫茶店より居心地が良い。 「漁夫王っていうのはね、聖杯を守る不思議なお城の王様なんだ。でも彼は治らない傷を負って苦しんでいて、そのために彼の国土は荒廃しているの。傷のせいで立つことができないから小舟に乗って釣をするのが唯一の楽しみで、だから漁夫王って呼ばれているんだ。聖杯の意味を正しく尋ねることのできる騎士が来てくれれば、彼の傷は癒されてすべてがよみがえることができるんだよ」 「わかったような、わからんような話だな」  さして感銘を覚えたふうもなく、顎髭を掻きながら深春は聞き返す。 「つまり聖杯ってのはなんなんだ?」 「えーとね、ケルトの神話だと勇士に望んだ食べ物を与えてくれる魔法の釜ってのがあって、それとキリスト教伝説のイエスの血を受けた最後の晩餐《ばんさん》の杯が合体したイメージなんだって。王様の傷を癒して国土をよみがえらせる呪物っていう点では、キリスト教的っていうよりも異教的だよね。支配者である王が病むとその国が不毛になるなんて、そのまんまフレイザーの『金枝篇』だしさ。  でも現在いわれるアーサー王叙事詩群の中の聖杯の物語は、自然発生的な伝説というわけじゃないんだ。最初に聖杯、すなわちグラアルを語ったのは十二世紀のフランスの詩人クレチアン・ド・トロワで、聖杯の城も漁夫王もそれに出てくるの。もちろんもっと昔に書かれた作品を、彼が参考にした可能性はあるけど。  彼が書いて現在まで残っている詩は、パーシヴァルがその城に行って聖杯も見たんだけど、するべき質問をしなかったので、漁夫王を癒すことに失敗してしまった。そういう話なのね。ただ詩人は物語を完結させる前に死んでしまったんで、後代いろいろな人間が続編を書くことになったんだ。  ギャラハッドはその続編に出てくる円卓の騎士の中で一番優れた騎士で、聖杯を手にすることに成功するんだけど、このへんになっちゃうと聖杯は完全にキリスト教のシンボルになっちゃってさ、王の傷を癒すことは癒しても、国土をよみがえらせるとかそういう力はなくなっちゃったみたいだね」 「つまり遊馬灘男を、その漁夫王に見立てたってわけか」 「そう。で、あのおじさんが京介に、おまえはするとギャラハッドのような聖人君子のつもりかって嫌味をいったら、京介の方は自分はパーシヴァルみたいに無知な人間かもしれないけど、彼のように質問をためらったりはしないって答えたのさ。  あと、最後に灘男がいったフェア・アンノーンってのはね、FAIR UNKNOWN、訳せば『知られざる美男子』とでもいうのかな、自分の素性を知らされないまま育てられた英雄っていう伝説の一パターンで、パーシヴァルもそのひとりなの。彼はクレチアン・ド・トロワの作品では、初めて見た騎士を天使と見間違うようなおばかさんでね、もちろんそれからどんどん成長するんだけど、つまり京介に向かっておまえはなんにもわかっちゃいないんだっていう、これも嫌味だね、あのおじさんの。ね、わかった?」 「わかった──」  いいながら深春は熊でも呑みこめそうな大あくびをした。 「しっかしまあ、別に他人様の趣味にけちをつけるつもりはないがな、それでなんなんだっていうんだよ。まったく無意味なペダントリーじゃ、法水麟太郎よりまだ悪いぜ」 「多少の遊び心はあるが、無意味というわけではない」  降って湧いたような京介の声。例によって灰色の白衣に前髪ばっさりの幽霊スタイルが、となりの椅子にすべりこんでくる。片手に持っているのは湯を入れたカップ麺だ。せっかく食堂まで来たのだから、もう少しましなものを食べればいいのにと蒼は思う。 「よう。珍しいな、こんな時間に起きてるとは」  こんな時間といってもすでに一時半。深春の声は聞こえなかったように無視して、京介は自分のことばを続けた。 「あの一家には魔法がかかっている。いまは亡き遊馬歴の悪意という魔法だ。息子遊馬灘男ばかりでなく、女性たちのすべてがその魔法に囚われている。それを解くことなしには、いかなる解決もあり得ない。歴の死が他殺であったか、ただの事故か、などということは敢えていえば枝葉末節にすぎない。それが彼を傷つける漁夫王にたとえた僕の真意であり、あの時点での見解というわけだ」 「事件の真相はどうでもいいというと、おまえのいう解決ってのはなにを指すんだ?」 「遊馬歴の真意を明らかにすること、それによって黎明荘の解体を阻止すること、かな」 「結局それかよ、おまえは──」  生きた人間はどうでもいいってんだな、この冷血人間めと深春は毒づく。 「魔法を解くって、でもどうやって?」 「聖杯を解き放つことによって」 「だからなんなんだよ、この場合の聖杯ってのはあ」  声を張り上げた深春に向かって桜井京介は、軽く顔を振って見せた。どうしてわからないんだ、とでもいいたげに。 「クレチアン・ド・トロワの『聖杯の物語』からおよそ三十年後、ドイツのヴォルフラム・フォン・エッシェンバハという詩人が新しい聖杯物語を書いた。彼は先輩詩人の作品を源泉として上げながら別の資料にもよったとして、かなりニュアンスの違う作品を創造している。それによれば漁夫王の守る秘宝『グラアル』とは、杯でも足付皿でもなく天使によって地上にもたらされた光まばゆい宝石だということだ」 「宝石──」 「ブルー・サファイヤか……」 「だから深春、君がほんとうにその隠し場所を知っているっていうなら、うかつに口にしないことだ。古来秘宝というやつは、危険なしろものと決まっている」  蒼と深春は思わず顔を見合せたが、当の京介はカップ麺のスープに口をつけて、 「まずい」  ひとこと憮然とつぶやいた。    2 「桜井探偵はさきほどあっさり枝葉末節といいきってくれたが、俺はやっぱりふたつの事件の真相が大いに気になるね」  深春がそういい出したのは、三人が席をいつもの研究室に移してからだ。ここでなら周囲を気にすることなく、なんでもしゃべることができる。 「事件の動機には当然おまえいうところの聖杯、ブルー・サファイヤもからんでるはずだから、そっちをなおざりにするのはどうしたって片手落ちってことになるだろう。それともなにかい。鍵さえかかってりゃあ格好の密室になりそうな現場が、鍵が開いてたから他殺かもしれないなんて筋書は、『黒死館』大好きのおまえにしたら、おもしろくもなんともないってわけか」  椅子の背にだらしなくもたれた京介は、前髪を掻き上げながらくすっと笑う。 「まさか。──この散文的というもおろかな現代日本で、本物の密室殺人を期待するほどアナクロじゃないよ」 「だったら頭を使おうぜ。データはそれなりに集まってるんだしな」 「そんなことないよ、全然不足じゃない」  蒼が口をはさんだ。 「これが素人探偵の出てくるミステリだとさ、大抵都合よくお兄さんが大物の警察関係者だとか、それほどでなくても刑事で、所轄《しょかつ》署に口きいてくれるとか、必ずそういう設定があるんだよね。さもなければ何度も事件を解決した実績があって、そいつを頼りにした刑事がぺらぺら情報を洩らしてくれるとかさ。いくらほかに遣《や》り方が思いつかないからって、安直だったらありゃしない。でもぼくたちには、そんなコネなんてないし」 「そりゃそうさ。しかし蔵内氏にインタビューすることくらいはできるぜ」 「そのチャンスを潰したのは誰でしたかねって」 「あのときはあのときさ、どっちにしろ時間もなかったんだ。じっくりかかればあの遊馬灘男氏よりは、ましな話し手になってくれるんじゃないか」 「でも、さ」  蒼は意味ありげにことばを切って深春を見返す。 「ぼくちょっと考えたんだけど、蔵内さんって遊馬歴が死んだときも、遊馬灘男が怪我したときも、第一発見者なわけだよね」 「ああ、そうだ」 「で、最初の事件のグラスの数とか、明音社長との口論のこととか、二番目の事件のしゃがれ声の電話とか、つまり事故や自殺未遂にしては変だっていう根拠になるような証言も、すべて出所は蔵内さんなんだよね」 「そうだな」  それがどうしたという顔の深春に、蒼はわざとらしく声をひそめていう。 「でもあの人、それをひとっつも警察には話してないんだよね。これ、偶然だと思う?」 「なに?」  深春の眉がぐいと吊り上がる。 「話してない。そうだよな。理緒ちゃんもそういってたし、灘男氏もあのとき──」  胸の前に丸太のような腕を組んだ深春は、 「つまりおまえがいいたいのはこうか? あの爺さんはどちらの事件に対しても、警察の介入を望まなかった。あるいは彼らの手で真相が明らかにされることを拒否した。それも意図的に、と」 「それ以上かもね」  口もとにうっすらと微笑を浮かべて蒼はささやく。 「だって、思わなかった? やる気だったら蔵内さんは、どちらの犯人にもなることはできたはずだって。遊馬歴が死ぬ前の午後に彼を東京へ買物に出した、ていうのもつまりは彼がそういっているだけなわけでしょ。遊馬灘男を死ぬ前に見つけたのだって、わからないよ。しゃがれ声の女の電話なんてもともとなかったのかもしれない。手を下したのは彼自身だったかもしれないじゃないの」 「しかし、動機は」 「わかんないよ、そんなの」  蒼はあっさりと首を振る。 「でも第一発見者を疑えってひとつの原則でしょ。それも続けて二回だよ」 「うーん、それは確かに……」 「しかも被害者は父と息子」 「む、む、む」  深春は組んだ腕に力を入れて苦悶の態だ。 「警察なら蔵内氏が泊まったはずのホテルの確認とか、あるいは早朝、彼が主張する時刻に駅を降りた目撃者がいるかとか、それくらいのことは調べたかもしれないが、いや、最初からただの事故だという前提で動いたとしたら、そこまでやらなかった可能性もあるか。いまから俺たちがそのへんを追跡調査するとしても、一年近く前のこととなると実際無理としかいいようがないかもしれん──  いや、たとえアリバイがあったとしても、たとえばなにか機械的トリックをしかけて老人を転倒させて、第一発見者の彼がそれを隠してしまうことはあまりにも容易なわけだから、決め手とはいえないか。うーむ……」  ぶつぶつと独り言をつぶやきながら深春は、目を閉じて悪夢にうなされる熊とでもいいたいような顔をしきりにひねっている。と、いきなり蒼がきゃはははと声を上げて笑い出した。 「ごめん。まじに悩んじゃった? 冗談だよ、全部。あのお爺さんが『大旦那様』のこと話すときの顔見てたらさ、なにがあっても絶対そんなことできるわけないって思わない? だめだなあ」 「このォ──」  腕を開いて掴みかかる深春を机の向こう側に逃げて避けながら、 「ねえ、京介。蔵内さんにきちんと話聞こうよ。なんだったら東京に来てもらってもいいんだしさ。あの人少なくとも京介には、わりと信頼感持ってくれたみたいじゃない」  ところが京介は珍しく照れたような笑いを浮かべると、 「実をいうとそれがいささか、怪しくなってしまったんだな」  いいながら眼鏡を押し上げる。 「昨日大学宛てに電話が来てね、いったいあの不動産屋になにを吹きこんでくれたんだって、さんざんなじられてしまった」 「不動産屋って、あの、名前なんていったっけ、パーティーで会った」 「そう。彼はあの翌日さっそく黎明荘に飛んでいって、スパニッシュ・スタイルの高級リゾート・マンション構想を蔵内氏相手に打ち上げたらしい」 「なんでまたそんなことになったんだ?」  あの晩のふたりの話を聞いていない深春に、蒼がかいつまんでそれを話してやる。解体しか考えていなかった不動産屋醒ヶ井に、黎明荘が高名な建築家の作品であると思いこませて、リゾート開発はするにせよむしろ積極的な保存利用を図るべきだ、というふうに誘導した話をだ。 「明音社長からどんなリアクションが来るかと思っていたら、それが変なかたちで蔵内氏のところへ行ってしまったらしい」 「あのオヤジ、いったい蔵内さんになにをいいに行ったの?」 「歴氏の生前のことを根掘り葉掘り聞きまくった上に、この肖像画はあまり冴えないから乗馬クラブに譲ってしまったらどうだとか、この部屋は陰気だから壁を崩してぱっと大きな窓を作って、そうすればしゃれたレストランか喫茶店になるとか」 「あれあれ」 「無論醒ヶ井氏に悪意はないわけさ。むしろ解体には否定的だった老人が、保存されるとなれば無条件で喜んで協力してくれると思いこんでいるから、いいたい放題遠慮なくしゃべりまくってしまう。しかし蔵内氏にしてみれば建物の現状を大幅に変えられてしまうこと以上に、遊馬歴氏の経歴が商売に利用されようとしているということが耐えがたく憤《いきどお》ろしかったようだ」 「そういえばあのときも、なにかアホなこといってたよね。ロマンスのひとつも欲しいとか、なんとか」 「スペイン時代に秘められた恋愛事件でもあったんじゃないかって、ずいぶんしつこく聞かれたそうだよ」 「安直な発想だあ」  蒼はあきれて笑い出してしまう。 「で、京介の名前まで引き合いに出されちゃったんだ」 「そういうことだ。ま、当面彼のインタビューは難しいかもしれないな」  他人事のような京介の言い種《ぐさ》だ。珍しいことでもないので、深春も下唇を突き出してぼやくしかない。 「ちぇっ。やっぱりおまえは清河八郎だよ」 「なにそれ」 「策士策に溺《おぼ》れるってやつさ。とにかくこれで事件の方からの追及は、当面のところお預けだな。となると」  彼が下げてきたショルダー・バッグの中から掴み出してきたのは黎明荘の写真、それもあちこちの壁に張られていたタイルを一枚一枚アップで写したものだ。遊馬歴が伊万里の窯元に注文して焼かせたという、日本製のスペイン風絵付けタイル。キャビネに伸ばしてあるので、ほぼ実物大という感じだ。 「みんな風景で、一枚として同じものがないんだ」  タイルの数は全部で五十枚あった。廊下や食堂の壁に張られていたもの、同じく食堂の暖炉の周囲にあったもの、カップボードやチェストにはめこまれていたもの。そのどれもが風景、それもていねいではあっても素人っぽいスケッチ画を、そのまま呉須でもって写し取ったらしい。 「これ、きっと遊馬歴が向こうで描いたスケッチそのままなんだね」  絵がへたなせいもあるのかもしれないが、どれを取ってもあまりぱっとしない風景だ。いじけた感じのオリーブが点在する平野。岩と羊の群れ。頂きに崩れた城のようなものが見える丘と、小さな家々。マッチ棒ほどの人影。遠くの山と雲。そんな田舎びた景色ばかりが、どのタイルにも描かれている。 「ねえ、深春。これってマドリッドの近くじゃないよね」 「だろうな。やっぱり南の方かな」 「それにさ、これたぶん全部同じ村だよね。この背景にある丘、他のにもいくつも出てくるよ」 「ああ、そうかもしれん」 「ていうことはさ、遊馬歴は空白の三年間にこの景色の村にいたんじゃないの?」 「可能性はあるな」 「だったらさあ、これを手がかりに彼の足跡を探せないかな」 「それでその村に行ったら、黎明荘そっくりの家が残ってたりして?」 「そう。それそれ!」  自分の発想に興奮して蒼は思わず歓声を上げたが、深春はわざとらしくふっとため息をついて、 「甘いよ、蒼。アンダルシア地方全体に、いったいいくつ村があると思うんだ? せめてひとつでも特定できるような建築かなにかが描かれていればともかく、城跡のある丘にオリーブに羊! こんなどこにでもある風景をしらみ潰しに探し回るのに、いったいどれだけの時間がかかると思うんだい。まして六十年以上も昔の話だ。いくらあの国がヨーロッパの片田舎でも、セビリャじゃ万博まで開かれたんだからな、遊馬歴の描いた風景がそのまま残っていると期待する方がどうかしてるぜ」 「ちぇっ。じゃ深春はまるっきりそんなこと考えなかった?」 「考えたよ。だが所詮先立つものがない。なあ蒼、スポンサーになってくれや。ついでに一年間時間をくれれば、俺が探してやっからさ」  差し出されたグローブみたいな手のひらをぱんとはたいて、蒼もふっとため息だ。そうか、やっぱり無理か。いい考えだと思ったんだけど。 「スケッチの現物は残ってないのかなあ。あと、昔の日記とかさ」 「それも蔵内氏の御機嫌が直ってからだな」  やれやれだ。これでは完全に手詰まりではないか。 「遊馬さんからは連絡なし?」 「理緒ちゃんか? 留守電にはなにも入ってなかったな。どうも学校も休んでるらしい。まさか人喰いおばんが閉じこめてるわけでもないだろうがな」 『人喰いおばん』とは深春が遊馬明音にたてまつったあだなだ。娘の朱鷺がいった『アマゾオヌの女王様』よりはだいぶ品が落ちるが、まんざら的外れともいえない。あの晩結局蒼たちは、理緒と話す時間を持てないまま別れることになってしまった。どう勧められてもあの不気味な家で一泊する気にはなれず、明日は月曜日で学校もあるからとそのまま東京に向かうことにしたのだが、明音は理緒の同行を許そうとはしなかったのだ。  夜中の一時を過ぎても見事に塗りたてた化粧を落とさぬ遊馬明音は、理緒を有無をいわせず追い払うとひとりで門前まで見送りに来た。女主人のにこやかな表情は変えぬまま、さりげない口調で聞く。 『桜井さん。よろしかったら教えてくれません。夫とはどんな話をなさったの?』 『文学論ですよ。戦前の探偵小説に現われる建物の建築学的な特性について』  京介は例のしれしれとした声だ。 『ただいささか議論が白熱しすぎてしまったようです。お体にさわらなければよいのですが。失礼ですが、どこがお悪いのですか?』 『腹膜に傷がついているんです。手術すれば治る程度のものですわ。ああして具合が悪いまでいるのは、あの人の趣味なんです』  冷やかにいい捨てた明音は、また急に笑顔の仮面をかぶると、 『ぜひまた近い内にお目にかかりたいものですわ。ご連絡させていただいて、かまいませんでしょうね?』  板についた自然な動作で京介の手を握ったが、それは蒼の見るところ、儀礼的な握手にしてはいささかていねいすぎるようだった。  蒼が記憶をたぐっている間に、京介は残りの写真も見終わったらしい。キャビネに伸ばしたカラーとベタ焼きしたモノクロを無雑作にひとまとめにすると、 「これ、借りておいていいかな」 「いいよ。俺の分は別に焼いてあるから。──で、どうするんだよ。まさかこれでお仕舞だってんじゃないだろうな」 「お仕舞にはならないさ。近い内に遊馬明音から連絡が来る」  おっと、かなりの自信だ。 「それまでに黎明荘の立体模型を作ってみるつもりなんだ。それほど精密である必要はないから、取り敢えずスチロールの板でも使って」  伊豆に持っていった小型のスケッチブックに並べて、A4の方眼紙を置く。 「でも京介、こないだは巻尺なんか使わなかったじゃない」 「だから取り敢えず、さ。写真と、それに蒼が手伝ってくれればなんとかなるだろう」 「え……」 「歩幅でいいから順番に寸法を出してくれ。やりやすいところからでかまわないが、やっぱりパティオから行くとしようか」    3  結局京介に解放されたのは、夜の九時を過ぎていた。熱中すると寝ることも食べることも平気で忘れてしまう京介だから、ある程度覚悟はしていたものの、さすがにくたびれてしまった。  蒼は特製の記憶力、いわゆる直観像記憶の能力を持っている。普通記憶の天才というとすごい桁《けた》数の数字を一瞬で暗記してみせたりするが、蒼の記憶が働くのはもっぱら映像に関してだ。たとえば今朝乗った山手線の車内で前の座席に座っていた人の服装とか、おととい行った図書館で素通りした書架にあった本の配列とか、尋ねられれば即座に目の前に浮かんできてしまう。  そんなさして見る気もなかったものでさえ思い出そうとすれば出てくるのだから、意識して見ればいっそう記憶は鮮明になる。ジグソウ・パズルなど箱の絵を一分も注視すれば、どのピースを見てもそれがどこにはまるかわかる。つまりピースのひとつひとつが、元絵の記憶に対するインデックスの役をするのだ。  黎明荘に対しては蒼の神経はかなり緊張していた。つまり意識して観察していた。そういう場合蒼はただ映像をよみがえらせるだけでなく、その中に自分を置くことができる。目で記憶をたどりながら足を動かせば、床の寸法はだいたいのところ割り出せるというわけだ。いや床だけではなく水盤の大きさ、柱の太さ、軒までの高さ、京介の質問が飛んでくるたびに、記憶の中の映像に合わせて腕を丸くしたり頭の上に伸ばしたりする。それを京介が計るという手順だ。  いったい人の脳にはどれくらいの記憶が収まるのか、それはまだ誰も知らないことらしい。蒼の映像記憶も時間が経つほどよみがえりにくくなるような気もするが、京介の主張によればそれは一種の錯覚でしかない。記憶が消えるわけではなく、引き出すためのインデックスが見つからなくなるだけではないかという。 「だがそれはガード・システムでもあるんだろうな、現在の自分を保護するための」  一息入れたところで京介はそんなことをいう。 「いくら脳の容量が膨大で無限に近く情報が集積できるとしても、人間の意識がそれに耐えられるとは思えない。記憶は記憶、現在は現在ときちんと整頓されていればいいが、そこに混乱が生じたらまさしくアイデンティティ・クライシスだからね」 「もうアイデンティティなんてとっくに崩壊してるってば。未成年をこんな時間まで働かせて。帰るからね、ぼくはッ」 「夕飯でも食べていくか?」  蒼はあわてて首を振る。 「いい。ちょっと寄るとこあるから」  ほんとうをいえばそれは、まったくの出まかせだった。午後いっぱいの精神集中でまだ気が立っている分疲労は感じないが、すぐにがっくり反動がくることはわかっている。しかし食事とはエネルギイの補給であるとしか考えない京介では、おごってくれるといっても大学近辺のそば屋かラーメン屋がせいぜいのところだ。食べて話しているうちに彼がまた計測の続きをやりたくなってしまう危険を考え合わせれば、まったく割りが合わない。 「じゃ、また明日ね」 「明日でだいじょうぶか?」 「え、どうして? 一晩寝れば平気だよ」 「助かるよ」  京介が前髪を掻き上げて微笑する。蒼はちょっぴりまぶしいような思いで、自分ひとりに向けられたその表情を目の中に収める。偶然に彼の素顔を目撃することになった人間たちも、まずは見ることがない彼のほんものの微笑み。 「お疲れさま、また明日」 「うん──」 「あとで、電話するよ」    4  夜の九時過ぎといえば飲みに出た学生が二軒目に回ろうかというころあいで、高田馬場駅周辺はあいかわらず陽気な賑わいに湧いている。  蒼はそのまま帰るつもりだったが、急にここまできておかしなくらい強い人恋しさに胸を突かれた。あわてて帰っても、誰が待っているわけでもない。深春がアパートにいるならそちらに回るのだが、友人が銀座で写真展をやっているなどといっていたから、とてもまだ戻ってはいるまい。 (遊馬さん、どうしてるかな……)  ふっと理緒の小さな顔が目の中に浮かんだ。特定のひとりのことを考えると、いろいろな時点で目にしたその表情が、ポジ・フィルムを重ねて指ではじくようにぱーっと流れていく。緊張した理緒、目を丸くした理緒、ほっと吐息する理緒、ぼんやり海を見る理緒、ネーロを駆る理緒、そして泣いている理緒。重ね合わされるほど映像はぼやけていき、だが厚みは増していき、ふっと止まったところでその顔が蒼を見返す。  それは唇を引き攣らせて母を告発していた理緒ではない、いまにも泣き出しそうにして父を見つめていた理緒でもない。ネーロに頬ずりしていたときの無邪気な童女の笑みと、その鞍上に見えた凛々《りり》しい騎手の表情がひとつに溶けた顔。それがほんとうの理緒なのだと、あらためて蒼は思う。きりりと張り詰めていて、でもやさしくて。思わず胸がときめいてしまう、なんてきれいなんだろう。  だがそれは、恋などというものではない。そもそも蒼には人間の歴史の中でひっきりなしに語られ続けてきた、恋なるものがよくわからない。ほんとうの自分に戻った理緒はすてきだと心から思うが、だから彼女を独占したいとか彼女にも自分を見つめて欲しいとか、そんな気持ちはまったく起こらない。深春のことばを借りれば、『要するにおまえはまだ頭でっかちのガキなんだよ』という、それだけのことなのかもしれないが。  だが恋ではないにしろ蒼には、たまにこんなふうにひとりの顔が目について離れなくなってしまうことがある。初めて桜井京介と会ったときも、そんなふうだった。そのころの蒼はいまより遙かにほんとうの子供、自分の目にしているものを理解できないまま怯えきっている幼児にすぎず、京介は出会ったというよりは蒼を取り囲む大人の群れの間から、ほんの一瞬顔を覗かせただけだったのだが。  遊馬家の住所と電話番号は大学の事務所でチェックしてある。うんざりするほど人の多い夜の渋谷駅に出て、電話しようと思って止めた。ここで断られてしまったら、なんのために電車を降りたのかわからなくなる。だめでもともと。戦前からの遊馬家の住居を塀の外からなりと、一目見ておくくらいのつもりで行ってみることにしよう。  それに蒼にはもうひとつ用事があった。修善寺の遊馬灘男の部屋から出たとき、うっかり持ったまま来てしまった本。後で開けてみたら古いゴヤの画集だった。もともと不気味な感じの絵ばかりの上、紙の黄ばんだ古いページのあちこちに散ったワインの赤いしみが血みたいで気持ちが悪い。  それにしてもこのままでは泥棒になってしまう。理緒に会えたら返してもらおうと袋に入れて持ち歩いていた。あまりおおっぴらにいえることでもないが、とにかく借りた本を返しに来たといえば訪問の口実にはなるだろう。  渋谷というのは何度来てもおかしな街で、道がすべて駅からの放射状になっている上にそれが全部上り坂だ。恐ろしく賑やかな場所がどこまでも続いているように見えて、人の流れから少し外れるともう人っ子ひとりいなくなってしまう。土地の高低差があるので、なおさら見通しがきかないのだ。遊馬家のある松濤も駅から歩いてたった十五分、巨大なデパートの真裏とは思えない静けさに包まれている。  住居表示が完備された東京では、夜といっても道に迷うという楽しみは持ちようがない。人通りもない住宅街のただなかに見つけた遊馬家は、やはりほんの数年前に建てられたのだろう新しい豪邸だった。道に面して三階建ての壁がそのまま立ち上がり、その壁にアーチ形がくり抜かれて門になっている。金色の棒を並べた門扉の中は石張りの空間で、壁の龕《がん》にはクメールの天女像が照明に淡く浮かんでいる。突き当たりの階段を何段か昇ったところに玄関のドアが見えた。石材はすべて赤みを帯びた花崗岩、金属部分は磨かれた金色という華やかな外観は絶対に遊馬明音の趣味に違いないと蒼は思った。  案の定というか、理緒に会うことはできなかった。インタホンの向こうで使用人らしい無愛想な女の声が、お嬢様は風邪でもう寝ておられます、という。伊豆でお目にかかった桜井の使いの者ですが、といっても取り次いでくれる様子もない。明日は学校に来られるでしょうか。存じません。お借りしていた本をお返ししたいのですが。ではポストに入れておいて下さい、明日お嬢様にお渡ししておきます。まったく取りつく島もない。  さすがにしょげた気分で回れ右して歩き出した蒼は、いきなり正面からまぶしいヘッド・ライトを浴びせられた。 「ちくしょー、なんだよお!」  思わず上げた声に、 「あらごめんなさい、ぼうや」  聞き覚えのある声が答える。 「理緒にふられたの? だったらこれからお姉さんとどっかへ、おいしいものでも食べに行かない?」  シルバーグレーのプレリュードの運転席から、顔を出しているのは遊馬朱鷺だった。   茜《あかね》色の姉妹    1 「ねえ、お乗りなさいよ。まだ宵の口よ。君みたいにかわいい子が、そんなしけた面してるもんじゃないわ」  開けた窓から上体を突き出すようにして、朱鷺はいう。今日の彼女は黒革のブルゾンにそろいのパンツという、バイク乗りのようなスタイルらしい。モノトーンのファッションの中で喉元に結んだスカーフの、明るいピンクがひときわあざやかだ。 「食い気で釣るんですか? こういう場合はむしろ、お姉さんといいことしないっていうもんじゃないのかなあ」  蒼の答えに朱鷺は顎をそらせて、ははっと笑う。 「だってこの前のパーティーじゃ君ったら、すごくいい食べっぷりだったんですもの。よく食べる男の子って、あたし好きなのよ。ね、高速ひとっぱしりして、横浜で中華なんてどう?」  あくまで食欲で攻めてくるつもりらしい。だが彼女が誘いをかけてきた、ほんとうの理由くらい問うまでもなくわかっている。 「ふうん、ぼくのことなんか観察する暇があったんだ。京介の後追いかけるだけで、手いっぱいだったと思ったのに」  ところが朱鷺は蒼の皮肉くらいでは、びくともするものではなかった。いったん収めた笑いを改めて紅い唇に乗せて、 「どうするの。行く? 止める? 嫌がってみせても、わざわざ誘拐なんかしてあげないわよ」  いいながら助手席のドアをぱっと開く。 「食欲だけじゃなくて、ぼくの好奇心も満たしてくれる?」 「いいわよ、でもそれはお互いさまね」  後で電話するといった京介のことばがちらりと耳をかすめたが、 (よーし、行っちゃえ!)  蒼はシートにすべりこんだ。  遊馬朱鷺のドライヴィングは堂に入っていた。めまぐるしくハンドルを回して細い道を次々にたどり、渋谷駅前の混雑をすっぱり回避して首都高にすべりこむ。手足の動きには少しの無駄も感じられない。女性ドライバーにありがちないい加減さや危うさなどかけらもないことはもちろん、深春の荒っぽい転がし方とも較べものにならなかった。 (へえ……)  蒼は内心舌を巻く。修善寺で出会ったときはけばくて遊び好きなだけの馬鹿女としか見えなかったが、考えてみれば京介の素顔を晒《さら》した手際も大したものだったし、どうしてあなどれない相手かもしれないと思ったのだ。 「ぼうや、名前はなんていうの」  来たな、と蒼は思う。高速に車を乗せた朱鷺は、窓を軽くすかせてたばこをくわえている。 「蒼」 「本名よ」 「どこへ行っても、ぼくは蒼だよ」 「だめ。それじゃ承知できないわ」 「本名なんていっても、そんなの人がくれたもんでしょ。自分で選んだわけでもないのに、大した意味なんてないじゃない」  当然反発されるものと思ったが、朱鷺は逆にあっさりうなずいた。 「それもそうね。私だって自分の名前、あんまり好きじゃない。てんで明音さんの趣味なんだもの」 「お母さんがつけたんだ」  遊馬家ではどこまでいっても、父親の影は薄いらしい。 「そうよ、三番目まではね。四番目にもちゃんと桜って名前を用意していたのに、祖父に押しきられて。あの人が本気で祖父を嫌うようになったのは、それかららしいわ」 「さくらあ?」  あの理緒が『さくら』なんて、まるでイメージが合わない。意味は置いても彼女の凛《りん》とした雰囲気に、『りお』という音の響きはこれ以上ないくらいぴったりなのに。 「明音さんも頑固だからね、戸籍は理緒でも家では桜って呼ぶとかがんばったんだけど、結局理緒自身が従わなかったからどうしようもなかったわ。だから頑固っていう点では、理緒の方が上手なのかもね」 「でもさ、桜じゃ馬に乗れないよ」 「え?」 「馬の肉のこと、桜肉っていうでしょ」 「あら、──ほんとだ、やだあ」  朱鷺はいきなりげらげら笑い出す。あげくはハンドルをこぶしで叩いたりするのだから、危なくってしかたがない。 「そんなこと全然考えなかったわよ、あたし」 「そうなの? じゃ、お母さんは別に馬のこととか考えて、桜って名前を選んだわけじゃないの」 「まさか。違うわよ、いくらなんでも。気がつかなかった? アカネの娘がスオウ、トキ、サンゴ、サクラ」  やっと笑い止んだ朱鷺は今度は、片手で宙にみんなの名前を書いてみせる。 「茜と蘇枋は植物の名、朱鷺は鳥で珊瑚と桜はいわなくともわかるわね。これみんな色の名前よ。それも赤系統のね。日本の伝統色名ってやつ」 「ああ、そうかあ──」  どうりで変わった名前ばかりだと思った。 「そういえば朱鷺色って聞いたことある。あのフラミンゴの羽の色でしょ」  朱鷺はうぷっと笑いを押し殺したような音をたてた。 「ま、いいわ。とにかくね、杉原の両親は姉の静音、妹の明音と姉妹を対でつけたわけなんでしょうけど、それをうちの母は明音から茜と読み替えたわけ。それで娘たちに色の名前をつけたってわけよ。親の命名を自分で奪還したってわけだ。なかなかでしょ?」 「ふうん」  つまり明音にとって遊馬歴のしたことは、単に親の命名権を侵されたという以上の、自分のアイデンティティに対する侵害だったのだ。その怒りは当然理緒にも向けられただろう。たぶん彼女は母親の、桜、という呼びかけをはっきりと拒んだのだろうから。ふたりの間がしっくりしないのも、無理ないことだったかもしれない。 「あなたはでも、嫌じゃないの? そういうふうにお母さんの好きな名前にされてさ」 「別に。だって名前なんて誰だって、親の好みでつけられるものでしょ。私は理緒みたいに、ほかから思いこんでくれる人もいなかったわけだし」  そうか。理緒は遊馬歴に選ばれたわけだ。どういう基準があったのかはわからないけど。 「お祖父さんって、どんな人だった?」 「わからないわ、ほとんど会ったことがないんだもの。去年の葬式のとき亡骸《なきがら》と対面させられて、ああこんな顔してたのかと思ったくらいよ。ただ小学校に上がるより前に一度、熱川の別荘に連れていかれた記憶があるわ」 「それで?」 「小さかったんだもの、ほとんどなにも覚えてないわよ。ただ馬の背中に乗せられて、恐くて泣いたくらい。あたし動物って駄目だから」  いつ一本目を吸い終えたのか、朱鷺は新しいたばこをくわえる。 「うちの姉妹はみんなそれ、されてるみたい。で、泣かなかったのは理緒だけだったのね。あの子が祖父の眼鏡にかなったのは、そのへんのこともあるんでしょ」 「でもさ──」  いいかけた蒼の口もとに、赤く染めた爪が指しつけられる。 「ストップ。好奇心の満足はお互いさまっていったはずよ。まだ聞いてないわ、君の名前」 「しつっこいね、お姉さん。ぼくから京介の情報引き出したいなら、ぼくの名なんてどうでもいいと思うけど」 「あはあ。じゃ、聞けば教えてくれるわけ? 彼の氏素性とか、異性に対する好みとか」  異性に対する好み? あの京介にそんなものがあるんだろうか。 「大学の研究室の部屋番号とか、食べ物の好みくらいなら教えてあげるけど」 「いらないわよ、そんなの」 「困ったなー」 「そんなに困るの?」 「だって自分のことじゃないんだもの。聞きたいなら直接聞きなよ」 「それも、そうね」  吸いがらをはじいて窓から捨てると、朱鷺は振り返ってこちらを見る。 「じゃ、いいわ。これはただのデート」 「うん」 「だから教えて、君の本名」 「どーして?」  その間も当然車は走っている。頼むから前を見て運転してくれ。 「あたしだって街で会って遊ぶだけの相手に、いちいち本名教えろなんていわないわよ。それこそお互いさまだもの。でも君は私の本名どころか、年齢も両親の名も経歴も住所も知ってる。なのにこっちはなんにも知らないなんて、アンフェアよ、対等じゃないわ。そう思わない?」  蒼はうなった。これはどう見ても朱鷺のことばが正当だ。 「わかった。じゃ教えるけど、ぼくを呼ぶときは蒼だよ。それ以外で呼んでも返事しないからね」 「いいわ。あたしのことは朱鷺って呼んで」  それで蒼はふだんほとんど使うこともない名前を、彼女に教えた。朱鷺は黙ってうなずくと、サンクス、蒼の耳元でささやく。息が熱い。 「なにか理由があるんでしょ。無理にいわせちゃってごめんね」 「後であやまるくらいなら聞かなければあ」  あはははっと声を上げて笑った朱鷺は、ぐいとハンドルを切った。 「おわびに今夜は好きなだけおごるわよ。お腹いっぱい中華料理食べて、ディスコで踊って、喉が乾いたら港のバーでシャンパン開けて、最後はグランドホテルのスウィートにしけこんじゃおう!」    2 「それでえ?」  深春がいやらしい声で聞く。 「それからどうしたんだよ、この朝帰りの不良少年はッ」 「中華街の飯店でごはん食べたよ。それから元町のディスコでしばらく踊って、彼女のいきつけのバーに行って。食べたメニューもいうの?」 「いらねえよ、人の食ったもの聞いても腹が減るだけだ」 「それからが大変だったんだよ。彼女二軒目のバーを出たら急にがくっと酔っ払っちゃってさ、横浜グランドまでぼくが運転してったんだから。とちゅうでおまわりに見られたらどうしようって、冷や汗たらたらで、それまで飲んだのも全部醒めちゃった」 「で、泊まったわけだ、おまえは遊馬朱鷺嬢と、同じホテルに」 「しょーがないだろお? もうとっくに電車はないし、タクシーで帰ってこられるほどお金持ってないもん」 「しょーがないことがあるかよ。俺はおかげで京介のやつに寝入りばなを起こされてさ、蒼が帰ってない、そんなこといわれたって知るかってんだ。それをおまえはなんだ、中華街の豪華飯に、元町のディスコに、バーのはしごだあ? このッ!」  声を張り上げた深春は、また急にいやらしげな笑いを浮かべると、 「で? ぼうやは無事に筆下ろしを済ませたのか?」 「あのねえ、朱鷺さんはべろべろに酔っ払ってたの。ベッドに載せるんだってボーイさんに助けてもらったんだからね。それに部屋はちゃんとふたつ取ったんだから、ぼくは隣の部屋でバス使って寝ただけだよ。そんで翌朝は朱鷺さんが起きる前に帰ってきたの。深春みたいな中年じゃあるまいし、正体のない女をどうこうするような趣味なんてありませんよーだ!」 「おーおー赤くなって、かあいいかあいい」 「赤くなんかなってないったら!」 「ふっふっふ」 「それくらいにしておけ」  横から京介の冷やかな声がある。 「来つけない場所に来たからって、はしゃぐんじゃない。みっともない」  蒼と深春は首をすくめた。京介の機嫌が悪いのはしかし、ふたりが騒いだためというよりはいまが午前の十時、つまり彼の活動時間外だからに違いない。  今日は五月二十一日土曜日。ところは銀座、三原橋交差点近くのビルの八階。ジュエリー・チェーン・アカネの銀座オフィスの応接室だ。京介の予言通り遊馬明音からの連絡が来たが、会見時間として指定されたのがこの時間だったというわけだ。  このビルは店舗ではなく、七階と八階をアカネの営業部が使用している。大きく窓の開いた明るい応接室、赤く染めた革のソファに真鍮の金色を多用したインテリアは、まぎれもなく明音の好みだろう。  呼び出しておいて、当の明音社長はなかなか現われない。このままでは京介はソファに座って、まっすぐ体を立てたまま眠ってしまうかもしれない。照明が明るいので横からだと、前髪を透かして彼のすっと伸びた鼻筋とかたちのよい唇の線がそのまま見える。  朱鷺が酔い潰れるまではずいぶんいろんな話をしたが、さすがに蒼も酔ったとみえてあまり覚えていない。ただ最高に傑作だったのは京介の素顔を目撃した明音社長が、彼をポスターに使いたいといい出しているという話だった。 『すごい具体的なプランなのよ。目を閉じた彼の正面顔をフレームいっぱいに入れてね、そこにアカネの指輪とブレスレットをつけた手がからむわけ。顔と手だけ。いいと思わない?』 『あはッ。でもアンクレットじゃなくてよかったね』 『あら、当然シリーズでいくわけよ。つぎは顔と足、顔と胸。ただ問題はね、イヤリングを使えないでしょ。顔と顔じゃつまんないもの』 『そんなの、京介がつければいいんじゃない』 『きゃッ、それいいわッ!』  朱鷺はバーのスツールから跳ね上がった。 『ねえ、だったらいっそ全部彼がつけてくれればいいのよね。それもそう、絶対ヌードよ。きっとモローのサロメみたいになるわ。耽美的で、バイセクシュアルで、ぞくぞくしちゃう。見たい見たい、猛烈に見たいわ。ポスターが盗まれまくるわよお』  もちろんこの京介が、そんな案に同意するわけもない。だが、待てよ。研究第一の彼のことだ。ギャラの代わりに黎明荘をあげるとでもいわれたら、案外あっさりと承知するかもしれない。それにふだんの白衣にざんばら髪の京介しか知らない人間は、そんなキンキラキンのポスターを見せられても彼だなどと気づくわけがないのだから。 (京介の、サロメ……)  うう、見たいような、見たくないような。  ドアが開いた。しかし入ってきたのは遊馬明音ではなく、長女の蘇枋だった。    3  今日の遊馬蘇枋は和服ではない。かっちりとした仕立のベージュのスーツを着て、長い髪もまとめて上げてある。それだけでずいぶん印象が違う。 「ご足労をおかけした上に、すっかりお待たせして申し訳ございません。実は母は今朝から風邪ぎみになってしまいまして、いろいろお見苦しいかと存じますが、どうかご勘弁下さいまし」  深々と頭を下げたが、すいともたげたその顔を見て蒼はあれ、と思った。今日の蘇枋は視線まで、ためらいなくこちらに向けてくる。蘇枋の挨拶が終わるのを待っていたように、同じドアから明るい朱色のスーツ姿が現われた。きれいにセットした栗色の髪、ヒールの高い黒のパンプス。しかしほんとうに具合が悪そうだ。片手にしたハンカチで口元を覆い、かすれた声で、 「いらっしゃいませ」  といったようだがよく聞こえない。 「そう無理をなさらなくとも、我々でしたらまたの機会にさせていただきますから」  午前中の京介といっても、他人の前でならこれくらいはいう。しかし彼女はマスカラを塗った目をしょぼしょぼさせて、 「いえ、せっかく来て下さったのですから、少しお話でも」 「母もこういっておりますから、どうぞ、おくつろぎ下さって」  蘇枋もそばから口を入れる。そこまでいわれては逆に振りきって帰るわけにもいかない。新しく飲み物が運ばれて、三人は浮かしかけた腰をまたソファに落ち着ける。するといよいよ京介のCM出演の話が出るのかと蒼は耳を澄ましたが、風邪ぎみではそんな気にもなれないのか、ハンカチを口元に当てたままうつむきがちに時折あいづちを打つばかり、会話の中心になるのはもっぱら蘇枋だった。 「あのパーティーの晩に醒ヶ井さんにされたご講義を、私たちにも聞かせて下さいませんこと?」  蘇枋は薄く紅を引いた唇に笑みを浮かべて京介を見やる。 「なんですかとてもおもしろいお話だったとかで、あれ以来あの方はすっかり桜井さんびいきになってしまわれたようですのよ」  聞きようによっては皮肉とも取れるな、と蒼は思う。京介のあのときの話は、醒ヶ井に錯覚を起こさせるためだけに仕組まれたものだったのだから。 「とんでもない。こちらこそ彼の話に聞きほれて、有り金はたいて伊豆に別荘を買いたくなりましたよ」  よくいうよ。蒼と深春は背中の後ろで肘を突き合った。偽善的という点では、そこらの不動産屋なんて京介の足元にも寄れまい。 「私が申し上げたのは実に単純なことです。骨董品というものは後から作ろうと思っても作れない。だから邪魔だと壊す前にもう少し考えてくれ、とこれだけのことなんです。ただ幸い世の中の風潮も、高度成長期とは変わってそうした方向に転じつつありますし、経済の方面から見ても、無駄だと切り捨てるわけにはいかないだろうと申し上げました。いかがですか、社長。今日はそのあたりのお考えも伺えるかと思ったのですが」  声をかけられてちょっと顔を上げたが、咳き込んでまたハンカチに顔を埋めてしまう。 「すみません。母も今日のところは、ちょっと決断を下すようなことは無理だと思いますわ」  蘇枋がそばからいいそえた。 「でも、お話を伺うことはできますから」 「そうですね。それではもう少し。──これまで建築の保存というと、つねに経済性という敵が立ち塞がってきました。しかし私はこれは、克服できる相手だと思います。ただできないのは人の感情ですね。過去を大切に残したい、留め置きたい。これは私のように無関係な人間の心にも広く起こり得る感情ですが、それと逆の心情というものもある。それも所有者だけが持ち得るだろう思いが」  そこまでいって京介は、意味ありげにことばを切る。 「なんですの」 「過去を消し去りたい、無いことにしてしまいたいという思いです。赤の他人が人の感情にまで立ち入って、それでもなおがまんして残してくれなどといったらそれは、学者のエゴでしかありません」  口に当てられたハンカチの奥からは、なにも聞こえない。彼女はうつむいた姿勢のままじっと押し黙っている。そして京介も黙っている。答えを待っているように。その沈黙を振りきって、蘇枋が聞き返した。 「桜井さんは私どもが、黎明荘をそのような理由で取り壊そうとしているとおっしゃるんですの?」 「私がというよりも、これは遊馬灘男氏がいわれたことなのです」 「父が──」 「ええ、はっきりといわれました。父親が憎い、だから彼の思い出となるような家は、抹殺してしまわねばならないと」  その京介のことばを聞きながら、蒼はふたたびおとといの朱鷺との会話を思い出している。だいぶ酔いが回ったころ、彼女は唐突にこんなことをいい出した。 『あたし知ってるわよ、なんで理緒があの桜井さんをうちに連れてきたのか。あの子、大切なおじいちゃまの死因を疑っているんでしょう。うちの中の誰かが彼を殺したんじゃないかって、そう思ってるのよ。そうでしょ? あ、ついでにもうひとつ当ててあげるわ。あの子が疑ってるのは明音さん。どう、当たった?』 『さあね。あなたはどう思うの?』 『ばっかみたい。そんなことあるわけないでしょ!』  朱鷺はけたたましい声を上げて笑い出した。 『そりゃあ明音さんと祖父の折り合いは悪かったわよ。でも殺すわけがないわよ、絶対に。なんといったって愛《いと》しい夫の実の父親ですもの』  あんまり仲のいい夫婦って感じじゃなかったけどな、と思った蒼にすかさず朱鷺はことばを継ぐ。 『あのね、理緒がなんていったか知らないけど、ここは明音さんのためにいっとくわよ。あの人は夫にぞっこんなの。独身時代に見染めてモーションかけて相手にされなくて、それで親に泣きついて無理やり政略結婚みたいなかっこで漕《こ》ぎつけたのよ、ゴールインまで。男女が逆なら有りそうな話かもしれないけどね。とにかくそれからいまにいたるまで、明音さんの心にあるのは我が夫だけなの。  悪いのは父の方よ。そりゃ愛せないのは仕方ないことかもしれないけど、いつになっても自分は金で買われた花婿でございって顔を崩そうとしないんだもの。それじゃあんまり明音さんがかわいそうじゃない。そりゃ君あたりの目から見たら彼女は仕事の鬼で、口開けばお金ばっかりで、かわいげもなんにもないおばさんかもしれないけどさ、そんな女に誰がしたってのよ。彼女をかえりみてあげようともしない父じゃないさ。  彼女はね、夫から無視され続ける悲しみを紛らわすためにひたすら働いているのよ。そのお金で父は好きな学問やってられるんだからね。同じ夫からほっておかれた妻でも、遊び歩いてあげくはフランス革命引き起こしたマリー・アントアネットあたりと較べてみなさいよ。えらくて、けなげで、涙が出ちゃうわよ。こんな大きな馬鹿娘まで養ってくれててさ』  とにかくっ、と朱鷺はバーのカウンターを叩いた。 『あの人が祖父に手を上げたなんて、そんな馬鹿な話あるわけないわ。あんたから理緒にいっといてよ。もし事故で祖父が倒れたんだとしても、明音さんならなんとかして助けようとしたに違いないって』  それがほんとうだとしたら、理緒のまったくの見こみ違いだということになる。それほど愛した夫の体にナイフを突き立てるなど、たとえ殺すつもりはなくとも、それこそあるわけはないのだから。 『でも、灘男氏は父親を憎んでた。これは確かだよね。だとしたら、彼なら自分の父を殺したかしら──』  酔っていなかったらこんなこと口にはしなかっただろう。もっと酔っていた朱鷺が下からつぶやく。 『パパがおじいちゃんを? それこそ馬鹿みたい。パパは運転できないのよ。夜中に熱川でおじいちゃんを殺して、どうやって翌朝家にいられるのよ──』  電話のコール音が蒼を物思いから覚ました。はっと振り返ったのは蘇枋たちも同様だった。身軽く立ち上がった蘇枋が、小机の上の受話器を取り上げる。 「えッ?」  短くもれた声の緊迫した響きが、いやでも蒼たちの興味をそそった。 「待って、伯母さま。いま場所を変えますから。ええ、すぐに」  受話器を置いてやや青ざめた顔をこちらに向けると、 「申し訳ありません。ちょっと会社の方で急な電話が入ってしまって。少し、失礼いたしますわ。──お母さま」  ハンカチの中で咳き込むのを腕で抱えるようにして、ふたりしてあたふたと出ていってしまう。 「不渡りでも出したかな」  深春がつぶやいたが、京介は答えなかった。    4  結局そのまま十五分ほど待たされて、三人は丁重に送り出されることとなった。蘇枋がひとり、一階まで見送りについて来た。 「こちらでお引き止めしておいて申し訳ありません。会社の方で急な用向きができてしまいまして、私も母も出なければならなくなってしまいましたの」 「そうお気になさらず。こちらは時間だけは自由になる身ですから」 「ほんとうにすみませんでした。何分にもビジネスのことですので、あと一時間待ってくれということができませんものですから。またゆっくりお話の方は伺わせていただくことになると思いますので、どうぞお許し下さいませね」  同じことばを幾度となく繰り返しながら蘇枋はひたすら頭を下げるが、電話を受けたときの青ざめた表情はそのままだ。あまりいい意味の急用ではなさそうだ。不渡りという深春の推測も、あながち的外れとはいえない。 「さもなきゃ客に売った石の中にイミテーションが混じってたとか。あるいは外商の営業マンが商品をごっそり持ち逃げしたとか」  銀座通りを駅に向かいながら、深春は嬉しそうに数え上げる。 「所詮宝石なんて、人が勝手に値打ちをつけたまぼろしの商品だからな。トラブルにゃてんから弱いのさ。考えてみろよ。価値観がひっくりかえってあんなもんただの色つきの石ころだってことになりゃあ、だれも見向きもしやしない」  いきなり深春は大きく両腕を広げ、女形みたいな裏声を張り上げた。 「『人々はづかづか人の家に入つてゆき、壁といふ壁、塀といふ塀は、パイの皮のやうに破れやすくなり、私たちが消しゴムの指輪をはめ、その代りに地下鉄の吊手がダイヤとプラチナだらけになつたら……』」 「なんだよ、それ。気持ち悪いなあ」 「知らんのか、三島由紀夫の名作『黒蜥蜴《くろとかげ》』じゃないか」  そういえばこいつのバイトの品目に、劇の端役というのもあったのだ。どうせ力仕事の大道具方と兼任に違いない。 「『言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でも、うれしいわ』」 「なにがあ?」 「『うれしいわ、あなたが生きてゐて』ばたっ」 「止めてくれえ、イメージ狂う!」  土曜の人通りも多い銀座の表通りで恥かしげもなく鬼ごっこをやっていた蒼と深春だが、ふと気がつくと京介がいない。どこへ行ったのかきょろきょろしていたら、電話ボックスから出てきた。 「どこに電話してたの?」 「伊豆の友人にね、今夜か明日あたりになにか変わった記事が出たら知らせてくれと頼んでおいた」 「伊豆って」 「黎明荘になにかあったっていうのか?」 「ただの勘だけどね」  しかしなにか理由はあるはずだ。人に物を頼むのはあまり好かない京介が、そうしたことをわざわざしたということは。 「さっきの電話はビジネスじゃない。伯母さまっていっただろう、蘇枋が」 「あ……」 「だけど、伯母さまがらみのビジネスってことだってあり得るだろ? 彼女が紹介した客相手のトラブルだとか」 「だから勘だというのさ。深春のいう通りなのかもしれないが、こちらが尋ねもしないのにやたらと彼女が、会社とかビジネスとかいうことばを使っていたろう。それで少しひっかかってね」 「そういえば、そうだね。急に席を外すいいわけのためかと思ったけど」 「だったらいっそビルの出口を見張って、後をつけた方が良かったんじゃないのか」 「やりたいならどうぞ、僕は寝る」  京介は前髪の中であくびした。 「どうも遊馬家に関わり出して以来、睡眠時間が狂っていけない」  京介の現在の部屋には電話がない。大学から歩いて五分とかからない六畳一間の古下宿は文字どおり本で埋まっていて、人間の住居という範疇《はんちゅう》をかなり大幅に逸脱している。別に不潔だというのではない。ただあのすさまじい量の本の中に座っていると、まるで古い書庫の中に押込められたような気分になる。多少閉所恐怖の気味のある蒼には、いたいような場所ではない。  京介が静岡の友人に連絡をくれるよう頼んだのは、だから例によって深春の部屋のそれで、三人は銀座から江古田のアパートにそのままころがりこむことになった。こちらは六畳に四畳半の板張、おまけに小さなユニット・バスまでついて京介のそれと較べれば文化の極みだ。深春がまた顔に似合わぬまめな男で、洗濯も掃除もけっこうするらしく居心地はきわめて良い。その上ものをためこむのは嫌いだと来ているから、本は常に小型の書架一台に収まるだけ。外国旅行が趣味といっても持ち帰るのは写真だけで、さすがに壁は自作のパネルの大小で埋め尽くされている。  夜は連絡の来ないままで、京介の勘も今回は空振りかと思われたのだが、翌日曜の八時、鳴った電話を半分ねぼけたまま持ち上げた蒼の耳に、 「遠山ですが」  という男の声が聞こえてきた。 「桜井はまだ寝てますよね」 「はい、寝てます」  笑い声が聞こえてくる。会ったことはない相手だが、京介の習慣はちゃんと呑みこんでいるらしい。 「じゃFAXに切り換えてくれますか、新聞の切り抜きを送りますから」 「なにか、あったんですか?」 「見てもらった方が早いです。その上で、重要だというなら桜井を叩き起こすなりして連絡下さい。じゃ」  蒼はあわてて切れた受話器を戻し、切り換えスイッチを入れる。ほどなくFAXを受信するときのとぼけた笛のような音が響き出し、ロール紙がベロみたいに迫り上がってきた。拡大コピーしたらしい新聞の切り抜き、それはたった一段十行ばかりのベタ記事にすぎなかった。だがその文字を読んだとたんに、蒼は声を上げている。 「大変だ、京介。起きろよ、深春も。また死んじゃった!」   空家で転落死?    21日午後6時ごろ、東伊豆町奈良本の空家の一室で沼津市の不動産業者醒ヶ井玻瑠男さん(50)が死んでいるのを、訪れた所有者の遊馬明音さんが発見、届け出た。遊馬さんは醒ヶ井さんに同家の処分を依頼しており、醒ヶ井さんは椅子に上って天井部の様子を見ている内に誤って転落、頭部を強く打って死亡したと見られる。  だがFAXにあったのはそれだけではなかった。余白に走り書きが数行。 『警察内部では昨年同じ家であった遊馬歴の死亡事故との関連を調べている。I新聞でもそれと昨年末の遊馬灘男の自殺未遂と、今回の事件は一連のものではないかという見方が浮上している。もし君が情報を提供するなら、見返りに警察情報を流してもいいという記者がいるがどうするか』   疑い    1 「いやー、まあ、仕方ないっすよ。遠山にはいろいろ借りがあるもんで」  男はいきなり頭の芯から抜けるような声でしゃべり出す。スティーブ・マックィーンを日本人にして二割がた男ぶりを落とした、とでもいった顔つきだ。 「せめてその、将来大物確実の名探偵氏の顔ぐらい拝ませていただきたかったけど、それももう少し先の楽しみってことにしときましょう。ただしこちとらが東京に出たときは必ず御挨拶に出向きますから、そんときゃ何分よろしく頼みますぜ」  熱海の駅前に立つ古めかしい喫茶店の片隅だ。例のFAXを受け取った翌日、月曜日の午前、桜井京介の古い知り合いだという遠山の紹介してくれた地方新聞の記者と、深春と蒼はまずいコーヒーをはさんで向い合っていた。  雨沢鯛次郎《あまさわたいじろう》という妙に水っぽい名前の、年齢はせいぜい三十になったばかりというところか、彼がいう通り京介は来ていない。なにせ午前十時に熱海という時間が時間だ。  警察の情報は欲しい、だがこちらが持っている知識や推理についてはまだ話せない。そんな虫のいい要求を相手が承知するものかはなはだ不安だったが、案に相違して雨沢はあっさりうなずいた。そして、なぜそれほど協力的なのかと逆にいぶかる顔になった深春たちに向かって、生来口の軽すぎる男なのか、聞かれもしないことまでぺらぺらと話し出すのだ。 「いえね、実はつい去年の十二月なんですよ。あなた競馬やります? やらない、じゃわかんないかな、まあいいや。阪神の鳴尾記念でね、東京出たついでにウィンズ寄ってくれって、あ、ウィンズってのはつまり場外馬券売場のこってすが、遠山のやつに馬券を頼まれたんでさ。5─15に一万円。だけど五番のルーブルアクトってのはその前福島でしんがり負けくらった馬でね、間違ってもこんなの来るもんじゃねえってんで、呑んじまった。そしたらねえ、来るんだよ、そういうときに限って。クビ差の一、二着で馬連一万七千二百二十円、バーン! しかたないから泣いてあやまったよ。おかげでこの借金返すまでは、あたしゃ遠山には頭が上がらない。ええもうこうなりゃ遠慮なく聞いて下さい。利子がわりに、しゃべります、ゲロしますよ、なんでも」  つまり雨沢記者は遠山氏から馬券を買ってくれといわれて一万円預りながら、当たるわけがないと思って買わなかったわけだ。ところがその買わなかった馬券が的中して、払い戻し金が百円につき一万七千二百二十円、一万円分で百七十二万二千円。なるほど、そう簡単に返せる金額ではない。 「三つの事件が一連のものだって見方は、警察あたりでもかなり有力になっているんですか?」  競馬にはまるで興味ない深春がさっさと本題に入ると、和製マックィーンはしゃくれた顎の端をつまみながら、 「いや、そういう線での洗い直しを主張している捜査官がいるってところですな、いまはまだ。それより今度のが他殺だとしたら、バブルがはじけて以来不動産屋はどこもやばくなってますからね、醒ヶ井の商売関係のトラブルじゃないのか。こっちの見方の方が本線でしょう。その関わりで前の死亡事故も、再調査すべきだてえ意見が出ている。まあ醒ヶ井とトラブったからって、遊馬の隠居を殺しても仕方ないだろうたあ思いますがね。ただうちの社にかなり頭の切れたミステリ・マニアがいまして、あの熱川の別荘そのものに原因があるんじゃないかなんていうんで、建築の先生が興味持ってるならそのあたりの話も聞きたいもんだと思ったんですが」 「ミステリって、じゃ『黒死館』?」  深春の脇から急に口をはさんだ蒼に、雨沢は驚いたように目をぱちくりしたが、 「いや、翻訳物だから右翼は関係ないんじゃないかな」  大学の名前と間違えたらしい。 「そいつがいったのはカーの、ええと、後家がなんとか」 「『赤後家の殺人』?」 「そう、そいつだ。連続殺人の起こる不吉な家の話で、結局宝の隠し場所に人殺しの装置が取り付けられてるんですって? でもナイフが飛び出すとでもいうならともかく、人をころばして頭を打たせる仕掛けなんてありますかねえ」  どうやら新聞社のミステリ・マニアの発想は、遊馬灘男のそれなどに較べればはるかに形而下的なものらしかった。 「まあそれはともかくとして、事故ということになった去年の遊馬歴の死から、警察でどの程度の調査がされたか知りたいと、こういうお話でしたな。じゃひとつ順番に行くとしますか」  上着のポケットから引き出したしわだらけの紙束を広げると、雨沢はとうてい他人には読めない文字にちらちらと目を落としながらしゃべり出した。 「遊馬歴八十六歳が彼の持家の一室で死体で発見されたのは、昨年八月十六日の朝八時前。使用人蔵内哲爾が警察に通報した。死因は頭蓋骨左側頭部の陥没骨折による脳損傷、死亡推定時刻は夜十時から十二時前後。門、玄関、室内扉はいずれも施錠されていなかったが盗難の痕跡もなく、特に争ったような形跡もないことから事故と断定された。部屋にあった木製テーブルに血痕の付着が見られ、傷の形状とも矛盾しないことから、足がもつれて倒れた拍子にその角で頭部を強打したものと考えられる。  遊馬歴はこの三十年近く蔵内と熱川の別荘に居住していたが、当夜蔵内は所用で東京に出ており、翌朝帰宅して死体を発見した。アリバイ調査はされたが前日に訪れたという東京の書店三軒の店員、宿泊した品川のビジネス・ホテルのフロント、彼の申し立てた帰宅時間に勤務していた伊豆急熱川の駅員のいずれもが蔵内を記憶しており、その証言は完全に裏付けられた。まあ、ざっといってこんなものですな」 「すると、警察はいちおう蔵内氏を疑ったわけですか」  深春の問いに雨沢はたばこを点けながら、 「殺人だとすれば他に容疑者がいないってことじゃありませんか。盗難の痕跡がないといったって、それを証言できるのもあの爺さんしかいないわけなんだから。長い時間かけて金めのものをちょろまかしていたのが、ばれて出ていけといわれてとかね。  ただあの爺さん見かけは悪いが、熱川あたりで聞きこみをしてみると評判はひどくいい。あれだけ主人思いの使用人なんていまどきいるものじゃないって、出入りの魚屋も八百屋も医者も口をそろえるんだから大したもんだ。その上アリバイにも問題がないとなると、どうしたって犯人にするわきゃあいきません」 「蔵内氏は運転できますよ」  深春がちょっと意地悪な口調で異議を唱えると、 「そりゃわかってまさ。しかし爺さんがホテルにチェック・インしたのが夕方六時、チェック・アウトが朝の四時です。品川発四時三十五分の沼津行き各駅に乗って、熱海で乗り換えて七時三十三分熱川着。新幹線の始発を使うよりその方が四十分早いって、前の晩にホテルのフロントで調べさせたそうですよ。そりゃまあそうやってフロントに顔を見せた後でこっそりホテルを抜け出して、レンタカーを借りて熱川に帰って主人を殺してトンボ返り、不可能だとはいわないが無理がある。あるでしょう、どう考えたって。──ええ、それともまさかあんたらの名探偵は、あの爺さんが犯人だっていってるんですか?」  深春は京介の真似をしたような人の悪い笑いを浮かべ、 「完全に不可能でない限り、消してしまうべきではないんじゃないですかね。それより他の家族については、アリバイとか調べられたんですか?」 「いちおう事情聴取はしたようですね。息子の遊馬灘男は東京にいて、ひとりで酒を飲んで十二時過ぎの帰宅。嫁の遊馬明音と娘のうち上の三人は、明音の姉の杉原静音と修善寺の別荘にいたが、どうもおとなしく家で寝ていたのは静音と長女だけらしくて、あとの女どもはみんな自分の車で夜遅くまで遊び回っていたらしい。事故という結論になったんでそれほど追及はしていないようだが、ともあれ同じ伊豆の内にいたわけだから、寝ていたはずのふたりについてだって、あなたのいいようを借りれば消すわけにゃいきますまいよ。四女だけはクラブの合宿かなにかで日曜の昼から富士吉田の方にいたそうだから、これはまさか問題ないでしょうが、厳密なアリバイといやあ残りの全員が灰色ですな」 「遊馬明音もねえ」 「さいですわ。まったくあのおばはんも四十過ぎて、赤いべべ着てBMWころがして男と遊んで、ようやりますわ、ほんまに」  雨沢はなんのつもりか、おかしな関西弁まがいで相槌を打つ。すると理緒が疑った通り、明音は風邪などひいてはいなかったのだ。しかし警察に対しては正直に外出を認めたということは、後ろ暗いところがないからだとも考えられなくはない。 「死亡時刻は十五日の夜十時から十二時、でしたね」 「さいです」 「即死ですか?」 「あはあ。実際の犯行はもっとずっと早い時刻だったかもしれないと?」  今度は雨沢の方がにやりとする。そのへんはすでに考え済みだというのだろう。 「まあ頭の傷といってもピストルで打ち抜かれたわけでもないから、バタン、キュッというほど一瞬に死んだわけではないかもしれない。五分や十分は生きてたかもしれませんがね、一時間二時間それがずれるという線はなかったそうですよ」 「そうすると、少なくとも遊馬灘男だけはシロといってよさそうじゃないですか」 「そうとはいえないよ」  深春のことばを否定したのは蒼だった。 「確か熱海に止まって東京まで行く最終のこだまは二十二時四十六分発だもの、それに乗るための伊豆急行は熱川発二十一時十三分発で早すぎるかもしれないけど、たとえば車で飛ばせば熱川から熱海は五十キロしかないんだ。黎明荘の位置自体、熱川の駅よりはだいぶ北に上がってるしね」 「おっ。すると十時に殺して、逃げて、間に合うか」  雨沢が口笛を吹く。 「ぼくが見たのは今年の時刻表だから、去年の八月十五日にその通り走ってたかどうかまではわからないけど」 「それにしてもよく覚えてるもんだなあ、ぼうや。鉄道マニアか?」  別にそんなものではない。昨夜深春のアパートで、明日は何時の列車に乗ればいいだろうと、時刻表をめくっていた。そのとき目にした上りの方のページを、いまちょっと思い出してみたのだ。いちいち否定するのもめんどうなので、肩をすくめるだけにしておく。 「だがその車はどうしたんだ? 遊馬灘男は運転できないといったのはおまえだぞ」 「でも熱海のタクシー会社までは、調べてないんじゃない?」 「タクシー乗って人殺しに行くかよ」 「はずみだったかもしれないじゃない。数の少ない伊豆急を待つのがめんどうだから、熱海で車雇ってそのまま家の前で待っててもらって、帰りもそのまま熱海へ戻ったとしたらまたタクシー探す手間もないでしょ」  雨沢がこんどはぽんとこぶしを叩く。 「いやいや、そいつはあたしが当たってみますよ。警察も熱川近辺のタクシーは当たったはずだが、熱海の方までは調べちゃあいませんって。いただきいただき。さすが名探偵の助手だけのこたありますなあ」  いったい遠山という男がなんと紹介したのかは知らないが、桜井京介はいつの間にかすっかり『名探偵』にされてしまっている。あまり真面目に考えることもないのだろうが、この人の情報ってどこまで信頼できるんだろう、と蒼は思った。    2 「さて、そんじゃ次行きますか。せがれの方の自殺未遂事件ね。昨年十二月二十八日朝六時半ごろ、遊馬灘男五十一歳が熱川の家の一室、というのは父親が死んでいたのと同じ部屋ですがね、そこで床にうつぶせに倒れているところを、訪れた元使用人蔵内によって発見された。  創傷は右脇腹に長さ五センチ、深さは腹膜に達し血は床からあたりの調度に飛び散っていた。凶器は床に落ちていた刃渡り約二十センチの両刃ナイフで、遊馬歴が戦前から所有していたもの、最近は厨房の道具箱内にあったはずだと蔵内が証言している。出血多量で一時危険な状態に陥っていた灘男は、意識の回復後自殺未遂であると明言した、と」  そこまで一気にしゃべった雨沢は、それが癖らしく読んでいたメモの束をぽんと叩くと、 「ただ警察では灘男が意識を回復するまでは、完全に殺人未遂事件として動いていたわけですよ。というのも状況から見たら、自殺とは思えなかったわけですな。まず遺書がない。身辺整理をした跡がない。加えるに法医学の方でいう逡巡傷、いわゆるためらい傷がまったくない」 「ためらい傷?」  あまり聞いたことのないことばだった。 「刃物で自殺する人間の場合、非常に多く見られるものだそうですな。いくら覚悟を決めたといったって、いきなりぐさりとはなかなかいけるものじゃない。手首を切るにしても喉を突くにしても、こうほんのちょっと切ってみちゃあ痛さとか血の出具合を確かめる。思いきって力を入れてみても、ずきっとくりゃあつい手が退ける。血が出てきた。でもこんな程度じゃだめだ、全然死ねない。そうやって何度も何度もちびちびやったあげくに、とうとう、やあっ!」  雨沢はへたくそな芝居のように腕を振り上げ、 「とまあ、こうなるわけですな」 「ところが遊馬氏の場合は、そういう傷がまったくなかった」 「そうですそうです」  深春のことばに大きくうなずいて、 「それどころか右の手のひらに、横に切りつけたような浅い傷跡があった。これはさっきの逡巡傷に対して防衛傷といわれましてね、刃物で人が襲ってきた場合それを避けようとするとできる、それのように見えたわけですな。おまけに刺したところが腹でしょう? それも服の上からだ。日本刀で切腹して腸を全部外に引っ張り出したって、そう簡単に死ねるものじゃないのはだれだって知ってまさあね。まあそれでも腹を刺して自殺を図る人間はいくらもいるが、大学教授のような高等教育を受けた者には、そういうケースは比較的少ないっていう見解もあったようですな。自己の死によって世間になにか訴えたいとか、抗議したいとかいう場合でもない限り、できるだけ楽で見苦しくない死に方をしたいと思うのが、まあ、人性の自然てえもんでしょう」 「それじゃあ──」  どこを取っても自殺とは思えない証拠ばかりじゃないですかといいかける深春を、雨沢は片手で止める。 「そうなんですよ。でも本人が自殺未遂だって断言するものを、警察が違うっていうには相応の根拠がいるでしょうが。遺書がない、身辺整理の跡がない、逡巡傷がない、防衛傷らしいものがある、服の上から腹を刺している。証拠といっても状況証拠だ。否定しようと思えばできるものですよ。事実遊馬灘男は病院のベッドの上で、捜査官にひとつひとつ反論したらしいですな。  仕事上の行き詰りから来た衝動的な自殺なので、遺書を書く気は起こらなかった。なにもかも捨てていきたいと思ったから死ぬ気になったので、身辺の整理など考えもしなかった。手のひらの傷は一度刺そうとしてナイフを取り落としたとき、あわてて受け止めようとしてついたものだと思う。その痛みで逆に覚悟が決まって、一気に腹に刺した。なんで腹を突いたのか、そこまでは覚えていない。服の上から刺したのは、寒かったからだと思う。そういって彼は笑ったそうですな。どうも、薄っ気味の悪い野郎ですよ」  雨沢は渋い顔でメモをめくる。 「ただ床に倒れた後で猛烈な苦痛に襲われて錯乱状態になり、夢中でナイフを引き抜いたような気がする。それをもう一度拾って、喉を突こうとしたが気絶してしまったらしい。それきり病院で意識が戻るまで、なにも覚えていない。──明快でしょう、なんとも。ここまではっきりいわれちゃあ、それ以上の証拠がない限り警察の捜査も尻つぼみにならざるを得ませんやね」 「ナイフの柄の指紋はどうだったんですか?」  蒼が尋ねる。 「遊馬氏のものだけ。といっても引き抜いて血がどっと出て、その血だまりの中に落ちてどろどろになったやつを、また遊馬氏が掴んだりしたらしくて、ほかになにかついていたとしても検出は不可能だったというのが正確なところではありますな」  それが意識的な行為だとしたら、灘男は自分を刺した犯人をかばうのに、不可欠なことをしたということになる。だがそれも状況証拠、というよりは状況に対する一解釈としかいえないわけだ。 「まあこの事件はとにかく殺人未遂として捜査が開始されたわけで、現場附近の聞きこみなんかもかなりされたようですが、これは遊馬歴の死んだときと同様、不審人物不審車の目撃皆無、タクシーの方もなにもなし、成果ゼロとしかいいようがありません。観光地のおかげで土地勘のない車がおかしな場所に迷いこんでくるなんて日常茶飯事だし、かといってあの家のまわりには近所というほどの家もありませんしね。  で、関係者、つまり遊馬家の家族たちのアリバイですがこれまたひでえもんで、おとなしく家にいたのは長女ひとりらしい。社長やってる女房は銀座のオフィスで仕事して、遅くなったもんでそのまま泊まったとかで朝帰り。年末のことで秘書も先に帰ったてんだから結局一晩中ひとりだったわけで、実際のとこなにをしてたのかなんて知れたものじゃない。  次女は美人だがとんだ遊び人で、どこだかのディスコで夜っぴて踊ってた、しかもいっしょにいた連中はいつもの遊び仲間でもない、そのへんで知り合ったばかりの名前もわからないやつらだっていうんでこれまたアリバイなし。三女はひとりでオールナイトの映画で、四女は乗馬クラブの忘年会に出ていたっていうんだが、そのクラブってのがあんた驚いたことに熱川の、現場のすぐ近くなんですよ」  蒼は思わず息を呑んで、雨沢のすっとぼけた顔を見つめた。その乗馬クラブとはもちろん、遊馬家ゆかりの『東伊豆ライディング・クラブ』に違いない。だが父親の身にそんなことが起こった当夜、すぐ目と鼻の先に自分がいたことを、理緒はひとこともいわなかったではないか。 「すると、その娘が父親を刺した可能性もある、というわけですか」  さりげなく尋ねた深春の顔も、やはり強ばっている。 「まあ乗馬クラブの人間のいうことには、宴会は一晩中明るくなるまで続いた上、その娘は途中トイレに立ったくらいで、五分と席を外しはしなかったというんですがね」 「なんだ──」  思わずほっと息がもれる。いくら近くとはいっても乗馬クラブと黎明荘の間を、五分で往復できるわけもない。その蒼を覗きこむようにして、雨沢がことばを継いだ。 「しかしミステリ風に考えるなら、こういうのはどうです。遊馬氏が刺されたのは乗馬クラブのすぐ近く。腹を刺された彼は家まで戻って、そこでナイフを引き抜いて倒れる。もちろん刺した娘はそのままクラブの宴会にもどっている。これなら中座も五分で足りんということはないでしょう?」 「へえ、すると彼はわざわざ、刺されるためにナイフ持参で出かけていったわけ?」 「娘を刺すために行って、逆にやられたという話もできそうですなあ。おっとっと、そう怒らんで、ぼーや。あたしもそんなこと信じちゃいませんよ。ただの思いつきですってば」  蒼はぷいと横を向いた。こいつ、嫌いだ。 「するとアリバイに関しては、この事件も関係者ほぼ全員灰色といってよさそうですね」  深春がむっつりと、それでもフォローする。 「さいですな。ああ、ついでにいっとくと蔵内もアパートにひとりでいたそうで、現場からの距離は歩いても三十分足らず。アリバイ・ゼロです」  雨沢はさらにメモをめくって、 「遊馬歴という老人は完全に世捨て人で、それでも戦後しばらくは戦前勤めた皇室関係の人脈なんぞも生きていたようだが、いまとなっちゃ家族以外彼と利害関係のある人間は皆無。せがれの灘男も東京の大学の非常勤講師なんかしていたが、経済的には女房に養ってもらってるかたちで、学問的な野心もなけりゃあ学内の勢力争いとかいったものにもまるで関わりがない。まあこいつも一種の世捨て人みたいなもんでしょう。  結局どっちも関係者といえば家族だけ、アリバイのない者がほとんどといっても、あえて殺すの刺すのといった動機も見当たらない。となればこのふたつの事件が事件扱いされなかったのも、無理はないということでしょうな」 「ただし、今回の事件がなければ、というわけだ」 「そう。それですって」  雨沢はまたにやりとして身を乗り出した。    3 「ええと。ではようやく今回の番ですな。死んだのは醒ヶ井玻瑠男五十歳。先にこの男のプロフィールをざっと説明しておきますと、沼津市に住居と店舗を持つ不動産取扱業者で、遊馬家とのつきあいは遊馬明音の実家杉原家と醒ヶ井の父親の代からのもの。出入り業者の子と客の娘という立場ではあるが、ふたりはいわゆる幼なじみ的な仲でもあったらしい。父親の死で店を継いで、一時はゴルフ場開発に手を出すとかホテルを買収するとか、かなりの羽振りの良さだったらしいが、最近はやはり不景気の影響で事業を縮小せざるを得なくなっている。マルボーがらみの業者から金を借りていた、なんていう噂もある。といってもそのへんのことは、県警でもまだ調査中ということですな。  死体が発見されたのは五月二十一日の午後五時半ごろ。そこにいたのも今回は蔵内ひとりではなくて、遊馬明音と長女の蘇枋の三人だった、と」  そっぽ向いていた蒼も、思わず向き直っている。するとあのとき銀座のオフィスをあたふたと出ていった明音と蘇枋は、ほとんどそのまま黎明荘を尋ねたというわけだ。まるで、そこになにがあるのか、わかってでもいたように。新聞記事にも発見者が明音であるとは書いてあったが、改めて聞くとやはり奇妙なものを覚えずにはいられない。  テーブルの下で深春の手が蒼の膝をつつく。うっかりしたことを口走るなと、合図しているのだ。わかってるよというかわりに、蒼は深春のすねを蹴っ飛ばした。 「醒ヶ井の死体が発見されたのは、遊馬の親父とせがれがいた部屋ではなくてその外の屋根つき中庭。ふたつ重ねてあったらしい椅子と小机がそばにころがっていて、どうもそれに上っていて落ちたらしい。足から落ちればせいぜいが捻挫《ねんざ》で済んだだろうが、悪いことに頭を石の水盤のへりでどついた。おまけにその後床で顔を打ったらしく、鼻の軟骨がつぶれて顔中血だらけ。もっとも死因の方は頭蓋骨骨折で、遊馬歴と以下同文ですな。死亡推定時刻は午前十時から十二時、と。ただちょっとばかり妙なのは椅子の下に重ねてあった小机ですがね、ご隠居が頭を打って死んだときの、それなんですよ」 「ええ!?」  蒼と深春は思わず、異口同音に驚きの声をもらす。 「そんなものがとってあったんですか」 「蔵内の部屋に置いてあったやつを、持ち出してきて使ったらしいです。現場に行った捜査官は、まるで九ヵ月前の仏さんをなぞってるみたいだなんていってたが、まあ別になんてこともないでしょう。これが怪談|噺《ばなし》なら、聞かせどころでしょうがね」 「指紋はどうでした」  大して期待もしないように、深春が尋ねる。 「誰かが醒ヶ井氏を殺す気で椅子を倒したりしたのなら、指紋は残ったはずですね」  雨沢もあっさり首を振る。 「いまどき人を殺そうってやつが、指紋なんぞ残すわけがありますかい。小机の方はざらっとした白木でもともと指紋の検出はできないし、ニス塗りの椅子の方も、はっきりしてたのは醒ヶ井自身のだけですよ」 「醒ヶ井氏は黎明荘でなにをしていたんでしょうね」 「遊馬明音のいったことにゃあ、あの別荘を取り壊して高層のリゾート・マンションを作るか、生かして改造してフランス料理のレストランでも作るか、あるいは中間を取って高級小規模なプティ・ホテルみたいなのにするか、その検討を彼に依頼していたというんですな。合鍵はしばらく預けっぱなしだった。だから彼が何時にあそこに行ったのかはわからない、とこういうわけです。  電車の時間に合わせて熱川の駅まで車で迎えに来るという約束で、それが四時半ころだそうですが、着いたところがいくら待っても醒ヶ井は来ない。やつが断りなしに他へ回りでもしたのだとしたら、鍵は預けたままなので行っても中には入れないことになる。ここまで来てそれも業腹なので、近くに住んでいる蔵内を呼び出してタクシーで別荘まで行った。爺さんは家の掃除やなんかをするんで、住みこみはしなくなっても鍵はそのまま管理しているのだそうで。そうしたら鍵が開いていた上に、やつは床の上にひっくりかえって、白目を剥いて死んでいた。とまあこんな話だったようですわ」 「遊馬明音にはなにか、その日どうしても熱川に行かなければならない用事があったんですかね」  深春がこう尋ねたのは、蒼と同じことを考えたためだろう。 「さあ、特にそういう話はなかったようですな。前からの約束だったのじゃありませんか」  あの土曜日、銀座のオフィスに電話が入ったのが十一時過ぎだった。ビジネスといっていたが自分の耳を信ずる限り、それをかけてきたのは杉原静音だ。仕事関係なのか家族の問題なのか、とにかくあれほどあわてねばならないような用事をかたづけて、東京駅からなら新幹線の熱海乗り換えでも、直通の踊り子号でも二時間以上かかる列車で熱川に行く。時間の余裕がなさすぎはしないか。おかしいといいきるほどのことではないが、どことなく引っ掛かる。  そんなこちらの思いを読んだように、雨沢がしたり顔でいい出した。 「まあ約束といっても、疑えば疑えるんですな」 「えッ?」 「現場に行った捜査員から聞いたんですがね、遊馬明音は大変な愁嘆場だったそうですよ。泣くやらさわぐやら死体にすがりつくやら。現場の保存なんてとんでもない。娘と蔵内の爺さんが脇から止めていたらしいが。少ししたらそれでも落ち着いて、どうか私がこんなに取り乱したりしたことは内聞にお願いいたしますだと。ね、わかるでしょう? 明音と醒ヶ井はできてたんじゃないですかね。こうなると約束ったってなんの約束だったやら、わかったものじゃありませんて」  嫌ないい方だった。でもそんなの嘘だ、と蒼はまた思う。明音と醒ヶ井、全然似合わない、というより釣り合わない。確かに修善寺のパーティーのときもふたりはずいぶん親しげではあったが、幼なじみといえるくらい長いつきあいなら、死体に出くわして取り乱してもそう不思議ではないはずだ。 「まあそうはいっても娘連れで逢い引きはせんでしょうからね、疑えば疑えるっていうところですよ。これがふたりっきりならもう、疑う余地もありゃしません」 「雨沢さんの警察情報は大したものですね。まだ捜査が始まったばかりなのに、そこまで教えてくれる人がいるんですか」  深春のことばは半分あきれ気味、半分はどこまで正確なのか危ないものだという口調だったが、当の雨沢の方はおせじでもいわれたようににやにやと笑み崩れる。 「なあに。二、三人あたしに借りのあるやつがいましてね。書かないという条件でいろいろ洩らしてくれるんですよ。──それじゃね、ひとつとっときの新情報を最後にさしあげちゃいましょう。でも絶対に秘密ですぜ。これがよそに出たりしたら、飛ぶ首はあたしのだけじゃすみませんからね」 「わかりましたよ。なんです、いったい」 「どうも醒ヶ井の沼津にあるオフィスとマンションが、荒されたらしいんですよ。それもあんた土曜の昼間のうち。つまり醒ヶ井の死体が発見される前に」 「そりゃ、ほんとですか?」  さすがに驚いた顔の深春に、雨沢は得意満面といったところだ。 「醒ヶ井が死んだ日にたまたま無関係な空巣狙いが、たまたま彼のオフィスとマンションを同時にあさったとは誰も思わんでしょう。やつを殺《や》った犯人が鍵を奪って、そのまま沼津に直行して二ヵ所を荒した。こう考えないと理屈に合わない。これはどう見たって事故とはいえなくなりましたよ」 「それで暴力団か、商売上のトラブルの線というわけですか。荒されて、なにが取られたんです」 「それがね、少しばかり変わっているんです。帳簿とか取り引きの書類とかファイリングとか、そういうものには全然手がついていないんですな。細かいことは使われていた事務員あたりを立ち合わせて、これから調べていくんでしょうが。といって金庫が破られたようすもない。ただ素人でも一目見れば、変だということはわかりました」  妙に気を持たせるような口調だ。 「なにがなくなったと思います? カセット・テープですよ。醒ヶ井はなにか音がしてないと落ち着かないという男だったそうで、オフィスでもマンションでもかなり大きな引き出し式のケースにミュージック・テープを数百本集めていたらしいんだが、それがどっちも一本余さずきれいになくなっていた。ねえ、ちょっとおもしろいでしょう。名探偵だったらこれをなんと解きますかね?」    4  その日の夕刻近く、蒼と深春は上りの踊り子号に並んで座っている。雨沢記者と別れてから熱川に回り、九日ぶりに蔵内老人と対面した。彼のアパート──それは老人の独り住居とは思えないほど小ざっぱりと整えられた二DKだったが──に案内されて午後いっぱいさまざまな話を聞いた。その上遊馬歴の筆跡が見たいという京介の注文にも、偶然残されていた手紙の書き損じを貸してもらうことができた。  だが蒼はいまなにも考える気になれず、ただぼおっと窓の外を流れていく暮れ方の海を眺めている。頭に重い疲労感。胸には鉛のような憂鬱。すっかり放心していて、深春が席を立ったことも気づかなかった。 「ほれよ」  いきなり顔の前に湯気の立つ紙コップが差し出される。車内販売のコーヒーを、わざわざ追いかけて買ってきたらしい。 「冷めないうちに飲みな。おまえがいれるやつよりゃ、全然まずいだろうがな」  受け取って機械的に口をつけると、確かに香りの飛んだそれはコーヒー色のお湯とでもいいたいようなしろもので、おまけに砂糖も入れてしまったらしい。蒼が京介同様ブラックしか飲まないのは、深春もちゃんと知っているはずなのに。 「──甘いよ」  思わず口をとがらせて文句をいったが、 「体が疲れてるときは、糖分補給した方がいいんだ」  重ねていわれてそれ以上逆らう元気もなく、もう一口飲んだ。熱くて甘ったるい液体が、冷たく強ばっていた胃袋にじんわりと溶けていく。隣で同じものを飲みながら、深春がため息をつくようにいう。 「まったく、さっぱりつかみどころのない事件だよな。なんだか調べれば調べるほど、ますますわけがわからなくなってきやがる。黎明荘で起こったあの三つの事件は、つながりがあるのかないのか。殺人や殺人未遂なのか、ただの事故や自殺未遂なのか。犯人がいるとすれば同一人物なのか、そうでないのか。動機はなんなのか。登場人物はあれだけしかいやしないのに、まったくヌエみたいじゃないか。こうなるとほんとうにあの家が呪われた家で、あれに関わった人間はみんなおかしくなって死にたくなるんだとでも考えたくなるよ」  蒼は黙ったまま、それでも首をうなずかせる。 「ただまあ遊馬家のふたりの男ならともかく、あの不動産屋のおやじが家の呪いで死ぬなんてのは似合わないよな。だがそれならまったく無関係に、商売上のいざこざからたとえばやくざに殺《や》られた、というのもぴんと来ないんだな。あのおっさんがいくら阿呆でも、殺気立った野郎がいきなりずかずか入ってきたら、のんびり椅子の上に乗っかってるわけはない。そう思わないか?  だからやっぱり遊馬家の関係者の中で、動機で考えたら一番強力なのは遊馬明音だろう。舅と夫に関してはもちろん、醒ヶ井についても黎明荘の取り壊しをめぐっての思惑の食い違いから来た争い、ということがある。金の貸し借りだってあったかもしれない。いやもしかするとあの不動産屋は別荘の中を探り回っている内に、偶然どこかに隠してあったサファイヤを見つけてしまったのかもしれないな」 「でも、アリバイがある」 「そうなんだよ。それもほかならぬ俺たちが証人だときてんだから、御念がいってらあ」  深春は飲み終えた紙コップをぎゅっと握り潰した。 「醒ヶ井の死亡時刻が間違いなく土曜の午前十時から十二時なら、十一時に東京にいた明音に彼を殺すことはできない。だがあれがトリックだとしたらどうだ? たとえば、そうだ。死体移動だ。醒ヶ井は黎明荘で死んだんじゃない。東京のどこかで殺されて、運びこまれたんだ。俺たちが銀座で明音と会ったときはすでに、醒ヶ井は彼女の手で殺されて車のトランクかなにかに隠されていたわけだ」 「明音と蘇枋が熱川に行ったのは、電車でだよ」 「あ痛」  頭を抱えた深春はすぐまた、 「共犯者がいたんだ。──そうか、ひらめいたぞ。あの電話の『伯母さま』が、実はその共犯者だったんだよ」 「杉原学園の学長さんが?」 「違う。ていうか誰でもいいのさ。むしろ杉原静音本人でない可能性の方が高い。『伯母さま』ってのは回りに怪しまれないように、前もって決めてあったそいつの暗号なわけだ。どこか車の中でおとなしく死んでたはずの醒ヶ井が、急に息を吹き返すかなんかしたんだな。で、死体を見張ってた共犯者からの連絡で、あわてて明音たちはとどめを刺しに行かなきゃならんかった。それから俺たちを帰した社長と娘は電車で熱川へ、醒ヶ井の死体は車で熱川へ」 「そんで明音が蔵内さんと黎明荘に来る前に、その共犯者が死体をかつぎこんで現場を偽装したってわけ?」 「いいだろ」 「よくないよ。第一そんなになんでもしてくれる共犯者がいるなら、どうして明音たちがわざわざ熱川まで行く必要があるの? なんか口実をつけてこれまでみたいに、蔵内さんに発見者になってもらえばいいんじゃない」 「うーん。そこはほれ、マンネリを避けるために」 「だめだよお。そんなへたなミステリ作家のいいわけみたいの」  腕を組んでがくっと頭を垂れた深春は、またふいとその顔を上げると、 「元気でたかよ、猫小僧」  ほんとうの猫にするみたいに蒼の鼻先をちょんとつつく。なんだ、さっきから慰めていてくれたのかとやっと気がついた。 「少し、ね」 「乗馬クラブの忘年会のことは、うっかりいい落としただけだろ。あのときはもう彼女、かなり取り乱していたんだし」 「──うん」 「あの爺さんがいくらしっかりしてるからって、暗いところの後ろ姿や、短い電話の声でそうはっきりわかるわけがないさ」 「──うん」 「第一俺たちがこの件に首をつっこんだのは、そもそも彼女の依頼があったからだろ? ああやっていろんなことを話したのも全部彼女で、そのいったことに嘘がなかったのは今日、雨沢と爺さんの話でも裏付けられたわけだ」 「──うん」 「だったら気にするなよ、そんな馬鹿な話があるわけないだろ。どうしてそんなことしなけりゃならないんだよ。あの理緒ちゃんが父親の腹にナイフつっ立てておいて作り声で蔵内爺さんに電話かけたなんてさ。爺さんの思い違いだよ、全部!」   砕かれた白馬    1  だが蔵内はいったのだ、蒼と深春をまっすぐに見据えて。夜明けに彼を起こした電話の声は、どう考えても理緒のものだった。自分が電話のことを警察に告げなかったのはほかでもない、そのためだ。理緒に手紙を書いたのもどうしようか思い余ったからで、こんなことがありました、と書きながら言外に自分が、あの電話が理緒の声だったことに気づいていると、知らせたかったからにほかならないのだと。 『私は理緒お嬢様が大旦那様をどうこうした、なんぞとはこれっぽっちも思っちゃあいない。絶対にそんなことはあるはずはないんで、それには私の首を賭けたっていい。  だが若旦那様という方は、お会いになったなら私のいうこともわかってもらえるじゃろう、ご自分の娘さんらを可愛いとか愛《いと》しいとか、これっぱかしも思わない人なんじゃ。生まれっつき血が冷たいとしか思われんお人なんじゃ。  そのへんは、いいかね、何度でもいうが大旦那様とは違う。大旦那様は確かに厳しい、容易に心を開かぬお方ではあったが、理緒お嬢様に対してのように、ちゃあんと人を慈《いつく》しむことのおできになる方でもあった。芯は熱いお人であった。そして理緒お嬢様も、大旦那様の気性をそっくり受け継がれたように、おやさしい中にも熱いお心を持っておられる。それはあんたらだって、充分わかっていることじゃろう。  だが若旦那様は冷たいわ。どこまでも冷たいだけなのだわ。その方が大旦那様のご生前はろくに足も向けられんかったのを、なにを思うてか主人亡き後の黎明荘を我がもの顔にされて、私はともかくお嬢様まで立ち入らぬようにいわれて、残されていた本やら帳面やら、日記はつけないといってもいくらかはあったはずの書き物を、すっかりかきまわして持ち出してしまうようなことまでなさる。その上鉢植えの土までくつがえすとなれば、これはもう不仲であった大旦那様への腹いせとしか思われんでしょうが。  正直いって私だっていい気はせんかった。なんとまた情けない、みじめたらしい遣《や》りようかとな。もし理緒お嬢様がそんなところを見られたならば、お怒りになって──ということは充分あると思うたよ。血を受けた、実の親子なればこそ許せぬということだってあるでしょうが』  一度ことばを切った老人は、ぎろりと大きな目をふたりに向けた。 『若旦那様がああして黎明荘からいなくなられてそう間もない、あれは一月の頭ころじゃったろうか、私が声をかけたら夜中に点けたままの懐中電灯を落として走っていかれた、あれも確かに理緒お嬢様じゃった。なんの、見間違えなんぞということがあるものかね。長い髪と桃色の上着まではっきり見えたのだもの。ご用があるならどうしてこの蔵内にいうては下さらんのか。それを私の声を聞かれてぬすっとのように逃げ出されるなぞ、なにやら情けのうてせつのうて。それでもなにぞわけがおありなのであろうと、胸をさすって待っておったのよ。  今度熱川においでになられるということだったから、やっと打ち明けて下さるかと思うたにとうとうなにもおっしゃられん。どうしてわかって下さらんか。私はお嬢様のためにならんことなぞ、ただのひとっこともいうものじゃない。あんたらあ理緒お嬢様の友達でしょうが。そう思うたから私はこうもあけすけに話しとるですよ。  どうか東京に戻られたら、よくよくお伝え下さいや。蔵内は断じてお嬢様の味方じゃ。大旦那様亡き後のご主人は、理緒お嬢様以外ないものと心に決めております。してくれとおっしゃればなんでもいたします、口を閉じていろといわれるなら犬どもにしょっぴかれようとなにひとついうものではない。ただひとことそういうて下さればいいんじゃ、とな』  蒼は頭をシートに持たせたまま、蔵内の顔を、声を思い出す。 『その電話の声、ほんとうに理緒さんだったんですか?』  尋ねた蒼に蔵内は、地団駄踏むような口調で答えたのだ。 『なにをいうね、あんたあ。私が平気でこんなことをいうと思うのかね。私だってどんなにか、自分の聞き間違いであればいいと願ったか知れん。だんが嘘ではない、間違いでもない。こないだ私は理緒お嬢様からの電話をもろうて、よけいそう思わんではおれなかったんじゃ。あの電話はいくらか作り声にしてはいたが、お嬢様の声よ』  確かにあの蔵内に、そんな嘘をつくべき理由はない。灘男を刺したのが彼自身であり、その罪を理緒に着せようと意図したのでない限り。いやそれなら彼は真っ先に、警察に対して電話の件を話していたはずだ。彼が口をつぐんでいたということが、彼の悪意の無さのなによりの証拠となりはしないか。 (でも、だとしたらどういうことになるのだろう……)  蔵内の証言を信ずるなら、もはや理緒のことばをそのまま受け取ることはできない。それも、なにひとつ。理緒は初めから京介たちを、あざむいていたことになる。彼女の涙も、痛みに耐える表情も、震える声も、すべてがいつわりでしかなかったことになる。  深春がいったとおり自分たちは理緒に導かれて遊馬家の人々と出会い、理緒から与えられた見方に依って彼らを見てきたはずだ。それがすべて嘘から出ていたのだとしたら、全部をご破算にして考え直さねばならない。  もちろん蔵内の語ったように、理緒には理緒の止むに止まれぬ思いがあるのかもしれない。祖父遊馬歴を殺した、少なくとも彼女がそう信じている母明音を京介によって告発するために、嘘をまじえた話で彼らを事件に引き入れたのかもしれない。父の負傷の真相はもちろん、その晩自分がどこにいたかといった都合の悪いデータだけは伏せることをして。  だがそうして新たに描き出される遊馬理緒の肖像は、蒼を惹《ひ》きつけた凛々しい少女剣士の像とはあまりにかけ離れている。自分の肉体という道具を自在に操って他人を動かし利用しようとする、少女の仮面をつけた冷徹な『魔女』だ。いくらその奥には蔵内のいうとおり、熱い心が燃えているのだとしても。  なのにこうして蒼が目を閉じるとき、そこに浮かんでくるのはやっぱりあのきりっと張り詰めていながらやさしくあどけない少女の顔、蒼がほんとうの理緒だと思ったあの顔だけなのだ。正しい直観だと信じていた自分の感覚も、結局はただの願望でしかなかったのか。それはなにか足元が崩れて、ずるずると深い穴の中に落ちていくような気分だった。 (昔もあったっけ、こんなことが──)  とっくに過去として葬ったはずの記憶が、いつしか胸底から立ち上ってくる。あれはいまから五年以上も前、桜井京介と初めて会ったころ。 (自分の見ているものが信じられなくて、なにがほんとうなのかもわからなくなって、ひとりっきりで穴の底に閉じこめられたみたいな──) (違う、ぼくを閉じこめていたのはぼく自身だった。自分で自分をがんじがらめにして、全世界と闘っているつもりだった。あのときまで──) 「眠いのか、蒼」 「うん、少しだけね」 「だったら寝ろよ、ちゃんと起こしてやるから」 「サンクス」  深春のことばにそう答えはしたものの蒼は、快いはずの列車の振動に体をまかせながら、ただの一分も眠ることはできないだろうとわかっていた。    2  深春のアパートに戻ると桜井京介は、ダイニング・キッチンのテーブルの上で黎明荘の模型作りに余念がなかった。吸血鬼でもあるまいに、日が落ちてからが彼の本格的活動時間なのだ。方眼紙に平面図を描き、発泡スチロールの薄板を切って壁を組み立て、さらにその破片を丸めたり貼り合わせて削ったりしてパティオの円柱や軒、上にかかったガラス屋根の梁から、吊り下げられたガラスのランプまで、ちゃんとその形に作っている。こういうものをこさえるときの京介の器用さは、いつ見てもかなりの驚嘆ものだ。  さすがに邪魔な前髪は持ち上げて、ピンなどないから小さな子供か犬みたいに輪ゴムで頭の上にくくっている。いつもの蒼なら上を向いて立ったその毛の先をつっついて、ジョークのひとつもいわずにはすまないところだが、さすがに今日はそんな気にもなれない。 「調査の結果を報告するぜ、名探偵」 「どうぞ」 「人の一日仕事の成果を、片手間に聞き流すつもりかよ」  深春がすごむが、それくらいで驚く京介でもない。 「耳は空いている」 「よーし。聞き終えてからテストしてやるからな」 「かまわないよ。あ、蒼、コーヒー頼む」 「ん……」  それだけで立ち上がった後ろ姿を、京介は初めて顔を上げて見た。 「──だからさ、蒼のやつ理緒ちゃんが嘘をついたんだって、このとおりてんでしょったれちまってんだ」  夕飯をはさんでしゃべり続けた深春は、その長い報告をこういってしめくくった。 「まったく、がきなんだからな」 「じゃ、どうして深春はそんなに平然としてられるのさ。断固理緒ちゃん支持だ、なんていってたくせに」  蒼はムッとして聞き返す。深春のそういう無神経ないい方は、自分を怒らせて元気を出させるためもあるのだと、承知してはいるものの、やっぱりムッとはしてしまう。 「それともさっき電車の中でいってたみたいに、全部蔵内さんの思い違いだっていうの? そんなふうに人の証言がいい加減だとしたら、推理なんてなにひとつ組み立てようがないじゃないか!」 「いや、あれからつらつら考え直してみたんだが、思い違いで片付けてしまうわけにゃあ、やっぱりちょっといきそうもないわな」 「だったら──」 「まあ、待てよ」  湯呑みのお茶を一口音を立ててすすって、 「そりゃあ俺だって、嘘つかれてたことはあんまりいい気分じゃないさ。でもこの際は蔵内爺さんのいうことが正解じゃないか。なにかわけがあって彼女は必死で戦ってるのさ。俺たちを確実に味方につけたくて、あんなふうにいっちまったんだろう。彼女が自分の手で親父さんを刺したのか、と聞かれりゃあやっぱり違うと俺は思う。たぶん彼女は目撃しただけじゃないのかな。ただなにかわけがあって、自分で助けることはできなかったのさ。  もっとも俺たちにしたって事実の把握ができんことには手助けのしようもないから、そのへんを理解してもらえるようにしなけりゃならんよな。なんとか気持ちを傷つけないように、うまく持ちかけるのはけっこう難しいかもしれん」  蒼はかぶりを振った。そうじゃない、そうじゃないんだ。適当なことばが見つからないけれど、嘘をつかれたのが残念だとか裏切られたようで悔しいとか、それといくらかは重なるようだがほんとうは違う。  この世界が奇妙にゆがんで、体の平衡が保てない感じとでもいおうか。自分で自分の目が信じられないとしたら、なにを頼り、なにを信じればいいのだろう。目の中に焼きついた理緒のイメージが、ぐんにゃりと溶け崩れていきながらなにかいおうとしている。でもその声は聞こえない。崩れてどう変わろうとしているのかもわからない。この顔がほんとうの理緒なのだろうか。それとも── 「おい、名探偵。見解は?」  発泡スチロールの破片を削っていた手を止めて、京介は顔を上げた。眼鏡の中から淡い色の瞳がこちらを見返した。 「しばらくよけいなことはいわない方がいい」 「なんだってえ?」 「遊馬理緒を詰問したり、蔵内氏のいったことを聞かせたりしてはいけない」 「おい。馬鹿いうなよ、京介」  深春は腰を浮かせ、掴みかからんばかりの顔で京介に詰め寄る。 「『まあ、もうしばらく様子を見ましょう』か? 水戸黄門じゃあるまいし、そうやってずるずる引き延ばして、事態を悪化させてどうするってんだよ。話にならん!」  深春はバン、と音たててテーブルを叩いた。湯呑み茶碗がテーブルの上で踊って黄色いしずくをまき散らしたが、京介はすばやく製作中の模型を持ち上げている。 「──乱暴だね」  ふっとため息をついて、 「君みたいに大声上げて騒ぎ立てて掻き回して、事態を悪化させない保証はどこにある。物事には自然の流れというものがある。その流れに無理やり竿《さお》さしても船は進まないよ」 「なに爺むせえこといってやがる。だいたい醒ヶ井が死ぬことになった責任の一端はおまえにあるかもしれないんだぞ、わかってんのか?」 「そうかな」 「おまえがあの親父をたぶらかして、黎明荘を保存する気にさせたんだろうが」 「すると深春は、明音が醒ヶ井を殺したと思うわけだ」 「ほかに犯人になるようなやつがいるかよ」 「犯行方法が不明だね」  深春は一瞬詰まったが、すぐ強気に戻る。 「不可能犯罪というほどのもんでもないだろう」 「ああ。トリックなら考えられないことはない」 「それじゃ、やっぱり死体移動なんだな?」 「死体移動? ──懐かしの黄金時代ミステリだね」  聞き返した京介の口元に苦笑いが浮かぶ。 「でも醒ヶ井は、パティオの水盤で頭を割っていたということなんだろ? つまり血痕とか毛髪とか、そういうものがちゃんと残っていたわけだ。同じような傷のつく別の鈍器で打ち殺しておいて、水盤の縁にその血を塗り付ける? 現代の警察の鑑識が、それくらい見抜けないものかな」 「わかったよ。確かめてやる、あの記者野郎に!」  一声わめいた深春は、どかどかと足音も荒く電話のところに歩いていく。両手に捧げ持っていた模型をそっとテーブルに戻した京介は、 「──蒼」  声をひそめて耳元にささやいた。 「明日は深春を大学に来させるな」 「なんで?」 「遊馬理緒が研究室に来る。あの単細胞と会わせたくない。だが、おまえは来いよ」 「ぼく……」  蒼は口ごもった。どんな顔で彼女を見ればいいのかわからない。 「おまえが返してきた本のことで話があるそうだ。それと、ちょっとおかしなことがあったらしい」 「──雨沢さんを。ええ、連絡が取りたいんです。今日お目にかかった栗山という者ですが。えッ? ええ、急用なんです、急用!」  隣の部屋で深春が受話器に大声を張り上げている。そちらにちらっと視線を投げて、京介はことばを続けた。 「黎明荘に行ったとき、寝室から見えなくなったといっていた、彼女の去年の誕生祝いのこと。覚えてるか?」 「ああ。白磁の馬っていってたっけ──」 「あれが差出人のわからない小包で送られてきたそうだ。それも、ばらばらに割られて」 「ばらばらに……」 「高いところから落として割ったみたいな、っていってたな」  蒼の体は我知らずぴくっと震えた。京介のことばを聞いた瞬間、空想と呼ぶにはあまりに鮮明な、まぼろしの像が心に浮かんだのだ。  目の前を真っ白な馬が擦《す》り抜けて、それから無残な破壊音が響く。地にちらばった白い破片。それを見下ろして立っている顔。暗い目、口元に浮かぶ引き攣れたような笑い。まるで人を殺した直後のような表情。それがだれかはわからないのに、どうして表情だけが悪夢のようになまなましく感じられるのか。 「それ、どういう意味なの」  何者かに持ち出された大切な誕生祝いの品が、壊されてわざわざ送りつけられる。普通に考えたらそれは明らかに、理緒に対する攻撃的な意思の現われだ。非難、憎悪、嫉妬、脅迫……だが、理緒のいうことはほんとうなのだろうか。それもまた自分たちにそう思わせるための狂言だと、疑わずにはおれないではないか。 (いやだ、こんなの。とても我慢できない!)  声を出さないままかぶりを振った蒼の肩を、そっと京介の右手が押さえた。 「目を開けているんだよ、蒼。おまえの目はいつも正しいんだ。その見たものを理解できなくとも、おまえの目はいつだって真相をちゃんと見ているんだから」    3  翌日、五月二十四日火曜日の朝八時、栗山深春のアパートの電話が鳴った。静岡県警の捜査官が、醒ヶ井氏の一件で少々お話を伺いたいという。桜井京介にとってはもちろんのこと、前夜よく眠れなかった蒼にしても眠くてたまらない時刻だ。しかし相手はこちらの都合を考慮するつもりはほとんどないらしい。有無をいわせぬ強引さでこれから伺いますといいわたすと、五分とたたない内に二人連れの男が現われた。  当然ながら聞かれたのは事件のあった土曜日の、遊馬明音との会見のことだ。つまりアリバイの確認だが相手の刑事は、なぜ京介たちが株式会社アカネのオフィスを訪ねたのか、なんの話をしていたのか、ということについてもしつこく聞いてきた。 「遊馬さんが所有されている古い別荘の件で、相談を受けていたんです」 「相談ねえ。桜井さんはまだ学生でしょう。アルバイトってわけですか?」 「目的はむしろ研究の資料集めです」 「ほおお。で、どういう話をされました」 「僕は建築史研究者として保存を希望しますから、その線で話をしていました」  寝起きの京介は当然機嫌が悪い。聞かれた必要最低限のこと以外は、ひとことでもしゃべるものかという顔だ。蒼もお茶一杯出す気になれないでいる。第一こういう手合いは絶対に、人がていねいにいれたコーヒーの味もみないで、砂糖とクリームを山ほどほうりこむに決まっているのだ。 「保存を希望、と。つまりそれは醒ヶ井氏が死んでいた、あの熱川の家のことですな」  二人組の刑事のうち、質問するのはもっぱら年配の方だ。もうひとりの若い方はきょろきょろといかにももの珍しそうに、部屋の中を眺め回している。作りかけの模型を押入にしまったのは、正解というべきだろう。 「で、どうなんです。あの家は相当な値打ちものなんですか?」 「学問的な価値でしたら、無論充分にありますよ。ただし骨董とか美術品とかの値打ち、換金可能な市場的価値、という意味でなら、ないといっていいでしょうね」  あっさりと京介は答えたが、相手は納得できないような表情だ。彼らの望んでいたような回答ではなかったらしい。 「遊馬明音社長は、保存と解体とどちらを考えていたんでしょうなあ」 「まだ決まっていないから、僕らの話を聞かれたのじゃないですかね」 「醒ヶ井氏はどうです?」 「修善寺でお目にかかったときは、興味を持って僕の話を聞いてくれました」 「つまり彼の方は保存に傾いていた、と」 「さあ、どうでしょうか」 「遊馬社長と醒ヶ井氏が、その件で対立していたということは聞いておられますか」 「存じません」 「醒ヶ井氏が商売の上でなにかトラブルを抱えている、というようなことを聞かれた覚えはありませんか」 「ありません」 「醒ヶ井氏の沼津の店とか住居とか、ごらんになったことはおありですか」 「いいえ」  京介の返事は短くなる一方だ。さすがに刑事の方も、その無愛想さが鼻についてきたらしい。憮然とした顔でポケットのたばこを出す。灰皿を探してテーブルの上を見回すのに、 「このアパートは禁煙ですから、ご遠慮願います」  すかさずぴしゃりといわれて、肩をすくめてたばこをしまった。 「我々は歓迎されておらんようですな」  刑事の来訪なんてものを喜ぶ人間がいるとは思えない。ましてこんな朝っぱらからでは。 「まあ、なにか参考になりそうなことを思い出されたら、こちらにご連絡下さい」  名刺を差し出したが、京介はろくに目もやらずそのままテーブルに置いてしまう。 「そちらの、栗山さんでしたか、あなたも」  つけたしのようにいって、とうとうひとこともしゃべらなかった若い刑事に、 「おい、行くぞ」  顎をしゃくった。玄関ですりへった靴を履き、そのまま出ていくのかと思ったら、刑事コロンボでも気取ったつもりかドアの前でくるっと振り向いた。 「そうそう。大学の事務所であなたの連絡先を聞いたときにそこの女の子が教えてくれたんだが、桜井さん、あなたはなかなかの名探偵だそうですな。以前に殺人事件の犯人を自首させたことがおありだとか。この事件の読みはいかがです?」  無論京介は椅子に座ったまま、にこりともしないで答える。 「ご冗談を」  それきりだ。かっこうのつかない中年刑事は、 「まあ先生、そうお高くとまられずにご協力願いますよ」  嫌味のつけたしをいってようやく出ていく。ドアが閉まった、と思ったらその後をすばやく深春が追った。蒼は窓から顔を覗かせる。アパートの前で追い付いた深春が、刑事となにやらしゃべっている。そのままついていくわけではなく、すぐ戻ってきた。 「ちぇっ、お高くとまってるのはどっちだよ。人からさんざ聞くだけ聞いて、遊馬家の他のやつのアリバイはどうなってるんだっていったら、そういうことは親しいあなたの方で聞いてみられたらどうです、だと」  深春は口をとがらせてぶつぶついっているが、当然じゃないかと蒼は思う。テレビの安直なミステリ・ドラマでもあるまいに、刑事が捜査中の事件のデータを民間人にもらすわけもないのだ。 「こうなりゃやっぱり雨沢にたよるしかないよな。えっと、電話電話」  昨夜はとうとう掴まらなかった記者に、ようやく連絡がついたと見える。しばらくしゃべっていた深春はもう一本電話をかけて、今度は蔵内と話しているらしい。昨日はどうもいろいろと、とかいっていたら突然なにに驚いたのか、 「ええッ、そりゃほんとですか? ええ、行きますよ、もちろん。じゃ、また後で!」  部屋中に響くような大声でいって受話器を置くと、 「さあ大変だ。どうするか、電車はやっぱりたるいな。車にするか。ランクルが空いてりゃいいんだが──」  またすぐ別のナンバーをプッシュし出す。 「熱川行くの?」 「おお。レンチャンで熱海経由熱川だ。ちょいと凄いぞ、これは」  ひとりで興奮しきっている。京介はそんなものは目に入らないという顔で、深春の背中に声をかけた。 「その新聞記者に会うなら、ひとつ聞いておいてもらえないかな。遊馬灘男の自殺未遂のとき、そのいた部屋になにか溶剤か洗剤と、スポンジのようなものがなかったかって」 「なんだ、そりゃあ。やっこさんが部屋の掃除でもしてたっていうのか?」  めんくらったように聞き返したが答えはない。代わりに間の抜けたあくびが京介の口を出る。 「いまから寝たら起きられそうもないな。蒼、コーヒー頼む」 「うん。朝だからカフェ・オ・レにするね」 「なんだよ、蒼。おまえも行かないのか? もしかすると凄い損かもしれないぞ。後悔したって知らないからな」 「ふうん。なんなの、蔵内さんがいったのって?」 「教えてやらん。だが今夜はどえらい土産つきかもしれないからな、そのときになって驚くなよ」  やたらと興奮して、やたらともったいぶっている。いつもの蒼ならとても我慢できなかったろうが、今朝は昨日のショックが尾を引いているせいもあって、猫じゃらしみたいな深春のせりふにも飛びつく気にはなれない。 「じゃあな。夜はまたこっちにいるんだろ? 夕飯作っといてくれよな」  カメラやらなにやら詰めこんだバッグを肩に飛び出していこうとする深春に、京介がさりげなくことばをかける。 「深春、黎明号の墓は別荘の庭かい?」  ぎょっとしたように振り返った彼は、 「さ、さあな」  口笛にごまかしてそのまま出ていってしまう。 「黎明号の墓って、なんのこと?」  尋ねた蒼に京介は、 「それがあいつのトロイアってわけさ」  うっすらと人の悪い笑い顔をしてみせた。 「夢見ることは誰にでもできる。だが誰もがシュリーマンのような成功を収められるとは限らない」 「それには運がいるってわけ」 「せめて能力と運、といってもらいたいな。ただあいつもこの歳になってオッチョコチョイが直らないようじゃ、運の方もおぼつかないか」    4  その午後京介の研究室に、遊馬理緒は約束の時間を違えることなく現われた。修善寺で別れてから十日足らずしかたっていないというのに、彼女はひどく面変わりしたように感じられる。蒼の見る目が変わったためだけとはいえない。暗い色合いの飾り気のない喪服のようなワンピースを着て、ポニー・テイルにしていた髪をそのまま垂らしているせいもいくらかはあるだろうか。  良くいえば大人びて、だがほんとうのところをいえば理緒は、重荷を負って憔悴《しょうすい》し尽くしたようにも見えた。神代教授の机に向かった京介を見て、一瞬足を止め、それから深々と頭を垂れたそのしぐさも、初めてここへ来たときの緊張感とは違った、疲労の重さのようなものが感じられる。  理緒はそのまま黙って、足元に置いた紙バッグからボール紙の箱を取り出した。B5の雑誌がそのまま入るくらいの大きさの箱には郵便小包の伝票が貼ってあって、宛て先には遊馬家の松濤の住所と理緒の名、差出人は本人となっている。ただその文字は筆跡を隠すために、定規を当てて書いたもののようだ。 「見て、いいですか」  理緒はまた黙ってうなずいた。中に入っていたのは新しいハンドバッグの詰め物に使うような白い紙のかたまりだ。京介はごく慎重な手つきでそれを塊ごと机の上に出す。紙を破らないように下になっていた合せ目を開くと、さらに何枚ものティッシュにくるまれて、白い磁器の破片が現われた。  京介はできる限り、紙にもかけらにも触れないように気をつけているらしい。紙とティッシュの端をつまんでそっと四方に開く。破片の大きさは大小さまざまで、ざっと見たところ二十以上はある。しかしそれが皿や茶碗のかけらではないことは、少し注意して見ればすぐにわかった。ちょうど破片の山の中央あたりに長さ五センチほどの、つけねから折れてしまった馬の顔が見えたのだ。竹篦《たけべら》ででも刻んだのか、額にながれてるたてがみから精悍な鼻筋、大きく開いた口まで、緻密で写実的な陶像であったことはそれだけでも窺い知ることができた。 「遊馬歴氏からの贈り物であることは、間違いないんですね」  理緒は深くうなずいて、ややしてからようやくのように声を出す。 「台座の裏に、年号と日付と私の名前が、祖父の手で書かれています。墨で。いつも必ずそうしてくれていました。初め包みを開けたとき、その部分が一番上にありましたから」 「取り出して見ましたか?」 「いいえ──」  それがひどくいまわしい問いででもあるかのように、理緒は髪の乱れるほどかぶりを振った。 「そのまま急いで紙にくるみなおして、箱に押しこんでしまいました。なんだかとても恐ろしくて、怖くて、たまらなくなってしまって……」 「わかりますよ」  京介は、日頃の彼にも似ない親身な口調でうなずいた。 「これは僕のところでお預りして、いいのでしょうね」 「ええ。そうお願いできたら」  髪を両手で押さえながら、理緒はようやくほっとしたように少し笑う。 「僕がこのかけらを繋ぎ合わせても、かまいませんかしら」 「ええ、それは。でも──」 「ざっとでいいですからその馬の、元の形を描いておいて下さい」  戸惑い顔の理緒の前にメモ用紙と鉛筆を置くと、 「蒼、おまえの仕事だよ」  本棚を背にして黙ったまま立っていた蒼は、思わずえっと聞き返す。 「ぼくが、やるの?」 「ジグソウ・パズルよりはずっと手ごたえがあるだろう、がんばってくれ。ああ、遊馬さん。だいたいのところでいいんですよ」  京介がなにを考えてそんなことをいい出したのか、毎度のことながら蒼にはさっぱりわからない。ふたたび慎重な手つきで紙ごとかけらを箱に戻した彼は、今度は蓋の伝票に目を止めた。消印を見ているのだ。 「局が、松濤ですね」  つまり遊馬家からは一番近い郵便局だ。とっくに気づいていたらしい。手を止めて、固い表情で理緒はうなずく。 「配達されたのはいつですか」 「金曜には来ていたらしいんですけど、いない間に部屋に置かれていたので気がつかなくて、だから開けたのは昨日の午後なんです」  中身を見てすぐに電話したのだという。 「しばらく大学にも来ておられなかったようだから、心配していたんですよ。もしかしたら病気でもされているのじゃないかって」 「ああ、そうだわ。ごめんなさいね、蒼くん。水曜日はわざわざ家まで来てくれたのですって?」  急に振り向かれて、蒼は思わず目を伏せながらうなずいた。理緒の顔をこれまでのように、正面から見つめる勇気がどうしても持てないのだ。 「あのときはほんとうに寝ていたの。風邪なんかじゃなくて、ただ鬱病にかかったみたいに何もする気になれなくて。それが過ぎたら今度は家にいるのが嫌でたまらなくて、学校にも行かないでひとりで毎日そこら中出歩いていたわ。公園だの美術館だの映画だの」 「すると、この前の土曜日も」 「ええ。桜井さんが母と会っていたなんて、まるで知りませんでした。夜になって戻ったら、どこを遊び歩いてたって怒られてしまって」 「そこで醒ヶ井氏のことを聞いたわけですね」 「──そうです」  蒼の心臓がどきんと音をたてる。では理緒には、あの日のアリバイはないのだ。しかし京介はそれ以上醒ヶ井のことには触れず、話題を転ずる。 「蒼が持ってきてしまった本が、なんですって?」  理緒は紙袋から薄い書類封筒を取り出し、見覚えのある本をその中から引き出して机の上に置いた。画集といってもソフト・カバーの、わりに薄い本だ。黒一色の表紙の中央に『THE WORKS OF GOYA』の文字が白抜きで印刷されている。日本ではなく外国で出版されたものらしい。 「これが、修善寺の父の部屋にあったんですね」  理緒は両手の指で、そっとなでるようにその表紙に触れた。 「あの部屋の床の間に画集のたぐいが並んでいましたね。その中の一冊だったな、蒼?」 「うん──」 「あわてていてついうっかり持ったまま来てしまった、というんですよ。ああいうお別れの仕方をしてしまったもので、僕らからお返しするのもどうかと思いましてね。やはり理緒さんからお渡しいただくしかないと思ったんですが」  京介のことばを彼女は、いきなりきつい口調でさえぎった。 「これは、父のものではありません」  もたげた頬に血の色が昇っている。見開かれた目が強い光を放っている。 「祖父の本です。父が黎明荘から持ち出してきたんです」 「見覚えがおありなんですか?」 「覚えもありますけれど、ここに蔵書印が」  理緒は裏表紙を開いて示した。黄ばんだ見返し紙の中央に、古びた朱の色で捺された正方形の印がある。雷文で囲んだ篆書《てんしょ》風の字体。『靂蔵書』の文字がはっきりと見て取れた。 「お願いがあるんです、桜井さん。今度黎明荘に行くことがあったら、この本を祖父の部屋の本棚に戻してくださいませんか」  そういった理緒の顔には、またあのきつい、思い詰めたような表情が浮かんでいる。 「しかし、父上が気づかれるかもしれませんよ」 「いいんです。なんで父があそこから祖父のものを持ち出すようなことをしたのか、私にはよくわかりませんけれど、父があれほど祖父を憎んでいるなら、その遺品に手をつける権利なんてないと思うんです。結局黎明荘は解体されてしまうのかもしれません。でも私、せめてある内は祖父が逝《い》ったときの姿を、できる限り変えないで残しておきたいと思います。──どうか、お願いします」   漂う凶影《かげ》    1  その後理緒はほとんど、口を開こうとはしなかった。始業のチャイムが鳴ったのを潮のように腰を上げると、自分ひとりの思いに沈みこんだ表情のまま、お願いします、ともう一度つぶやいて研究室を出ていった。 (コーヒーもいれてあげなかったな……)  ドアの閉まる音を聞きながら、蒼はふとそんなことを思う。彼女は変に感じただろうか、自分がこんなにも無愛想に黙りこくっていたことを? だが蒼にはどうしてもできなかったのだ、自分が一番気になってならないそれを避けて通って、なにごともないようにことばをかわすなど。  それにさっきの理緒のことばは、そのまま蔵内の話の裏書になっているではないか。 『……残されていた本やら帳面やら……すっかりかき回して持ち出してしまうようなことまでなさる。……もし理緒お嬢様がそんなところを見られたならば、お怒りになって……』 『……父があれほど祖父を憎んでいるなら、その遺品に手をつける権利なんてないと思うんです……』  理緒は戦っているのだと深春はいった。確かにそうなのかもしれない。祖父亡き後の黎明荘を守るために。その彼女にとっては建物の解体を意図する母明音も、祖父の遺品を持ち出す父灘男も、そして黎明荘を商売の種にしようとする醒ヶ井も敵なのだ、もちろんのこと。  だとしたら祖父の死がただの事故であってならないのは、だれよりも理緒にとってなのかもしれない。母を直接攻撃することはできなくとも、彼女が祖父殺害の犯人として告発されれば、理緒は黎明荘に対する母の発言権を失わせることができる。京介たちをあえて引き入れた目的はそこにあったのだとしたら。少なくとも動機の面においては、事件は矛盾なく繋がってくることになる──  目の隅でぱらり、となにかが動いた。京介が、理緒の置いていった本を開いたのだ。 「蒼はこの本、全部見たのかい?」  こちらの気持ちも知らぬげな、のんきな口調で彼は尋ねる。 「あ──うん、ざっとね」  ほんとうをいえばろくに見てもいない。  最初手にして開いたページにあったのが黒白の銅版画で、印刷が悪いせいかほとんど真っ黒につぶれている。よく見ると半分地面に埋められた骸骨のような人間の絵で、気持ち悪くて急いで閉じてしまった。いま京介が見ているのも、同じページらしい。 「『戦争の惨禍』六十九番、──虚無だ! か」  つぶやいてページをめくる。図版はモノクロがほとんどで、カラーは巻頭に二、三枚あるだけだ。それも現代の精巧な印刷に慣れた目には、色も濁って不鮮明に見える。 「見てごらん、これが有名な『アルバ女公爵の肖像』だ」  京介が開いていたのは巻頭にあった女性像で、黒服のカルメンみたいなかっこうをした女の立ち姿が描かれている。色の悪いグラビアとはいえ、真っ赤なサッシュと金の腕飾りが印象的な絵だ。 「この人はスペイン一の大金持ちで名家で、しかも現在まで続いているアルバ公爵家の女当主でね、宮廷画家だったフランシスコ・ゴヤ五十一歳の恋人だった。髪の毛のひとすじひとすじが欲情をそそると当時歌われた女性さ」 「そんな美人だとも見えないけどな」  それは蒼の正直な感想だ。やけに面長で、眉は目尻に届くほど長くて、第一ずいぶんなおばさんじゃないか。 「歳はいくつなの?」 「三十四歳か五歳、だったかな。まあ、美人の基準ほど世に連れて変わるものもないらしいからね」  京介は軽く笑って、 「ただこの絵にはいろいろおもしろい話があるのさ。残念ながら図版の方は印刷が悪くて見えないかもしれないけど、アルバ女公は右手の人さし指で地面を指しているだろう。そこにゴヤの名前がある。それも画家のサインじゃなくて、彼女がみずからの指で地面に書いてみせたみたいに、逆さに、遠近法的に描かれているんだ。ほら」  京介はわざわざ引き出しからルーペまで出している。目を寄せてレンズを覗いてみると確かに彼女のつんととがった右の靴先に、筆記体で書いた『Goya』の字が見えた。 「ところがね、この本は戦前の出版らしいから写っているわけもないんだが、現在この絵を所有しているニューヨークのザ・ヒスパニック・ソサイエティ・オブ・アメリカが、一九六四年になって画面を洗浄したところ、『Goya』の前に『Solo』という文字が見えてきたというんだ。Soloとは英語でいえばOnly、つまり『Solo Goya』は『ゴヤだけ』『ゴヤひとり』という愛のことばだったわけだ」 「それ、もしかしたら実際にあったことだったのかなあ」  思わず京介の話に釣りこまれて、蒼はいった。 「この人がほんとに、そんな字を書いてみせたことがさ」 「そうだな。ゴヤは当時すでに病気で聴覚を失っていた。女公爵との恋といったって、ことばを自由にかわすことはできない。表情、身振り、筆談──そんなもどかしさに耐えられなくなった女性が、心高ぶるままに書きつけた愛のことばを、男に向かってこれを見よとばかりに指し示す。そんな情景がほんとうにあったのかもしれない」 「どっちにしてもずいぶん大胆なおっさんだったんだねえ、ゴヤって」  絵の製作年は一七九七年。いまから二百年も前に、五十過ぎてそんなえらい身分の女性と恋愛して、しかも相手の愛の告白を絵に描いて残すというのが凄いと思う。その時代いくら宮廷画家といったって、大貴族から見ればお雇いの芸人と変わらない身分でしかなかったはずなのだから。 「確かにゴヤは大胆な人間だったよ、それも生涯にわたって。ただこの絵は結局アルバ公爵家に渡されることはなかった。彼はそれを我が家に持ち続けた。それも『Solo Goya』の『Solo』の文字を薄く塗り潰してね。いつその塗り潰しをやったのかはわかりようもないけれど、堀田善衛が書いたように描き上げた直後、つまり彼らの恋の終わった直後だったのだろうという説が僕は好きだね」 「失恋したの」 「たぶんね。愛の極みは同時に終わりの始まりということさ。興味があるなら堀田善衛の『ゴヤ』を読みなさい、名著だから」  京介のせりふは結局いつもこれになってしまう。 「それはさておき蒼、これを見てなにか思い出すことはないかい?」 「思い出すって、前にどこかでこの絵を見てないかって意味? それとも、こんな女の人をって?」  京介は答えない。蒼は眉間にしわを寄せてゴヤ作『アルバ女公爵の肖像』を見つめた。思い出すっていわれても、わからないなあ、全然──  そのときドアがノックされた。コンコンッとリズミカルにふたつ。  理緒が戻ってきたのだろうか。だがこちらから開けるのも待たず、ぱっとドアを開いて中にすべりこんできたのは、 「ハアイ、お元気?」  遊馬朱鷺だった。    2 「もう、蒼ったらこないだは冷たいわねえ。せっかく港の見えるテラスでいっしょにブランチ食べようって思ってたのに、こっちが寝てる間にひとりでさっさと帰っちゃうなんてさ。だめよ、これからは女の子にあんな仕打ちしちゃあ」  今日の彼女は襟ぐりのゆったりした銀ラメのサマーセーターに黒革のミニスカート、膝までのロングブーツといういでたちだ。特に派手すぎる服装というわけでもないが、プロポーションに恵まれた彼女が着ると、はっと人目を惹くくらいの効果はある。デザイナーが持つような大きなショルダー・バッグを無雑作にデスクに置くと、腰に両手を当ててぐるっと回りを見回す。 「いい部屋じゃない、さすが天下のW大ねえ。ちょっと殺風景だけど、そこもまあ、らしいっちゃらしいわ」 「──あの、朱鷺さん」 「朱鷺、よ。さんはなし」  くるっと振り返った朱鷺は人指し指を蒼の鼻先につきつける。ハイヒールも履いていないのに、蒼より五センチは上背がある。 「この前そういうことに決めたんでしょ。あなたは蒼であたしは朱鷺。さもないと本名で呼んじゃうからね。第一『トキさん』じゃ、どこの婆さんかと思うじゃない」 「あの、朱鷺、今日はどうしてここに?」 「あらあ、決まってるじゃない。桜井京介氏のポスター出演に関する打ち合せよ。絵コンテ描いてきたんだから、ほらッ」  朱鷺はにっこり笑って、ショルダー・バッグから大判のスケッチブックを取り出す。 「ね、見て。蒼。これがこないだいったサロメ風よ。悪くないでしょ」  ぱっと開いたページに描かれていたのは蒼の記憶にもあるギュスターブ・モローの『サロメ』、右手に蓮《はす》の莟《つぼみ》を持ち、左手を前に伸ばして足は爪先立ち、伏し目がちに、ゆるゆると舞いはじめようとするポーズの立ち姿だ。柔らかめの鉛筆でデッサンした上に、透明水彩で軽く色づけしてある。朱鷺が描いたのだとしたら、素人離れした腕前だとはいえる。頭には重たいほどの冠、腕にも手首にも足首にも宝石を巻きつけ、薄物をまとった腰は幅広の帯で締め、だがその横顔はどうみても……  蒼は反射的に京介の方を見ようとして、あわてて止めた。殺気。しかし朱鷺はかまいつけもしない。さっさと次のページをめくる。 「こっちはもう少しエスニックぽさを出して、バリの踊り子風ね。それでこっちはインドの舞姫ってわけ。ジュエリー・アカネの従来の路線とはかなり違うんだけど、ミスマッチもけっこうおもしろいと思うのよ。いかが?」  いかがといわれても、なんと答えればよいのかわからない。こちらもそれぞれ舞踏のポーズを取って、バックにはそれらしい建築の上に淡く月まで昇っているという凝りようだ。バリの踊り子は顔の両側に大きな白い花を飾って細い腰を更紗《さらさ》布で包み、首と腕に太い金のアクセサリをつけている。インドの舞姫は真珠で装って金襴《きんらん》のサリーを巻いていたが、大きくのけぞるポーズのせいかそれが解けかかって、平たい胸が覗いていた。 「普通サリーってさ、下に短い半袖のブラウスみたいの着るんじゃなかったっけ」 「あら。それをいえばそもそも男が、サリーなんて着やしないわよ」  思わず蒼は前にのめる。 「だからね、覗いたボディにインド紋様のペインティングをして、乳首はピアシングじゃあんまりショッキング過ぎるだろうから、回りに細かいジュエリーを張り付けたらどうかって思うんだけど」 (京介の、乳首──)  せめてこういう話をするなら、本人がいないところでしてくれと蒼は切実に思った。口は開かなくとも彼の視線は感じられる。うっかり相槌を打ちでもしたら、後でどんな目にあわされるか知れたものではない。 「それにさ、桜井さんっていつもそうやって髪で顔隠してるんでしょ? だったらこれだけばっちりメイクしちゃったら、大学の人も誰もわかりやしないじゃない。それなら恥かしいってこともないわけだし、どうせやるなら思いきっていくべきよね」  それくらいはまあ、蒼にしても考えないではなかったが。 「後ね、ギリシャ神話シリーズもあるのよ。こっちはちょっと趣味的だけど、ご参考までにね」  蒼の困惑も京介の不吉な沈黙も平然と無視して、朱鷺は次のページを開く。 「こっちはアポロとダフネ、グリーンのイメージだから石をあしらうならエメラルドね。こっちは同じくアポロとヒュアキントス」 「これ、みんな朱鷺が描いたの?」  やっと蒼は口をはさんだ。 「もちろんよ。これでも一時はイラストレーター目指してたんだから。ねえ、知ってる? ヒュアキントスってアポロに愛された美少年なのよ。だけどアポロの投げた円盤がそれて額に当たって死んじゃうの。その流した血から紫のヒヤシンスが咲いたって神話。だからこっちはアメジストなの」  かなり少女まんがっぽい絵だったが、へたというわけではない。だが、アポロの顔がどっちの絵も京介で、後ろからアポロに抱きかかえられて、のけぞりながら月桂樹に変わろうとしているダフネが朱鷺の顔なのは勝手にしろだったが、もう一枚の方のほとんど裸みたいなかっこうでアポロに抱かれているのが、 「どーしてぼくの顔なんだよお!」 「いいでしょ」 「よくないッ」 「──遊馬朱鷺」  そら来た。とびっきり冷やかな桜井京介の声だ。 「君はそんな馬鹿話をするために、妹が帰るのを給湯室に隠れて待っていたわけか?」 「呼び捨てにしたわね」  たじろぐ色もなく彼女は京介を見返す。 「人を断りもなく呼び捨てにしていいなんてだれがいったのよ、桜井京介」 「他人の人格をおもちゃにして遊ぶような女に、つけるべき敬称はないな」 「あら、あたしあなたの人格なんておもちゃにした覚えはないわ。あたしがおもちゃにしたのはあなたの顔だけよ。違う?」 (──つ、強いッ!)  蒼は口の中でつぶやいている。後の心配さえなかったら、いっそ拍手のひとつもしたいくらいだ。京介がどんな感想を持ったかは、残念ながら例の髪型のおかげで皆目わからない。ついで朱鷺は座っていた椅子から、すっくと立ち上がった。京介のいる窓際につかつかと歩み寄り、窓から外へ目を走らせると、 「なーんだ、やっぱりここから給湯室の窓が見えるのね。あたしの背中でも見たんでしょ。へたに感心したりしなくて良かったわ」  挑むような視線を京介に向ける。次にはなにをいい出すのか、つい身構えて蒼は待ち受けたが、意外にも朱鷺はふっと息を吐いて表情を改めると、 「まあいいわ。ほんといっていまの我が家、CMの企画どころじゃないから」  スケッチブックを閉じて低い声でいう。 「ええ、おっしゃる通りよ。別に理緒の後つけてここまで来たわけじゃないけど、顔見たら隠れずにはおれなかったわ。だって、わかるでしょう? とっても声かけられる感じじゃなかったわよ」  一度ことばを切って短く息を吸うと、 「あの子はもともとすごく勘のいい子でね、小さいときあたしなんかがいたずらしてやろうって後ろから忍び寄ったりしても、絶対気がついちゃうの。視線には敏感だし、体は軽いしね。それが今日なんかどう? あたしが、気がつかれればそれでもいいやと思って、廊下の隅に立って、あの子がこの部屋出て階段下りるまでずっと見てたのに、まるきりなにも感じてなかったわ。ぼおーっと暗い目して前を見つめて、でもなにも見えてないのね。まるで半分死んでるみたい。さもなきゃたったいま人でも殺してきたみたい」  蒼は息を呑んでいた。だが朱鷺は、自分こそなにも気がつかないように、ひとりでしゃべり続けている。 「理緒だけじゃないのよ。このところの我が家といったら、明音さんも、蘇枋|姉《ねえ》も、ぐずの珊瑚までが変。パパはご存じの通りだけど、なんだかなおさら真っ暗だし。いつの間にやら家中挙動不審の塊だわ。いったい不動産屋のおっさんが踏み台外して、頭バンして死んだからって、なんで家中がそう変にならなきゃいけないの?  でもだれに聞いたってまともな返事は返ってこないし、そのくせろくに家にいるでもなくてうろうろ出歩いてさ、みんな腹に一物。まるで家の中にもやもやしたどす黒い影か霧か、そんなものがたちこめてるみたいな感じよ。いったいどうなっちゃったのかしら」 「つまり変わらないのは君だけってわけだ」  京介の僅かに笑いをふくんだ声に、朱鷺はきっとして顔を振り向ける。ファウンデーションの下で、頬が赤らんでいる。 「ええ、そうよ。あたしはごらんの通り、裏もなけりゃあ表もないわ。頭に浮かんだことはそのまま口から出してしまうし、腹に一物なんて持ちたくとも持てないわよ。でも他の家族だって、あったかいスウィートホームだったとはいわないけど、少なくともこんなじゃなかった。少しずつおかしくなってきたのは去年、祖父さんが死んでからよ。──ちょっとあんた、笑ってないでなんとかしてくれたらどう? 名探偵なんでしょう?」  出所がどこなのか知らないがどうもこのところ、桜井京介に関しては『名探偵』の呼称がひとり歩きしているきらいがある。それにしてもかなり理不尽な朱鷺のせりふを、刑事に対してと同じように、ご冗談をの一言で蹴り捨てるかと思ったら違った。逆に彼は子供に向かったような噛んで含める口調で、ゆっくりと答える。 「僕が本物の名探偵だとしても、どうなっているのかわかることと、どうしたらいいかわかることは全然違うんですよ」 「じゃ、どうなっているかはわかるっていうつもり?」 「ある程度はね」 「教えてよ!」  朱鷺は声を張り上げた。 「教えてよ、いったいうちで起こってるのはなんなの?」  京介は黙って首を左右に振る。 「どうして!?」  朱鷺はとうとう叫んだ。 「どうしてよ。あたしのうちのことなのよ!」 「でもあなたが欲しいのは、剥《む》き出しの事実なんかじゃない。違いますか?」 「そんなの──」 「僕だっていいたくなんかないんです、あなたが聞きたくないだろう以上に。たとえば、遊馬明音と醒ヶ井玻瑠男は男女の関係にあったはずだ、そしてご家族の誰もがうすうすくらいはそのことに気づいている、だからこそ彼の不審死を無関係だと考えることはできないのだ、とかそんなことは」  朱鷺の頬がさらに赤くなった。母譲りのくっきりした眉が吊り上がり、目はこぼれそうなほど大きく見開かれた。否定するように顔が左右に振れる。唇が震える。 「でもそれ、ほんとなの? あの新聞記者が、勝手にかんぐってるだけなんじゃないの?」  蒼は思わず口をはさんだが、京介は首を振った。 「残念なことにね、蒼。下種《げす》のかんぐりってやつがしばしば、当たってしまうのがこの世ってわけさ」 「なに、さ──」  朱鷺の喰い縛った前歯の間から、押し出すように声がもれた。 「知ってるわよ。わかってるわよ。それくらい、あたしだって──」  それから朱鷺は突然顔を両手で覆い、しゃがみこんで泣き出した。小さな子供のように。    3  朱鷺が泣き止むまで十六分かかった。  蒼は洗面所で濡らして絞ってきたタオルを渡してやる。あれだけ泣いたら当然メイクは剥《は》げ落ちて、まぶたは腫《は》れ上がっているだろう。当人はまだそこまで気が回らないのか、タオルを目のところに当てたまま小さくしゃくりを上げている。それにしてもなぜ女というのは、二十過ぎてもこう平気で人前で泣くことができるのか。男は十五歳でも、絶対にこんなふうに泣いたりはしないしできないのに、と蒼は思う。うらやましいとまではいわないが、なんとなく不思議な気分だ。 「荒療治、でもいいんですか」  いきなり京介がいった。びくん、と朱鷺の背中が動く。 「僕は素人で抗生物質なんて持っていないし、麻酔もない。焼いたナイフで傷口をかっさばく、戦場の床屋医者みたいな真似しかできそうにないんです。確かに膿《うみ》は出るでしょうが、それがいい結果に繋がる保証はない。もしかしたらほおっておくよりも、さらにひどいことになってしまうかもしれない──」 「でも、良くなるかもしれないんでしょう?」  濡れたタオルの下から、鼻のつまった声が尋ねる。 「そうありたいと望みますよ。誰よりも、心からね。ただ……」  タオルが少し下がって、赤く泣き腫らした目を覗かせた。桜井京介の例によって前髪に隠れた顔を、じっと見上げた。それからいきなりぐいと頭をもたげる。メイクのまだらに剥げた顔はかなり無残、というか滑稽だったが、朱鷺の表情は決然としていた。 「いいわよ、そんなに一生懸命、責任回避しなくっても。いい出したのはあたしだもの、どんなことになってもあなたを責めたり、迷惑かけたりするつもりはないわ。で、どうするっていうの? いってちょうだい。あたしにできることなら、なんでもするから」  常日頃の桜井京介という男は、決して他人に親切でもなければ思いやり深くもない。人間嫌いというわけではなく、対等の、そしてクールで割り切りのきく関係ならば拒むものではないが、一方的に人から頼られたり人を助けたりすることは苦手だと、自分ではっきりいっている。  といって、面と向かって頼みますといわれてしまったものを、御免蒙るとばかりに追い出すことができるほど冷徹なわけでもない、とこれは蒼の考えだ。だからこそ、そうした状況におちいることは慎重に避けているのだろうが。  そんな彼にとって遊馬朱鷺は、理緒より遙かに始末におえぬ、いわば鬼門だったに違いない。笑われて挑発されて泣かれて、最後はとうとう自分から力を貸すことに同意させられてしまった。作戦に乗せられたようにといっても、すべてが計算ずくだったとは思われず、いまさらやっぱり嫌だとはいえないのだ。 「できるだけ早い機会に、ご家族全員が数日間顔をそろえるような状況が設定できませんか。それも熱川の黎明荘の近くに」  彼はいう。 「全員が、数日間?」  朱鷺はびっくりしたように、マスカラの剥げたまつげをしばたいた。 「すごく難しいわ、そんなのって──」 「たやすいことだとは、僕も思いませんが」 「でも必要だっていうのね、あなたのいう荒療治のためには」 「遊馬家の傷口は他でもない、あの黎明荘だ。すべての事件はあれを巡って起こっている。あれと、あれを造った遊馬歴氏を巡って。違いますか」 「ええ、そうね。その通りだわ」  朱鷺は小さな子供がうなずくように、こくんこくんと頭を縦に振った。 「あたしたち、歳もいくらも違わない四人姉妹でしょ? なのにどうして理緒ひとりがああして祖父さんに可愛がられるんだろうって、小さいころからずいぶん納得のいかない気がしたものよ。その点で一番割喰ったのは珊瑚かもしれないわ。蘇枋姉は静音伯母に育てられたようなものだし、あたしが小さいときは明音さんの事業の谷間で、母親らしいことも少しはしてもらえたし、でも珊瑚のときはまた忙しくなっちゃってほとんど人まかせ。で、理緒には祖父さんがいたってわけ。  だけど考えてみれば理緒もかわいそう。その分あたしたちにいじめられたり、明音さんもそのせいであの子のこと敬遠するところがあったしね。結局あの祖父さんがいけなかったんだわ。パパも、明音さんも、他の孫も寄せつけないで、理緒と馬だけ可愛がって、なにを考えてるのかわからないまま、勝手に死んだいまもうちの上に影を落としているのよ。どうしてもあたしには、そう思える──」  ふっと語尾を呑みこんで、朱鷺は沈黙する。化粧の剥げてこれまでより子供っぽく見える顔に、ためらうような表情が浮かぶ。 「つまりあなたはうちの誰かが犯人だっていうの? 祖父を殺して、パパを刺して、醒ヶ井さんも殺した、そんな人間が家族の中にいるんだって? ミステリの探偵みたいに現場に関係者を集めて、推理をしゃべって、おまえが犯人だって指さすつもりなの? そうなの?」 「そうかも、しれませんよ」  思いの読み取れぬ口調で、京介は答える。 「ですがそれをいまここであなたに、説明するつもりはありません」 「そうよね。あたしだってやっぱり関係者、っていうより容疑者の内ですものね」 「どうします。止めますか、そんなことは」  朱鷺は腫れの残る目でじっと京介を見つめた。それから首を左右に振った。 「だめよ、いまさらあきらめさせようなんて思っても。止めないわ。あたし決めたんだもの、あなたを信じるって」    4  どうすれば家族の顔をそろえられるか、少し考えてから連絡するわねといいながら朱鷺は腰を上げた。立ち直りの速い性格らしい。洗ってさっと化粧を直した顔は、もうけろりとして笑みさえ浮かんでいる。 「今度会うときは、もう少し違ったイメージのイラスト描いてくるわ。桜井さん自身はどんなのが好み? メンズ・ファッションだったら抵抗ないのかしら。それともいっそジャパネスクに、能衣裳でも着てみる?」 「いつまでもそんなこといってると、僕は手を引きますよ。遊馬さん」 「そうかしら。あなたって人に向かってかりにも一度引き受けたことを、そう簡単に放り出す人じゃないわ」  あっさり断言すると朱鷺はほがらかな笑いを残し、否定する間も与えずに出ていってしまう。前髪の外からも京介が、苦り切った顔をしているのは感じられた。見抜かれてらあ、と蒼はおかしくてならない。 「彼女、鋭いね」 「──蒼」  京介の声が冷たい。 「いつの間にかずいぶん、遊馬朱鷺と親しくなったんだな」 「だって、こないだだけだよ」 「連絡も入れずに外泊した件について、まだきちんと説明してもらっていないが」 「えっ、そんなの、深春としゃべってるの脇で聞いてたじゃない」 「本名まで教えたとは聞かなかった」 「あれは、しょーがなかったんだよ」 「で、その後なにがあったんだ、実際のところ」 「な、なにがって」 「これでも僕は一応おまえの後見人なんだからな。知らないところでなにかあったら、頼むといわれた門野のご隠居に申し訳が立たない」 「なにもないってば」  後ろで電話が鳴った。救われた気分で蒼は受話器に飛びつく。 「はいッ、こちら神代研究室。──あ、なんだ、深春?」 『なんだとはなんだよ、バーロー』  だいぶくたびれた声が聞こえてくる。 『京介いるか?』 「うん。代わる?」 『いい、伝えといてくれ。今朝聞かれたこと。確かに遊馬灘男が負傷したとき、あの部屋には小型のバケツとスポンジと中性洗剤があったそうだ。ただ彼が自殺しようとする前に部屋の掃除をしたかどうか、そこまでは聞いてないようだ。それだけだ』  深春の地声はもともと大きいから、そばにいれば電話の声はみんな聞こえている。振り返った蒼が目でいい? と尋ねると、 「例の新聞記者と連絡がつくなら、ひとつ聞いておいて欲しい。醒ヶ井の死んだとき着ていた服のポケットから、なにが見つかったか。分かるなら、たばこの灰くらいのものまで知りたい。僕からはそれだけだ」 「聞こえた?」  いまいましげなうなり声が受話器の中から伝わってきた。 『聞こえたよ。ナンバーはわかってるんだから、電話くらい自分ですりゃあいいだろうにな。名探偵の声が聞けたって喜ぶぜ、あの野郎』 「そういっとこうか?」 『いいよ、ついでに聞いとかあ。今夜は帰れないかもしれん。じゃあな』 「あれ、どえらいお土産っていうのはどうなったのさ」 『いまやってるんだ!』  それっきり電話は切れた。どうも蒼にはよくわからない。深春がなんに向かってつっ走っているのか、京介の質問にどんな意味があるのか。昨日からやたらとたくさんばらばらのピースが目の前に積み上げられたようで、どこからどう手をつければよいのか皆目見当もつかないのだ。そのくせ事態はなんとなく、終局に向かって歩みを速めているようでもある。  受話器を戻して振り返ると、京介は考える人みたいなポーズで肘かけにもたれかかっている。 「──蒼」  またお説教かな。 「今夜の内に馬の復元をやり終えたかったんだが、やむをえない、その前にもうひとりお客が来ているようだ」  彼のことばが聞こえたように、ゆっくりとしたノックがドアを鳴らす。蒼がそれを開けたとき、立っていたのは遊馬蘇枋だった。   赤い館    1  遊馬蘇枋はふたりの妹が今日、相次いでこの部屋を訪ねたことは少しも知らないらしかった。少なくとも知っているようなそぶりは、微塵《みじん》も見せない。 「この度は私どものことで、たいそうご迷惑をおかけいたしまして」  ドアを入ってすぐに、膝に額がつくほど深々と頭を下げる。 「ご連絡申し上げてからとも思ったのですが、かえってお気を遣わせてもと存じまして、勝手にうかがってしまいました。お忙しいようでしたら、このまま失礼させていただきますけれど」 「いや、とんでもない。どうぞおかけ下さい。こんな椅子しかありませんが」  京介に重ねて勧められて、さっきまで朱鷺が足を組んでいたスツールに腰を落とす。  今日も蘇枋は長い黒髪を頭の後ろにまとめ、渋い色合いのテーラード・スーツをきっちり着こなしている。初めて会ったときの大時代な振り袖姿は別人だったかと思われるような、板についたキャリアウーマンぶりだ。  こんなものですみません、なにをお持ちすればよいかわからなかったので、と蒼でも知っている名店の菓子折を取り出す彼女に、例の不意打ちの口調で京介がいう。 「遊馬社長はお元気になられましたか」  蘇枋の顔がすっと強ばって、口元につけていた笑みが消えた。 「土曜日にお目にかかったときは、だいぶん風邪がおひどいようでしたね」  重ねられた京介のことばに、ようやく彼女は答えた。 「──あ、はい。ありがとうございます。風邪の方はどうにか治まったようですわ」 「僕らが失礼したあの後に熱川に行かれて、発見されたわけですね。その、醒ヶ井氏を」 「そうですの」  蘇枋は青ざめた顔を小さくうなずかせた。 「そのときは、あなたもいらしたのでしたか」 「ええ。驚きましたわ、とても」 「母上と醒ヶ井氏は、かなり長いおつきあいでいらしたのでしょう?」 「あの方のお父さまが古くから沼津で不動産を扱っていらして、横浜の杉原家に出入りしておられたそうです」 「ああ、では独身でいられたころからのお知り合いですか。すると株式会社アカネの、不動産関係を取り扱っておられた?」 「いいえ、あの方は会社とは関係ありません」  蘇枋はきっぱりと首を振る。 「ただお客さまで伊豆に別荘を買いたいという人を、紹介したりはしていたようです」 「なるほど、古いお知り合いですからね」 「そうですわ。ですから母も、すっかり気落ちしてしまって」  遊馬蘇枋は首をまっすぐに立てて、京介を正面から見つめていた。その白い顔には強い自制の色こそあれ、いかなる動揺も現われてはいない。だがそうであればこそ、かたわらで見ている蒼も思った。彼女は母と醒ヶ井の関係を知っている。知っていながら隠し通そうと心に決めているのだ。  京介は、なにも気づいてはいない、といった調子で話題を転ずる。 「遊馬社長はこれから黎明荘を、どうされるおつもりなのでしょうね」 「そのこともあって今日はうかがったわけなんですの。桜井さんにはやはり、お断りしておかねばならないと存じまして。母は以前に夏ごろの解体と申し上げたようですが、もしかするとそれよりはだいぶ早くなるかもしれません」 「殺人事件の現場となれば、解決の前に解体するわけにもいかないでしょうね」  蘇枋の白い頬がひくっと震えた。 「あれは、事故だと思います」 「ええ、そうかもしれません」  感情をあらわにしないことにかけては、京介も負けてはいない。蘇枋のことばと表情をどう取ったにせよ、彼の淡々とした口調は少しも変わらなかった。 「いずれにせよ結論が出るまでは、調査も解体もお預けのかっこうですね」 「その調査も、辞退させていただきたいと母はいっておりますの」 「ほお? ……」  京介は軽く頭をそらせるようにして、彼女の顔を見返した。 「それはやはり醒ヶ井氏の、事故に関わる予定変更なのですか」 「母は不安なのだと思います。あの家をいじりまわすと、またなにか嫌なことが起こるのではないかと思えて」 『アマゾオヌの女王様』にも似合わない、弱気ではないかと蒼は思う。だがそれは、ほんとうだろうか。 「それにふたりも人死にの出た家を、いくら改装してもレストランに使うわけにもいきませんでしょう? リゾート・マンションを建てたって、庭にそんなものがあったら気味悪がられるに決まっています。やはり壊してしまうのがいいんですわ」 「そうかな。むしろイギリスのお化け屋敷みたいに、それが売り物になるかもしれませんよ」 「悪趣味ですわ、そんな」  初めて蘇枋の顔に、怒りの色が浮かぶ。 「死んだ祖父を売り物にしようなんて、家の者は誰も思いません」 「おっしゃる通りです、失礼しました」  京介はあっさりと頭を下げた。そしてまたその下げた頭をあっさり上げると、 「ただ取り壊しについては、ぜひもう一度検討していただきたいですね。社長のお考えはお考えとして、ご主人の灘男氏にはやはり不本意なことだろうと思いますよ」  そんなこといっちゃって、いいんだろうか。蘇枋も意外なことを聞いた顔だ。 「父が? いいえ、父はずっと前から解体に賛成しておりましたわ。それは桜井さんだって、ご存じのはずではありませんの」 「口でいわれることと本音が、まるで逆な人というのは珍しくはありません」 「それは、そうかもしれませんけれど──」  思わず語尾が消えかかるのは蘇枋にしても、父親の真意を掴んでいる自信がないからだろう。 「ご主人が反対に回られたら、社長のお気持ちも変わられるのではありませんか」 「そうかも、しれませんけれど……」  蘇枋は同じことばをくりかえす。 「私にはやはり、なんとも申し上げられませんわ」  明らかに京介は、彼女がそういうのを待っていたのだ。 「もう一度会わせて下さい、遊馬社長と。それもオフィスではなく、お宅の方で」 「家で、ですの?」 「そうです。この件はビジネスとしてではなく、遊馬家の一員として考えていただきたいからです。どうか、お願いします」  今度は京介が深々と頭を下げる。 「あの、わかりました。母がなんと申すかわかりませんけれど、話してみますわ。どうぞ、お顔をお上げになって」  いいながらこれを潮に立とうというのか、腰を浮かしかけた蘇枋に、京介はまた前触れもなく話題を転じた。 「今朝方僕らのところにも、刑事が来ましたよ」  蘇枋の動作が止まった。 「醒ヶ井氏の亡くなられた日のことを、いろいろと尋ねられました」 「それは、ほんとうにご迷惑をおかけしました」  当初の固い口調に戻って、つぶやくようにいうのに、 「いや、大した迷惑でもありません。眠いだけです」 「──は?」 「午前八時というのは、僕にとっては常人の深夜と同じでしてね。そんな時間に押しかけてこられれば、自然と対応も雑になります」 「雑に、なさいましたの」 「電話をよこした五分後に否応もなくやって来て、床に足跡の残るような小汚い靴下を履いて、灰皿もないところでたばこを吸おうとするわ、椅子の上にふけをまき散らすわ、ようやく帰るかと思えば見当違いな嫌味で人を不愉快にさせるような輩に、敬意を払う気になどなれなかっただけです。聞かれただけのことには答えたつもりですが、証人の態度が悪かったとこちらこそご迷惑をおかけするかもしれませんね」 「ま……」  目を見張った蘇枋の表情がふっとほころんで、さっきまで口元に張り付けていたそれよりはるかに自然な笑みに変わる。 「桜井さんってなんだか不思議な方ですのね。すごく老成しているようにも思えるのに、ときどきは私よりずっと歳下みたい」  そこまでいって蘇枋は口を押さえた。頬が赤らんでいるようだ。 「ごめんなさい。私、こんなこと申し上げるつもりではありませんでしたのに」 「かまいませんよ、僕などにそう気を遣われなくとも。そうでなくともあなたは、気苦労の多い毎日を送っておられるようなのに」 「まあ、どうしてそんなふうに思われますの」 「間違ったらごめんなさい。でも修善寺でお会いしたときの振り袖は、あなた自身の趣味ではないのではありませんか。とても美しい大和撫子《やまとなでしこ》ぶりでしたが、そんなスーツ姿の方があなたははるかに生き生きして感じられます」 「伯母が、望みますの。あまり母のようには、なるなと──」  蘇枋は押さえた手の下から、蚊の鳴くような声でいう。今度こそはっきりと頬に血が昇っている。 「私には伯母が、親代わりでしたので……」 「杉原学園は良妻賢母を育てるのが創立以来の方針だそうですね。それももちろん結構だがあなたが学長を継がれたら、ぜひ女性の能力を抑圧なしに伸ばすことのできる学校を作っていただきたいものですね。ほんとうの意味での良妻賢母とは、むしろそうしたところから生まれてくるのではないでしょうか」  蘇枋は京介を見つめて、ゆっくりとうなずいた。 「それは、私がずっと考えていたことですわ」 「だと思いました」 「どんなにいいでしょう、実現できたら。でも、できますかしら、私に」 「できますとも、あなたなら」 (このマキャベリスト……)  蒼はそっと心の中でつぶやいた。 (そうやって、気もないのにあちこちにお世辞ばらまいて、いつかドツボにはまっても知らないからな──)    2  遊馬蘇枋はそれからさらに三十分も、とりとめのない雑談をしていった。京介は顔なぞなくとも舌先ひとつで、女をくつろがせ、いい気持ちにさせてしまえるらしい。固さの取れてほがらかにさえなった蘇枋は、思った以上に朱鷺と似ていた。  窓から聞こえてきたチャイムの音が、はっと彼女を現実に引き戻す。笑みが消え、腕時計に目を落として、まあ、もうこんな時間、つぶやきながら腰を上げた。今度は京介も引き止めない。  だが蘇枋は自ら動きを止めた。両手をぎゅっと握り締めると、意を決したというようにひとつうなずいて、口を開く。 「桜井さん。こんないいかたはずいぶん失礼かもしれませんけれど、私はあなたを信頼させていただいてよろしいのですわね。あなたならきっと私どもの抱えている問題を、私がお話できなかったことまで含めて汲み取って下さって、一番よい解決の仕方を教えて下さいますわね」  それはいかなる社交辞令ともかけ離れたことばだった。声の調子は抑えられ、感情ではなく理性がその一言一言を選んではいたが、ついさっきそこで放たれた朱鷺の号泣と変わるところがないほど、彼女にはぎりぎりの真情。蒼にもそれは感じられた。  だが、と蒼は思う。話せなかったことまで汲み取ってくれとは、ちょっとあんまりな要求ではないだろうか。しかし桜井京介にとってはそれも、なんら意外でも唐突でもないようだった。 「僕の力の及ぶ限り、そう努めたいと思いますよ。生身の人間相手の仕事は決して得意とはいえませんが、いまさらそんなことで逃げるわけにもいきますまい。というのも、僕はこの件に関しては、亡き遊馬歴氏の代理人だと思うからです」 「祖父、の? ……」  蘇枋は不思議なことばを聞いたというように目を見張る。 「そうです。より正確にいうなら、黎明荘にこめられた彼の遺志の代理人です。いま僕たちが目にしている事件がいかに血腥《ちなまぐさ》いものであろうと、歴氏のほんとうの気持ちはご自分の血を分けた子供や孫たちを、不幸に陥れることでは断じてなかったと、僕は思うのですよ」  この次ドアがノックされたら遊馬珊瑚が現われるのではないか、という蒼の予想はさすがに外れた。夜になっても深春は伊豆から戻らず、彼のアパートで京介は黎明荘の模型を作り続け、蒼は白磁の馬の復元に取り組んだ。  家の模型の方は、もうほとんど出来上がっているらしい。なんのつもりか京介は暗い部屋にそれを置いて、スタンドの光を横から当てたりしながらしきりとうなずいている。気にならないでもなかったが、蒼は蒼で忙しい。  京介の注意でつけさせられた布手袋がなんとしてもじゃまだったが、作業そのものはそれほど難しくはなかった。破損が一番ひどいのは四本が四本ともかなり小さく割れてしまっている脚部で、胴と首は細部を別にすれば大きく三つほどに分れているだけだ。遊馬歴の墨字のある台座も、ぱっくり口を開けたようにふたつになっていて、合せればそのまま合う。  頭の方から始めた。広げた細かな破片をていねいに探していくと、とがった耳の先端のような米粒ほどのかけらまでちゃんとある。そしてそれ以外の、ごみのようなものは混じっていない。  ということはたぶん、最初から袋に入れたまま落とすかして割ったのだ。破片を後に残したりしないように。つまりただ割って捨ててしまうのではなく、理緒に送りつけるつもりで。 (──それとも……)  頭に湧いてくるもうひとつの可能性を、蒼は敢えて無視した。考えてもどうにもならないことは、考えない方がましだった。  上半分の復元が済むと、いよいよ問題の脚部にかからねばならない。理緒が描いてくれた馬は静止しているのではなく、四本の脚を軽くたわませて疾走しているポーズだ。破片をいくらていねいに貼り合わせても、胴の重さをこの脚で支えるのは無理だろう。これで脚の内部が空洞ででもあれば針金の補強を入れるか、いっそ粘土で固めてしまう手もあるだろうが、それもできない。外に針金をつけたら負傷した馬のギブスのようで痛々しすぎるし、いっそ針金を籠《かご》状に編んで下半身にかぶせて支えにするか、台座から粘土の柱を立てて腹を持ち上げるようにするか。  とにかく脚だけでも立ち上げてみようと台座の部分を取り上げて蒼は、あれ、とつぶやいた。 「京介。この台、穴が開けられてる」  蒼でもなければ気づかなかったかもしれない。それは底部の中央にある直径五センチほどの円なのだ。一度開けた穴を、なにかでふさいだらしい。その色も釉《うわぐすり》のかかっていない底面と、ほとんど変わらないつや消しの白。『一九九三年五月三十一日 遊馬理緒十八歳 祖父靂より』という墨の書き文字が上に乗って、なおさら目立たない。 「石膏《せっこう》に磁器の粉を混ぜたらしいね」  手に取った京介がいう。 「作者が不良品をごまかしたのかなあ」 「まさかね」 「でも、それじゃ遊馬歴がやったことになるよ」 「そうなるだろうな、墨書きが上にかかっているんだし」 「なんのためにそんなことしたんだろう」  すると京介は前髪をぐいと掻き上げて、現われた顔をからかうようにしかめて見せる。 「蒼。ちょっと鈍ったんじゃないか」 「え……」 「割れた台座をよく見てごらん。中が箱みたいに空いている。それに穴が開けられて、また閉じられたとすれば?」 「中に、なにかを隠してた──」 「そう考えるのが、順当ってものだろう」 「なにを隠したの」 「黎明荘の主人が、もっとも愛した孫への贈り物に隠すとすればなんだ?」  そこまでいわれてやっと蒼は思い当たる。 「ブルー・サファイヤだね」 「現物を入れるほどの余地はなさそうだから、隠し場所を書いた手紙とか、そういったものじゃないかな」  なるほどという気もするが、それではまた別の疑問が浮かんでくる。 「でも、それならどうしてこんなふうに、彼女も気がつかないようなかたちで渡したんだろう」 「それに関しては取り敢えず彼の屈折した心情を想像するしかないが、いま考えねばならないことは他にもあるぞ」  人差し指をぴっと鼻先につきつけられて、蒼はどきっとなる。夜が更けるほど冴えざえとしてくる京介の視線は、真正面から向き合わされると正直いって、恐い。 「黎明荘からこの馬を持ち出して壊し、遊馬理緒に送りつけた人物は、偶然だったのだろうがいまや歴の残した手紙を手にしている。つまりブルー・サファイヤの在りかを知っているわけだ」 「────」 「当然ながら細心の注意を払って決められた隠し場所のはずだ。そして熱川に隠棲して東京に出ることもめったになかった歴が、住居から遠く離れたところにそれを隠したとは考えにくい。探すべきは黎明荘の敷地内とせいぜいその周辺だろう。だがいまのところ醒ヶ井の事件の捜査でそこには勝手に立ち入れないはずだし、その後には解体の予定が控えている。となるといったいその人物は、これからどんな行動に出るだろうね」  隣室の電話が鳴った。深春だった。昼にも増して不機嫌な声が聞こえてくる。 「今夜は帰れない。明日昼過ぎに戻る」  今夜といっても時計の針は、すでに十二時を回っている。 「京介いるか? ああ、出さなくていい。伝えといてくれ、詳しいことは戻ってからにするけどな。二十一日の関係者のアリバイは、無い。確かなのはご存じの通り明音と蘇枋だけだ。蔵内爺さんまで死亡推定時刻のあたりは、誰にも見られていない。それと、京介のいってた醒ヶ井の持ち物のことだがな、もしもし、聞いてるか?」 「聞いてるよ」  受話器に耳を当てていたら痛くなるほどの声だ。だいぶストレスがたまっているらしい。 「黎明荘の前に停められていたやつのベンツからも、カセット・テープが持ち出されていたそうだ。これで沼津の空巣が、別人の犯行である可能性は消えたといっていい。  あと、ふだん持ち歩いていた大型のシステム手帳がなくなっていた。車のキーはシートの上に放置されていたが、醒ヶ井のもの以外の指紋は見つかっていない。ブレザーのポケットから抜かれたのはホルダーにつけた鍵束だけで、財布、カード入れ、たばことライターは日頃から本人が使っていたものがそのまま残されていた。  ああ、後ちょっと変な、ていうかよくわからんものとして、右ポケットの底に爪のかけらほどの白い破片があった。陶器だか磁器だかのかけららしいってことだが、だけどこんなもの、別に関係ねえだろ?」  蒼は受話器を握りしめたまま声を呑む。目はテーブルの上に広げたままの白磁の馬を見つめて。どういうことなのだろう、それはいったい。醒ヶ井のポケットに理緒の馬のかけらが入っていた?  では馬を持ち出したのは彼だったのか。その中から見つけた手紙に従ってブルー・サファイヤを探していて、出くわした別の人間に殺されることになったのだと? ── 「おい、どうしたんだよ。よければこれで切るぞ」  電話の向こうで深春がわめいている。 「切るのはいいけど最後にひとこと」  答えたのは蒼の手から受話器を取った京介だ。 「いままで掘り返していたのかい、君のトロイアを」  そばに立っている蒼の耳にもはっきりと、深春の狂暴なうなり声が聞こえた。京介は平然と笑って続ける。 「場所はどこだ?」 「乗馬クラブのはずれの丘の上。黎明荘の塀の中じゃ、まだおまわりがいて近づけねえよ」 「その調子だと成果はゼロだな」 「悪かったなあ」  深春の声はヤケクソに近い。 「見つかったのは骨のかけら十いくつと、馬具らしい金具ひとつ。サファイヤなんざ影もかたちもありゃしねえ。土は元通りにしとくのが爺さんとの約束だったからな、おかげでいままでかかっちまったよ。くそ!」 「まあ、そうカッカしないことだ。一眠りしたらさっさと帰ってこいよ。あんまり遅いと置いてくからな」 「なんだとお? どこ行くってんだよ」 「松濤の遊馬邸さ。明晩あたりご招待が来ると思う。そうなれば君だって行く前に、せめて顔くらい洗いたいだろう?」    3  翌朝目を覚ました蒼はびっくりした。京介が起きている。枕元の時計は九時。東向きの窓からは明るい朝の陽射しがさしこんでいる。にもかかわらず。 (なにが起こったんだろ……)  思わず天変地異を心配してしまう蒼だ。  京介は電話をかけていた。一本終わると時計に目をやって、タイミングを計るようにしてまた次をかける。 「……そういうわけで、君の協力が要る。うん、そう。──そう。いや、とりあえずはそれだけでいい。ただ他の人には気づかれないように、頼む。──はは、まあそれは全部片付いてからの話にしようか。じゃ、夜に」  そしてまた、次の一本。 「ああ、はい。桜井です。予定の調整がつきました。ええ、急がせてすみませんでした。それで、こちらはあなたの協力を当てにさせてもらっていいんですね。──もちろんです。では、今夜六時に」  受話器を下ろして前髪を掻き上げ、ふうっとため息をついた。めったに見られぬ朝の陽射しの中の京介の素顔を、寝ころがったまま見ていた蒼の視線にようやく振り返る。 「目が醒めたなら、コーヒー、頼んでいいかな」 「いいけど京介、もう起きたの?」 「寝なかったんだ。あれをやっていたら、夜が明けてしまってね」  顎をしゃくった先のテーブルの上には、完成した黎明荘の模型に並んで、磁器の白馬が見事に立ち上がっていた。下半分は蒼が考えたように、籠状の針金で支えられている。 「やっぱり、こうでもするしかないよね」 「透明な合成樹脂かなにかで固められれば、もう少しきれいにできるだろうけどね。それだと今夜には間に合わないから」 「今夜? ──」 「遊馬邸への手土産がわりさ」 「でも、京介、それって……」 「これを見て遊馬家の人々がどんな顔をするか、興味深いと思わないか?」  その夜六時。京介と蒼と深春の三人組は、渋谷松濤の遊馬邸の前に立っている。顔が映るくらいに磨き上げた赤い石で張って、真鍮の金色でアクセントをつけたこの大邸宅を目にするのも、蒼には二回目のことだ。 「『赤い館の秘密』ってか」  深春がつぶやいた。 「なんでえ、この悪趣味なエクステリアはよ」  丸一日の奮闘が無に帰した上、京介によけいなことはいうなと釘を刺された彼は、はなはだ機嫌が悪い。それでも今夜はいつもの従軍カメラマン紛《まが》いではなく、一張羅の夏上着を着用に及んでいる。蒼も京介も、いちおうブレザーだけは着てきた。  インタホンで京介が名前を告げると、真鍮柵の門は電動で開かれた。だが玄関の扉を開けたのは、蘇枋だった。 「ご無理を申し上げまして」  頭を下げた京介に、 「いいえ、こちらこそ」  深々と礼をする。 「晩餐《ばんさん》の前に応接間の方で、母がお目にかかりたいといっておりますが、よろしいでしょうか」 「結構ですよ。あなたもご同席なさいますか」 「はい」  上がり框《かまち》にしゃがんでスリッパをそろえながら、蘇枋は目を上げて京介を見る。 「で、私はどうすればよろしいんですの」  声をひそめたささやきに京介も、同じくひそめた声で応じた。 「僕のいうことに、最終的には賛成してください。でもできる限り、不自然にはならないように」  蘇枋はそれには答えなかった。立ち上がるといつの間にかそこに出てきていた中年の女に、きびきびした口調で命ずる。 「八重子さん。お客様方を奥の応接間にお通しして、お飲み物のご希望を伺って下さいな。私は母に声をかけて、そちらに行きますから。私たちの分はいつもの紅茶をね」  相応の金をかけていることが、はっきりと見て取れる邸宅であり、応接間だった。廊下を照している壁灯ひとつにしても、そこらの店で気軽に買えるしろものではない。重いドアを押して部屋に入れば、皮革と金属と天然石を素材にしたモダンなインテリアの中に、西欧中世の彩色木彫像やイスラムの陶器がさりげなく飾られている。  広さということだけ取っても、この応接間ひとつで深春のアパート二間と京介の本だらけの六畳がすっぽり収まって、まだおつりが来るだろう。敷地全体ではいったい何坪あるのか。遊馬明音が黎明荘の維持には費用がかかりすぎるといくら力説しても、これでは説得力に欠けるというものだ。  ほどなく現われた遊馬明音は、あざやかな茜《あかね》色のニットに金鎖のネックレスという、娘より遙かに派手なスタイルだった。蘇枋を後ろに従えて大股に部屋を横切ってくると、 「よくいらっしゃいました」  そういった顔にはしかし、ほとんど最低限度の愛想笑いがひっかかっているだけだ。 「先日はほんとうに、失礼いたしましたわね。せっかくお運びいただいたのに、ろくな話もできなくって」 「風邪の方はおよろしいのですか」 「ええもう、なんていうのかしら。季節外れの花粉症だったようだわ」  口元に手を当てて上げる笑い声が、妙にわざとらしい。 「今夜はどうぞごゆっくり。あのときのお詫びのつもりで、コックにも腕を振るわせましたの。家などではなく外にお招きした方が、とも思ったのですけれどね」 「いいえ。お宅に伺いたいと希望したのは、僕の方ですので」  遊馬明音は表情を改めた。というより顔につけていた、愛想笑いを放り捨てた。 「──桜井さん」 「はい」 「娘から聞いたのですが、黎明荘に対する我が家の方針に異議がおありだとか?」  逆に相対する京介の方が、前髪の下から覗く口元に微笑を浮かべる。 「それほどえらそうなことを申し上げるつもりはありません。ただもう一度、お考え直しいただけないかと思うだけです」 「考え直す余地なぞありません。私はもうあんな家、見るのも考えるのも嫌なほどなのですから」  明音は言下に首を振った。 「私が舅《しゅうと》を嫌っていたからだろうとおっしゃるなら、ええ、その通りですとお答えしますよ。遊馬歴は身勝手で情の薄い、どこまでも利己的な人間でした。自分のたったひとり血を分けた息子さえ愛することもできないような、人の心をどこかに置き忘れた老人でした。けれど憎むのも嫌うのも、もうたくさんです。死んだ人は死んだ人。嫌なことはさっぱり忘れて、お盆の墓参りくらい快くしたいと思います。でもあの家が残っている限りは、それもできない。どうしても以前のことを思い出してしまう。だからですよ」 「すると、醒ヶ井氏がどう主張されても、黎明荘を残されるおつもりはなかった?」  一瞬明音の目が大きくなる。だが彼女はひとつ深く息を吸って、答えた。 「──当然です」 「ブルー・サファイヤのことは、あきらめてしまわれるのですか」  すると遊馬明音は、低く笑ったのだった。 「理緒に聞かれたんですか。私が舅の宝石を、血眼で奪おうとしていたと」  黙ってうなずいた京介に、疲れたような笑みを浮かべて彼女はことばを続けた。 「それは確かです。去年の舅が倒れる前の数ヵ月、私はそれにすっかり夢中でした。他のことが考えられないくらいにね。でも頭が冷えてみれば、それもあるはずのない夢ですよ。理緒もいった通りあの人がそれだけのものを持っていたら、とっくにお金に換えて馬のために使っていたでしょうから。ほんとうに馬なんて、あんなものにどうしてあれほど夢中になれるのか、私には皆目見当もつかないけれど、向こうは向こうで私を金の亡者くらいに思っていましたからね」  体をソファの背に預けて、明音はふうっと深く息を吐き出す。 「とにかくあなたにはお気の毒ですけれど、警察の許可が下り次第黎明荘は解体します。晩餐の席でその話をされるのはご自由ですけれど、夫も納得していますし、決定が変わる余地はありませんから」    4  その後京介は持ってきた箱を開けて白磁の馬を見せた。ただ理緒から壊れたものを直して欲しいと頼まれたのだ、とだけいって。しかし明音も蘇枋も、特になんの反応も見せはしなかった。祖父から理緒に贈られた最後の誕生祝いだと、気づいてもいないように見える。やはり馬を盗んで送りつけたのは、醒ヶ井のしたことだったのだろうか。  晩餐が始まるまで、まだ少し時間があった。 「よろしかったら少し、家の中をご案内いたしましょうか」  蘇枋がいい、 「そうなさい。私は着替えてくるから」  明音が退場する。ほっと蘇枋は息をついた。妙に緊張していたらしい。ものいいたげに京介を見る彼女に、しかし彼は見当違いなことばを口にする。 「母上はいつも、服装にはとても気を配っておられるのですね」 「ええ、母はおしゃれですもの。もしかしたら私たち姉妹のだれよりも」 「服装だけでなく靴までちゃんと合せていらっしゃる。洋間でもスリッパを履いてしまう日本の習慣は、そういうおしゃれな女性にはお気の毒ですね」  笑おうとした蘇枋の顔が、ふいと凍りついた。あわてて立ち上がった体がよろけて、テーブルの上に置いた白馬の背に触れそうになる。その手を深春が危うく掴み止めた。 「大丈夫ですか」 「まあ、すみません。また壊してしまうところでした……」 「壊さないにしても、指紋はつけないで欲しいんです」  と京介。蘇枋の目がまじまじと彼を見つめた。 「どういう意味ですの、それ」  だが彼はそれには答えずに立ち上がる。 「ご案内願いましょうか、このすばらしいお宅の中を」  蒼は正直な話疲れていた。腹も減っていた。確かに遊馬邸はそうざらにない大邸宅だったが、どうでもいいやという気分になっていた。一階は大小三つの応接間と晩餐室、厨房。二階、三階に広いバスルームや書斎や寝室、庭がない代わりに屋上にはたっぷりの鉢植えや池まで作られてまるでバビロンの空中庭園だ。そこのベンチに落ち着いて、東京じゃないみたいですね、なんぞといっている三人を残して蒼は階段を下りた。トイレに行くといったのだがそれだけでなく、少し独りになりたくなったのだ。  とはいえよその家の中で、安心していられる場所はそうない。 (そうだ。さっきの応接間なら、きっと誰も来ないや)  ドアは開いていた。だが部屋の中には人がいた。ソファの前につっ立ってテーブルの上の馬をじっと見つめているのは、珊瑚だった。蒼が気づいたと同時に、その顔が振り返る。遊馬家の女性たちに共通した濃い眉の下から、けわしい目がこちらを凝視している。 「これ、あんたが直したの?」 「──そう」 「うまいじゃないさ。本職になれるよ」  小馬鹿にしたように鼻先で笑って、指で馬の背をつつく。 「あんた、馬に乗ったことある?」 「一回だけね」 「どうだった?」 「おもしろかったよ」 「へん、ばかばかしいや!」  珊瑚はまた嫌な笑い声をたてた。 「ばっかじゃないの、理緒もじじいもあんたもさ。なにがおもしろいのよ、こんなもんの背中に乗っかって、ほん投げられたり尻打ったりしてがに股になってさ、喜んでるなんて、ほんっとばっかみたい!」  だがなぜだろう。蒼はこのとき少しも、珊瑚のことばを不愉快だとは感じなかった。肉がついてむっちりとしたそのとうてい美人とはいえない珊瑚が、奇妙に淋しそうに見えたからだろうか。 「じゃ、君も乗ったことあるんだ」  むっとした顔がまたこちらを向く。 「どうしてそう思うのよ」 「だって、乗ったこともない人じゃ、さっきみたいな実感のあることばは出ないよ。ぼくもたった三十分くらい乗っただけなのに、後でお尻は痛いし足のつけ根は痛いしさ」  珊瑚は答えなかった。ぷいと横を向いて、じっと白磁の馬を見つめている。それからぽつんといった。 「──いくら乗ったってさ、理緒みたいにゃなれないよ」 「うん、ぼくだってなれないよ」  また沈黙がある。 「あのさ、あんた、パティオで馬に乗るっていったら、どういう意味だと思う?」 「え? なに、それ」 「わからないから聞いてるんじゃないか」 「なにかの暗号? それとも詩?」  話そうか、止めようか。珊瑚は迷っていた。口が開きかけ、顔が上がった。だが急に彼女は表情を変えると、足音も高く廊下へ駆け出していってしまう。その後の戸口に立っていたのは理緒だった。 「あの、そろそろ晩餐を始めますからって、母が」  珊瑚は理緒の顔を見て、行ってしまったのだ。まるで、逃げ出すみたいに。   墓あばき    1 『赤い館』の天井の高いダイニング・ルームで餐された晩餐は、確かにすばらしいものだった。オードヴルは北欧風魚貝の冷製キャビア添え、スープはオマール海老のビスク、口直しのシャンパン・シャーベットを挟んで、イタリア風の温野菜料理を二皿、メイン・ディッシュはフレッシュ・フォアグラと鶉《うずら》のソテー、マデラ酒風味。なじみのレストランのシェフを出張させたとかで、味はもちろん盛りつけもプロの手腕と家庭料理のていねいさがひとつになっている。それぞれによく吟味されたワインが、添えられたのはいうまでもない。  だが食卓の雰囲気も味の内というなら、その部分に関しては完全に最低だった。明音はそれでも女主人にふさわしい役割をはたそうとにこやかに奮闘していたが、灘男は死人のような固い表情を崩そうそぶりさえなく、出される料理にもかたちばかり手をつけるだけだ。  四人の娘たちもその点では、明音のよい協力者とはいえそうもない。蘇枋は母が一言いうたび緊張の抜けない様子でその顔を注視し、朱鷺は顔つきは快活だったがなにかといえば母の揚げ足を取り、珊瑚は逆に父の顔ばかりを見、理緒はなにかに怯えているような態度を変えない。それはまるで奇怪な黙劇を見るような眺めだった。  メインの皿が下げられて、コーヒーとデザートのケーキが出る。さっき応接間に飲み物を運んできた愛想のない中年の家政婦が、ワゴンを押して銀盆に十数種類載せた菓子を配った。灘男はコーヒーを断ってブランデーを取る。朱鷺が声を上げた。 「あたしももらうわ、ブランデー!」  グラスにつがれた酒を受け取ったままぐいと飲み干すと、 「八重子さん、もう一杯ついで。ねえ、ママ。やっぱりあの黎明荘、取り壊しちゃうんですって?」  いやに陽気な口調で尋ねた。 「そうです。朱鷺、お酒はそれくらいになさい」 「はいはい。で、私ね。この場でみんなに提案があるの。一家が顔をそろえてのディナーなんて、めったにないことですもんね」 「なんです、いったい」 「ママが壊すっていうなら仕方ないけど、私考えてみたらあの熱川の家って、満足に見たことないのよね。せめてなくなっちゃう前に、じっくり見学したいわ。建築の先生も注目するくらいの建物なら、それくらいの価値はあるってもんでしょ?」  ばらばらだった一座の視線が、なにをいい出すのかとそろって朱鷺に集まる。中でも明音の目が一番鋭い。わざとらしいほど楽しげな娘の顔の奥に、隠しているものがあるなら見抜かずにはおかないという目だ。 「いったいどういうつもりなの? 古い建築に興味を持ったことなんて、あなたはこれまで一度もなかったじゃありませんか」  しかし朱鷺も平然と、笑いながらその母親の目を見返す。 「あらあ。ママったら知らないの。レトロな建築の見学ってもはや流行を越えて、一般に定着した知的レジャーなのよ」  家政婦が手にしたまま立っていたブランデーのボトルをすばやくかっさらうと、グラスにつぎながら、それでね、と朱鷺は続けた。 「あたしの提案っていうのは、あたしだけじゃもったいない、せっかくだからみんなで行かない? ってことなの。名目はなんでもいいわ。少し早すぎるけど祖父さまの一周忌でもいいし、今月の三十一日は理緒の誕生日でしょ。ついでに黎明荘のお別れパーティー。もちろん建築の先生には同行してもらって、見どころをこと細かく解説してもらって、昭和初期スパニッシュ・スタイル建築のレクチャーをしてもらうのよ。いいでしょ」  すぐに反対の声が上がらなかったのは、みんながあっけに取られていたからだろう。蒼にしても思いは同じだった。確かに昨日京介は彼女に、熱川で家族全員が数日顔をそろえられないかといった。朱鷺はすごく難しいと答えた。当然だ。子供の頃からそろっての家族旅行も、したことはないという一家なのだから。そこで彼女が考えたのが、この大胆きわまりない正面突破作戦というわけなのだった。だがいくらなんでもこんな提案、他の家族が承知するとは思えない。 「僕の都合は、ということでしたらOKです」  その沈黙に京介が静かに口を挟む。 「というより調査の許可がいただけないとしても、せめて後一度の訪問は許していただきたいとお願いするつもりでした」 「ねえ、ママ。桜井さんがこういってる以上、いっしょに行った方がまだましよ。だってこの人なら、蔵内さん手なずけて中に入るくらい簡単に決まってるんだから」 「──とんでもない話だわ!」  ようやく明音は答える。 「そんなことをなさったら私は即座に法律的手段に訴えますからね、桜井さん。あなたに協力するようなら、蔵内だって同罪だわ」 「お母さん!」  食事中もほとんど口をきこうとしなかった、理緒が声を上げた。 「お願い。どうしても、どうしても黎明荘を壊してしまうというなら、私だってせめてもう一度は見ておきたいわ。お母さんが駄目だといっても、私が頼めば蔵内さんは鍵を開けてくれるわ。桜井さんが見たいとおっしゃるなら、もちろんいっしょに行くわ。そうしたら私のことを訴えるの?」 「まあ、理緒、あなたは──」  明音の顔が朱に染まった。だが彼女が叫ぶより早く、今度は蘇枋が口を開く。 「お母様。私もせめて一度くらいはゆっくりと、あの家を見ておきたいと思います」 「蘇枋──」 「ご心配はいりませんわ。なにも起こるわけがありませんもの。だからどうぞ、お母様もごいっしょに」 「そんな、どうしたっていうの、あなたまで……」  明音の頬に昇った血の色が、今度は見る見る引いていく。蘇枋の思わぬことばに、彼女はほとんど茫然としていた。珊瑚はなにもいわないまま、見開いた目をきょときょとと動かし、灘男は依然として死人のように光も動きもない目を前方に据えている。 「そういえばもうひとつ黎明荘に関することで、皆さんの耳に入っていないだろうことがありました」  熟した女たちのやりとりも耳に入らないとでもいうような、桜井京介の淡々たる口調が、視線の交差する大テーブルの上を流れた。 「蔵内氏が知らせてくれたのですが、黎明荘の庭から歴氏の愛馬黎明号の墓が見つかったそうです。敷地が海側に下っている急斜面が崩れて、黎明号と名の見える骨壺らしいものが露出しているとか」 「馬の墓ですって? それがいったいなんだというんです、あなたは!」  うわずった声を上げる明音に、 「もちろん僕の専門ではありませんが、やはり興味はありますね。なにしろ黎明荘にあったあの肖像画の、すばらしい馬具をつけた馬の墓というわけですから」    2 「このッ、ろくでなしの、詐欺師の、大ぼら吹きの、大山師めッ!」  遊馬家の門を十メートル離れたとたん、深春がわめき出した。 「なにが骨壺だ。なにが斜面が崩れてだよ。この野郎、人の苦労を嘘の種にしやがって、あんなこと出任せでいってどうするつもりなんだッ!」 「確かにろくな手じゃあない」  さっきまでのなめらかな口調とは打って変わった、不機嫌そのものの声で京介が応じる。 「だが他に手が思いつかない」 「ほおお、おまえでも思いつかないことはあるってわけだ。そいつぁあ良かったよ」 「ねえ、京介。あれはつまりサファイヤを探してる誰かに対する、囮《おとり》なわけでしょう?」  蒼はその顔を覗きこむようにして尋ねる。 「当然ああいえば骨壺を探らずにはいられないし、でも深春が掘った本物のお墓とは違って、庭の中じゃ警察が手を引かない内は、誰もその場所に近づくわけにいかない。解体工事でも始まればなおさら難しい。だからきっと家族みんなで黎明荘に行くなんて賛成するはずがなくて、敷地に立ち入れるようになったとたんこっそりやって来るに違いないって。でも、それじゃ熱川で張りこみでもするの?」 「まあ、嘘の効果がどう出てくるかは二、三日でわかるだろう」  徹夜が利いてでもいるのか、いつに似ないぼんやりとした声で彼は答えた。  ところが。  それが凶なのか吉なのか、蒼にはよくわからない。とにかくひとつの結果は、二、三日どころか翌日に出た。深春のアパートの電話が鳴って、朱鷺の声が聞こえてきたのだ。 「決まったわよ」  いきなりこれだ。 「なにがさ」 「トロいこといわないでよ。遊馬家ご一行様の熱川へのお出ましッ。数日とはとてもいかないけど、今度の金曜の夕方から日曜まで。黎明荘に車で五分の貸し別荘を取ったわ。これでどうにかしてって、あんたんとこの名探偵にいってちょうだい」 「ちょ、ちょっと待ってよ。朱鷺さん」 「朱鷺よ。さんはなし」 「あ、ごめん。朱鷺、黎明荘には入れるわけ? うちの人はみんないっしょに行くの?」 「警察の許可が下りたの。この土曜からは立ち入り許すってね。そうよ。どういうわけかあの珊瑚も、まさかと思ったけど父も行くっていうことになったわ。もしかして桜井京介、向こうまで根回し済ませてたの?」 「ええっ、違うよ。どうして?」 「でもいつの間にか、蘇枋姉を手なずけたのは確かみたいね」 「さ、さあ。どうかなあ──」  ふふん、と朱鷺は鼻で笑った。 「まあいいわ、名探偵のお手並み拝見てわけね。車で来るの、それとも電車?」 「そんな、いますぐじゃ返事できないよ」 「それもそうね。たぶん今夜あたり、明音さんから電話が行くと思うわ」  それから立て続けに三本電話があった。遊馬家の女性たち、理緒、蘇枋、そして明音からも。みんな他の者が電話しているとは思っていないのだから、これは蒼にとってもけっこうしんどい応対だった。 「私、まだ希望は捨てたわけではないの。母だってともかくもいっしょに行ってくれるわけだし、父もそうだし、もしかしたら気持ちを変えて、黎明荘を残す気になってくれるかもしれない。そう思わない、蒼くん」  理緒はいう。 「でも、あの、お祖父さんとお父さんの事件のことは──」  沈黙があった。長すぎるほどの。 「ごめんなさい、もとはといえば私がいい出したんですものね。だけど私、なんだか疲れちゃったの。うちの人のこと疑って、いうことやすることやなにもかも疑いの目で見て、そういうこと続けるの。おじいちゃまはやっぱり足をすべらせただけかもしれないし、父は一時的にノイローゼみたいになって自殺しかけたのかもしれないし、醒ヶ井さんだってただの事故か、そうじゃなくともうちとは関係のない事件だったのかもしれない。そうであって欲しい……」 「じゃ、あの送られてきた馬は?」  ふたたび沈黙。しかし荒い息づかいが受話器を通して聞こえてくる。 「──わからないわ、そんなの。でも、もういいの! 考えたくないの!」  音たてて電話は切れた。蒼はしばらく受話器を握ったまま、最後の悲鳴めいた声を思い返していた。  理緒の気持ちはわかる。人を疑い続けることは、とほうもないエネルギイを消費する。それが身近な、そうでなくとも一度好意を持った人の場合はなおさらだ。自己嫌悪さえ覚える。自分がひどくいやしい人間になった気がする。そのくせ胸に巣喰った疑いは、容易に消すことができないのだ。  蒼自身もまた、蔵内のことばによって芽生えた、理緒に対する疑いを忘れることができない。このいまになっても誰も疑いたくないという彼女の言は、家族を疑うことに疲れたと、ほんとうにそれだけだろうかと問い返す自分がいる。黎明荘が消滅させられる瀬戸際に来て彼女は、なにか思いきった手に出ることを考えているのではないか。そのために、自分にかかるかもしれない疑いをあらかじめそらせるために、急に事件などなかったなぞといい出したのではないか──  蘇枋と明音の電話には、京介が代わった。そろそろ夕方で、彼も目を覚ましていたので。京介は電話をスピーカーにして、蒼にも向こうの声を聞かせてくれた。 『あれで良かったのでしょうか。あなたが賛成されたので、私もそうしたのですけれど』  ためらいがちの蘇枋の声だ。 「もちろんですよ。お父上を説得して下さったのはあなたですか?」 『いいえ、とんでもない。お帰りになった後で珊瑚が自分も行くといい出して、今朝になったら父もそういいますの。それで仕方なく母も折れたのですわ』 「ひとつお願いがあるんですが、蘇枋さん。最初の夜だけでも、杉原静音さんにも来ていただけないでしょうか」 『静音伯母を──』  なぜか蘇枋は絶句してしまう。 「ご無理ならいいのです、もちろん。ただ僕がそういう希望を口にしたことだけは、あなたからお伝え願えませんか」 『わかり、ました……』  蘇枋の電話はそれで切れた。蒼は説明を求めるつもりで京介を見たが、彼には答える気はないようだった。  それからあまり間を置かずに、明音からの電話が来た。 『お約束いただきましょうか。あなたが黎明荘と関わるのはこれが最後、この後うちの娘がなにをいおうと勝手なことはなさらないと。それが私からの条件です』  性急な口調で彼女はいう。 『そしてなにか雑誌にでも発表するようなつもりがあれば、解体が完了してからにして下さい。これ以上あれにわずらわされるのはまっぴらです。よろしいですね』  尋ねているのではない、決めつけているのだ。 「わかりました。ご承知下さったことを感謝します、社長」 『ええどうぞ、たんと感謝して下さいな。朱鷺があんなことをいい出したのも、自分ひとりの考えのはずはないんですからね。野暮天の堅物みたいなかっこうをして、桜井さん、あなたもとんだくわせ者だこと』  まったくだよと蒼も思う。しかし朱鷺はともかくも、蘇枋まで半分はこっちのシンパだとは、さすがに気がついてないらしい。 『ああ、そうそう。あなたが最後にいい出した馬の骨壺の話ね、蔵内に電話して確かめさせてもらいましたよ。へたに掘り出そうとすると、逆に上から土が崩れてしまいそうなんですって? いくらなんでもお伽話じゃあるまいし、そんなところに例のサファイヤが隠れているはずもないでしょうに。まさかそれも黎明荘を壊させないための、あなたの悪だくみじゃないでしょうね』 「よくおわかりですね、社長。実はその通りなんです」  京介はしれしれと返事する。 「悪だくみでもなんでも、夢があるっていうのは楽しいものじゃありませんか」 『馬鹿おっしゃいな』  明音は電話口で笑い出した。 『ほんとうにあなたって、学者にしとくのが惜しいくらいだわ。大学なんぞやめて、うちに就職しない?』 「でも学者と宝石商は、案外近い職業だと思いますよ。学問と宝石。どちらも食べられない夢を扱って商売している」  電話が切れたところで、蒼はそっといってやった。 「大嘘つき」  蔵内へはもちろん電話で、どう話をもっていったのか口裏を合せてもらったのだし、深春はいまごろ馬の骨壺にふさわしい容器を探している。明日は朝から出かけてこっそりと、それを崖下に埋めてくるつもりなのだ。思いつきで嘘をつくのは誰にでもできるが、それを嘘だろうといわれて、ええ嘘ですと答えて、逆に信じさせるようなことは誰にでもできるものではない。 「そうさ。学者は嘘つきだ」 「探偵も?」 「そうかもな」  京介は両腕を頭の後ろに上げて、ううんとひとつ伸びをした。 「探偵は見通しのきくわけもない人間の世界を、なにもかもわかっているような顔をして、すべての謎は解決可能だという夢を振りまく。あるいは解決したという夢を。益体《やくたい》もない研究を至上の宝のように持ち上げて見せる学者と、どっちの罪が重いんだろうね、蒼」    3  前々日の遊馬邸の晩餐にも増して、それは奇妙な一座の集いだった。  熱川の駅からもそれほど遠くない丘の林を切り開き、道をつけて開発した別荘地。分譲と賃貸が半々の出来合い別荘、といってもさすがに首都圏の建て売りとは違い、伐《き》り残された雑木林に囲まれて一軒一軒にたっぷりとした敷地が用意されている。そのひとつに京介たち三人と杉原静音をふくむ、遊馬家の人々が入っていた。  寝室が二階に三室、一階に一室。一階にはその他広い居間と食堂とそれに続くオープン・キッチン、バスルーム、トイレも両階にある。この手の貸し別荘としては大規模で、造作もそれなりに整えられている方だ。だが修善寺の杉原家の別邸や松濤の遊馬家と較べれば、新しいだけが取柄のうすっぺらい家というしかあるまい。そのリビング・ルームに、どう見てもあまり楽しそうには映らない面々が顔を並べているのだ。  先に来て蔵内老人にも手伝ってもらい、部屋の準備を整えたのが理緒と蘇枋。黎明荘に寄りたがるふたりを、そうさせないのも蔵内の役目だった。なにせそのころ庭の外れでは、深春たちが骨壺を埋める穴を掘っていたのだから。  ほとんどが車で来るはずの遊馬家の人たちと鉢合せしないために、三人は電車を使うしかなかった。彼らに知られてはならない作業を終えて、いま到着したというかっこうで教えられた番号に電話すると、さっき着いたばかりだという朱鷺がプレリュードで駅まで迎えにきた。その後姉の静音を隣に乗せた明音のBMWが着き、暗くなってから灘男と珊瑚が彼女の赤いマーチで到着した。  夕食は先着のふたりが作った鍋いっぱいのブイヤベース。冷やしたシャブリが二本抜かれたが、やはり会話は弾まない。灘男はいうに及ばず、明音も今日はむっつりと押し黙っている。だが中でも一番陰気に見えるのは、静音だった。明音からも遠いテーブルの一番端に座って、終始うつむき加減に、誰とも目を合せようとしない。短く切った灰色の髪はばさついて油気もなく、前はかけていなかった老眼鏡までかけて、藤色のブラウスにグレーのスーツでは五十代を通り越して六十代くらいの老婦人に見えてしまう。  いい出しっぺの責任感をいくらか感じているのか、食卓では朱鷺が一番よくしゃべった。といっても他の人間が乗ってこないので、ほとんど独演会だ。 「ねえ、明日馬に乗らない?」  毎度の唐突さで提案する。 「朱鷺は、動物苦手じゃなかったの?」  誰も返事する者がいないので、蒼が仕方なくそう尋ね返す。 「苦手よ。いまでも忘れられないもんね。祖父様にいきなり鞍の上に乗せられて、恐くて泣きわめいたら、馬が驚くから泣くなって怒られてなおさら恐かった。あのときはこのじじい鬼じゃなかろかと思ったわよ。でも理緒は別格にしても、蘇枋姉も珊瑚も一時はけっこうやってたじゃない。祖父様の騎乗姿なんか見せられれば、憧れるのも当然よね」 「でも、私が乗ったのなんて十年以上前よ。いまさら無理よ」  蘇枋がおっとりと異議を唱え、 「あたしやだからね、そんなみっともないことするの!」  珊瑚は怒ったように声を上げた。 「ふーん。だったらあんたに合せて、キャッチボールでもする?」  だが珊瑚はスプーンを放り出して立ち上がる。 「どこ行くのよ」 「寝るの!」  そのまま足音を響かせて出ていくと、階段を上がる音、二階の廊下を歩く音、寝室のドアを開けて閉める音が、いまどきの建築にふさわしいけたたましさで家中に鳴り渡った。  食後の過ごし方はばらばらになった。リビングの中央ではコントラクト・ブリッジが始まっている。朱鷺と蘇枋、京介、珍しく娘の誘いに応じた灘男がそれに加わった。ママも入ればといわれた明音は、静音を寝室に送ってからといってふたり出ていく。昼間の肉体労働がこたえたのか、深春はウォークマンのイヤホンを耳に入れてソファで居眠りだ。蒼はしばらくそばで観戦していたが、コーヒーでもいれようかとキッチンに立ったところを理緒にそっと目くばせされた。目が、外を示している。他の者に聞かれたくない話がある、ということらしい。ふたりは勝手口から出た。 「なーに?」 「あのね、これからいっしょに黎明荘まで行ってくれない?」 「これから?」  時刻はすでに十時を回っている。 「この前渡したおじいちゃまの画集、桜井さんは持ってきてくれたんでしょう?」 「うん」  父によって持ち出された祖父の蔵書を、機会があったら黎明荘に戻して欲しい。そういったのは理緒だ。それを実行するより前に、理緒自身がこうして熱川へ来てしまうこととなったわけだが。 「私もね、あなた方が直してくれたあの馬、持ってきたの。おじいちゃまが亡くなる前みたいに、あと少しでもあの馬もあそこに置いておきたいのよ。だから、それをするのはいましかないでしょ? ほんとは昼の内に戻しておきたかったんだけど、蔵内さんがいまは駄目だっていったものだから」  蒼は思わず首をすくめる。その時間蒼たちは黎明荘にいたのだから。 「鍵はあるの?」 「あるわ。明日使うからって、蔵内さんから借りたの。だから、蒼くんが気が進まないなら、あの本だけ渡して」  馬はもうここにあるの、と理緒はキッチンに置いていたらしいバッグを見せる。 「ひとりで行くの? 歩いたらたぶん二十分以上かかるよ」 「平気よ。誰も気がつかない内に、行って戻ってこられるわ」 「OK、いっしょに行こう」 「ありがとう」  安心したように微笑む理緒に、蒼はうなずいた。彼女を半ば疑いながら、半ば信じたいと思い続ける。そんなことはこれ以上我慢できない。だからこれは絶好の機会だ。彼女にとってはなにより神聖であるはずの黎明荘で、自分の胸にある疑問を思いきってぶつけてみよう。  リビングに戻ると京介に代わって、明音がブリッジのテーブルに着いている。深春は相変わらず居眠りだが、他の人間は見えない。玄関の前にある階段で二階に上がると、廊下にそって寝室が三つ並んでいる。部屋割りは一階に杉原静音と蘇枋、二階は階段に近い方から京介たち三人、遊馬夫妻、朱鷺以下の娘三人とした。割り当てられた寝室にも京介はいなかったが、トイレにでも行ったのだろうと蒼は思った。彼の荷物から例の画集を取り出す。できれば一言いっておきたかったが、まあいいだろう。理緒とふたりでなにが起こるはずもない。二階の廊下の端に非常口があって、外階段が下に向かっている。持って上がった靴を履き、そこから下りて理緒と合流した。  まばらな街路灯に照される暗い道を、ふたりして小走りに駆け下った。金曜の夜とはいっても、週末を伊豆で過ごす人々はもうとっくにそれぞれの場所に落ち着いているのだろう。別荘地の丘を回る道には、歩く人影も走る車もない。満月から二夜目、まだ充分に道を照してくれるはずの月も、今夜は雲に隠れている。 「免許があれば楽なんだけどね」  理緒に代わって持った白磁の馬を胸に、蒼は息を弾ませた。 「ほんというとさ、運転くらいできるんだよ。ぼく」  なにせ朱鷺のプレリュードを、一キロばかりころがした実績がある。 「あら、私だってできるわよ」  理緒が無邪気な口調でいった。 「蔵内さんがよく教えてくれたの。免許取る時間が惜しかっただけ」 「それ、ほんと? ……」 「これはないしょだけど、レンタカー借りたこともあるわ」 「だって、免許証なけりゃ車借りられないじゃない」 「珊瑚の免許証が家の中に落ちてたから、いたずらのつもりで試してみたの。写真の顔が少しくらい違ってても、全然気がつかれなかったわよ」  理緒はそれがおもしろい冗談のように、小さく笑い声をたてる。蒼はしかし笑えない。なんと返事すればよいのかもわからない。理緒が運転できるのだとしたら。これまで考えていたより遙かに自由に、彼女は動き回れたことになりはしないか。たとえば、そう。乗馬クラブの酒席をさりげなく抜け出して、黎明荘の父を訪ねるようなことも。だがどうして理緒は、いま蒼にそんなことを話して聞かせるのだろう。──    4  夜訪れる黎明荘は蒼の記憶にあったそれよりも、はるかに陰鬱な空気を身にまとっていた。明かりといえば理緒が手にしたペンライトひとつ。鉄門の唐草格子が黄色い光の輪の中に、奇妙に生き物めいた影を引いて浮かび上がる。鍵束を出して南京錠を開こうとした理緒は、その唇から低く驚きの声をもらした。 「開いてるわ。どうして──」 「警察が閉め忘れたんじゃない? それより、早く行こうよ」  蒼はさりげなく理緒を急かせた。門の錠をかけ忘れたのはもしかしたら、今日の昼間庭で秘密の仕事をしていた自分たちかもしれなかったから。  玄関扉を今度こそ鍵で開けて、理緒はまず右手の部屋に行く。窓辺に並んだ馬のコレクションの端に、蒼と京介で直した白磁の馬をそっと置く。下半分を針金で覆われた馬は、やはり見るからに痛々しい。 「京介がね、透明な樹脂で固めるようにすれば、針金は外してもだいじょうぶだろうっていってたよ」  蒼がいったが理緒は答えない。 「この家が取り壊されることになったらこれ、また東京へ持って帰るんでしょ? そしたらきちんと直せばいい」 「──そうね。でも、どうするかわからない」  ぼんやりと、疲れたような口調で理緒はつぶやく。さっきまでの快活さは、門のところに置き忘れてでもきたようだった。 「東京でもこの馬たちを見ていたら、きっと悲しくてたまらなくなるわ。どうしてもおじいちゃまのことを、思い出してしまうもの……」 「だけどここに置いたままにして、壊されでもしたらもっと悲しいよ」  微かに頭を動かしたのは、うなずいたのかそれとも左右に振ったのか。そのまま踵《きびす》を返す理緒を、蒼はあわてて追った。  パティオに続く二重の扉が開かれた。理緒はさっさと中に入っていくが、敷居の上で蒼はためらわずにはおれない。前見たときにも明らかに不吉な翳《かげ》をためていた閉ざされた庭に、いまははっきりと血の匂いがこもっている。この場で再度演じられた、暗い死の匂いが。  それは無論蒼の嗅覚《きゅうかく》に立ち現われた、まぼろしにすぎないはずだった。だが、上天の雲はにわかに晴れたのだろうか。ガラス天井からぼうっとして落ちる月明かりに、蒼は見てしまう。石床に引かれた白いチョークの痕。頭と投げ出された四本の手足の輪郭を描いた、子供の落書きのような白い線。この目で見たはずもない醒ヶ井の白目を剥いた死体が、その内にいまにも出現するような気さえする。あと一歩近づけば彼の生命を奪った一撃の痕跡が、涸れた噴水の縁に赤黒く見えるのではないか。  しかし理緒はまったく無頓着だった。数日前にここで起こったことなど、思い出しもしないらしかった。ためらいもなくチョークの痕を踏んで奥の部屋に入る。ようやく蒼も心を決めて彼女の後を追った。  からっぽの本棚の中段に持ってきた画集を立てると、そのまま一歩下がってライトをゆっくりと動かす。光の中に黎明号の白い顔が浮かぶ。ついで若き日の遊馬歴の、憂鬱そうな顔が。さらには片手で馬の轡《くつわ》を押さえ、鞭を持った片手の人差し指をなにかを指し示すように伸ばしたその姿が。 (あ、れ……?)  蒼はふとまばたきした。いまなにか、記憶のかけらが目の前をよぎった。確かに。 (なんだろう。この絵が、なにか? ──)  しかし理緒と明かりはもう場所を変えていた。寝台の上にかけられた小さな額、いつか深春が即席で訳してみせたスペイン語の詩を照して、じっと見つめている。 「なにかひとつ、ひとつだけ残すとしたら、これだわ……」  独り言のように理緒はつぶやいた。 「私知っているの。おじいちゃまが毎晩、この額に口づけしていたこと」 「この、額に? ──」 「ええ。毎晩ね」  理緒は手を伸ばして、壁からそっとそれを外した。はがきくらいの大きさの紙を収めた、古い白木の額だ。だが確かにその縁の木は、毎日触れられた人の手を思わせる飴《あめ》色めいた色合いに染まっている。 「なにか思い出があったんだね」 「そうね。でもそれもいまとなっては、誰も知らないまま消えていくんだわ」  手の中で額を裏返したとたん、理緒の顔色が変わった。頬に走った赤みは、押さえきれない怒りの色だった。 「なんてこと、あの人は──」  口走った声が震えている。 「どうしたの?」 「見て、裏板が開けられてる。ドライバーかなにかで無理にこじったんだわ」  裏板は止め金を失って、テープで張り付けられていたらしい。それが乱暴に引き剥がされて、しかも板には道具の傷跡がはっきりと残っていた。 「あの人って、誰がやったっていうの?」 「父よ、決まっているわ!」  叩きつけるような理緒の口調だった。 「そんなに憎いのかしら。もう死んでしまった自分の父親が──」  その声にかぶさるように、蔵内のことばが蒼の耳によみがえってくる。 『……なんとまた情けない、みじめたらしい遣りようかとな……』 『……もし理緒お嬢様がそんなところを見られたらば、お怒りになって……』 (聞かなくちゃ、ほんとうはなにがあったのか) 「ねえ、庭に出ない?」  蒼はようやく声を出した。それはかなりうわずってかすれていたが、理緒は怪しむふうもなくうなずいた。  月が雲を出たのはさっきだけだったのか、夜の庭は足元も見えないほど暗かった。海上にも靄《もや》が立っているのだろう、晴れていれば眼前に望めるはずの大島の町明かりもない。ただ静まり返った天地の間に、潮鳴りだけが重く響いている。  芝生の真ん中あたりまで来て、理緒はライトを消した。そうして立っていると少しずつ目が慣れてくる。もう二十歩も前に歩けば土地は大きく落ちこんでいるはずだ。その段差の下の方に、『黎明号の墓』があることになっている。 「そのお墓って、蒼くんは見たの?」 「ううん」  ほんとうは見たどころの話ではないのだが、暗くて顔が見えなくてよかったと蒼は思う。嘘をつくのはどうも苦手だ。 「明日掘るのかしら」 「どうかな。へたに動かすと崩れそうだっていってたから」 「崩れてしまえばいいのよ」  さっきの怒りの残る口調で理緒はいう。 「黎明号の遺骨もサファイヤも二度と見つけられないように、すっかり土の中に埋まってしまえばいい。誰も手出しできないように、永遠に!」 「ねえ、聞いていい?」  蒼は唐突に彼女のことばをさえぎった。 「去年の暮れ、お父さんが自殺未遂をしたとき、乗馬クラブにいたってほんと?」 「──え?」  理緒は体をねじるようにして、こちらを振り返ったようだった。 「ええ、そうよ。でもそのことは蔵内さんにも知らせてなかったから、私はなにも知らないで翌朝家に帰ってしまったの。そうしたら母や姉は下田の病院に駆けつけた後で、そのままもう一度とんぼ返り。──私、そのこといってなかったかしら」  耳に聞こえる理緒の口調にあるのは、ただなぜいまそんな話をという、意外な思いだけだった。少なくともそう感じられた。しかし蒼の口は動いて、胸にため続けていたことばを声にしていた。 「蔵内さんがね、あの朝黎明荘に行ったのは偶然じゃない、女の声で電話があったからだってことを、なぜ警察に話さなかったのか。わかる?」 「いいえ──」 「蔵内さんがいうんだ。それはね、電話の声が君だったからだって」  沈黙は長かった。いってしまった蒼の方が、体が震えるほどに。だがついに、理緒の唇から声が洩れた。 「なん、ですって──」  わななくつぶやきは、次の瞬間叫びに変わった。 「私が、蔵内さんに電話したのですって? 父を刺しておいて? そしてなにくわぬ顔で家に帰ったっていうの?」  蒼は危うくよろめいた。理緒が飛びついてきたのだ。両手が蒼の胸倉を捕え、力いっぱい揺さぶる。 「それを聞いて蒼くん、あなたは信じたの? それを信じて、私を疑っていたの? 疑いながら黙っていたの? そうなの? 答えてよ!」  蒼は答えられなかった。なんといえばいいのかわからなかった。なにもいうなといったのは京介だったが、疑いを抱いていたのは確かに蒼自身なのだから。 「ひどい、ひどい、そんなのってひどすぎる!」  理緒は叫ぶ。 「私はそんなことしない。絶対にしない。いくらママが嫌いでも、いくらパパに腹が立っても、刺したりなんてしない。ましてそれを誤魔化したりなんかしない!」 「ごめん──」  やっと喉の奥から押し出すようにしてそういったが、理緒は逆に掴んでいた蒼の胸を、両手で荒々しく突き放した。また少しずつ月が姿を見せようとしている。涙に濡れた理緒の顔、赤らんだ頬、見開かれてこちらを凝視するふたつの目。裏切られた獣の目。どれほど取り返しのつかないことを口にしてしまったのか、蒼はようやくそれを悟る。  理緒はそれ以上いわず、身をひるがえして駆け出した。だが、二、三歩走ったところで、急につまずいたようによろける。片手を地につく。蒼は放り出されたペンライトを拾って、あわてて駆け寄った。理緒の右手が切れて、赤い血が吹き出している。その下に割れたガラスがあって、ライトにきらりとひかった。ゆがんだメタルのフレーム、眼鏡だ。それも見覚えがある── 「京介の、眼鏡だ」  なぜこんな場所に落ちているのだろう。今日の昼間? いや、違う。さっきブリッジのテーブルについていた彼は、確かにちゃんと眼鏡をかけていた。  理緒が左手で、蒼の膝を掴む。 「なにか、聞こえない? ──」 「なにかって……」 「人の、うめき声みたいな」  蒼は立ち上がった。二歩、前に歩いた。地面がそこで大きく落ちている。二メートルほどの段差。下は丸石と土塊《つちくれ》が折り重なる荒れ地だ。その藪《やぶ》の中に、点いたままの懐中電灯がひっかかっている。 「あそこ……」  しゃがんだままの理緒が指さす。蒼は手にしたライトを向け、息を呑んだ。手足をねじるようにして倒れている人の体。見違えようもない、それは桜井京介だった。   深春《みはる》の告発    1  いつどうやって崖を下りそこまで駆けつけたのか、蒼はほとんど覚えていない。気がつくと目の前に倒れた京介の体がある。ようやく雲間から現われた月の光が仰向いた彼の顔を、地の上にほの白く浮び上がらせている。だがその半顔を黒く染めているのは血だ。大きく口を開けた額の傷からは、地面に滴《したた》るほどの血がいまも流れ出している。 「──蒼くん!」  頭の上から理緒の声が聞こえた。もしかしたらさっきからずっと、呼び続けていたのかもしれない。 「無理に揺さぶったりしちゃだめよ。救急車を呼ぶから、そのまま少し待っていて!」  揺さぶったりなんかしていないといおうとして、まさしく自分の手がそれをしていることに初めて気づいた。蒼はようやく自分のものでないような手を、京介から離す。  理緒の足音があわただしく遠ざかっていく。だが救急車といっても電話のある場所までは、走っても五分はかかるだろう。せめて血止めくらいしたかったが、ポケットにはハンカチもなかった。額にかかった髪をそっと上げると、京介は低くうめいて顔をしかめたが目は開かない。伸ばした自分の手がどうしようもなく震えている。芝生に落ちていた眼鏡、藪《やぶ》まで飛んでいたライト。京介は疑いもなく、誰かの手で突き落とされたのだった。 「左額の裂傷は縫っておきました。骨には達していません。ま、少しくらい傷跡は残るかもしれませんがね」  以前遊馬灘男も収容された下田の総合病院の医師は、ごくあっさりと断言した。 「あとは後頭部のこぶと左足首の軽い捻挫《ねんざ》だけです。心配はありません」 「でも、昏睡《こんすい》が続いてるっていうのは──」 「脳波にも異常は出ていませんからね。昏睡というよりはただの睡眠ですな。だいぶ疲れがたまってたのじゃありませんか?」 「少し、睡眠不足だったかもしれませんけど」 「それならまあ、ゆっくり休ませてあげましょう。なにか変わりがあったらちゃんとご連絡しますから」  というわけで救急車につきそっていった蒼と理緒は、医者の前を追い出された。ガーゼと包帯でぐる巻きにされた痛々しい京介の顔も、ただ眠っているだけといわれると、こちらは昨夜ろくに寝られなかったのにと、腹立たしいような気分もしてくる。いずれにせよ病院にいて、彼のためにできることはない。 「どうする、蒼くん。先生はああいったけど、桜井さんが目を覚ましたときのために、下田にいた方がいいのじゃないかしら」 「とにかく一度戻るよ。深春も心配してるだろうし」  それに、京介を突き落とした人間があの中にいるはずなのだ。 「誰か、知らせなければならないご家族は?」 「──ううん」 「だったら蔵内さんに電話して、後を頼んでおきましょう。こちらで入院するとしたら、下着やタオルもいるはずだし」 「お世話かけます」  蒼がおとなしく頭を下げると、理緒はなにかいいたげにこちらを見て、少し笑った。  熱川の別荘に戻ると遊馬家の人々が、リビング・ルームに落ち着かなげな顔をそろえている。時刻は二十八日土曜日の、すでに正午近い。 「桜井さん、具合はどう?」  蘇枋が心配げに声をかける。理緒が答えた。 「脳波に異常はないのですって。いまは眠っているわ」 「そう、良かった」 「それにしてもいったいどうしたのよ、彼は。なにをねぼけてあんな場所でころげ落ちたわけ?」  朱鷺の口調は相変わらずだが、それでも案じてはいるのだろう。 「いずれにしても桜井さんがそれでは、この集まりも無駄になったようね。私は帰らせてもらいます」  立ち上がった明音はすでに着替えている。 「姉さんも帰るでしょう。横浜まで乗せていくわよ」 「ええ──」  静音がうなずいて腰を浮かす。そのとき、玄関に通ずるドアが開いた。入ってきたのは深春だった。 「ちょっと待っていただけませんか。あと一時間だけでもお付き合い下さい、社長」  有無をいわせぬ口調で外へ向かうドアを背に立った深春は、右手に持っていた紙切れを前に突き出した。 「まずこれを見て下さい、皆さん。桜井は別にひとりで月夜の散歩としゃれこんだわけでも、突然夢遊病の発作に取り憑かれたわけでもない。誰かに呼び出されたんですよ。いまこの屋根の下にいる、誰かに」  それは四つにたたんだB5のレポート用紙だった。開くと定規を使って書いた、不細工な文字が並んでいる。『コツツボノナカニサファイヤハナイ、ホントノアリカヲワタシハシッテイル、十ジ、レイメイソウ、ハカノミエルバショ、ライトヲツケテマテ』  その文字──蒼は危うく出かけた声をこらえている。理緒に送りつけられてきた白磁の馬の宛名書きと、筆跡をごまかしているなりにそれはそっくりなのだ。ではあれをしたのは、少なくとも醒ヶ井ではない。にもかかわらず馬のものらしいかけらが彼のポケットに入っていたのは、なにを意味するのだろう。 「これが我々の寝室の、机の上に置いてありました。たぶん桜井の服のポケットにでも、入れてあったのでしょうがね。これを見て黎明荘の庭で、馬鹿正直にライトをつけて立っていた彼を、誰かが背後から襲って崖下に突き落としたんです。  おまけにもうひとつ他愛ない小細工がありました。崖下の小石の上に蝋燭の燃えた痕があった。たぶん突き落とされる直前のあいつは、その火を見つけてそれに注意を奪われていたに違いない。そんな人間の背後に忍び寄るのは、誰にとっても大して難しいことではなかったでしょうよ」  理緒も字の同じことはすぐに気づいたらしい。さすがに声を上げることもなく、ただ顔を強ばらせて渡された紙片を見つめる。と、明音がいきなり手を伸ばした。荒々しくその紙を床にはたき落とすと、叫んだ。 「馬鹿馬鹿しい。私たちの誰がそんなことをするというんです、あなたは。あの人を突き落として、いったいなんの得があるというんですか。それに私たちはずっとここで、ブリッジをしていたんですよ。それはあなたが一番よく知っているはずでしょう!」  しかし深春は落ち着き払って、びくともしない。 「さあ。それはいろいろ考えられるのじゃありませんかね」  にやりと薄気味悪い笑いをもらすと、明音の背後に押し黙っている遊馬家の人々を威《おど》すようにゆっくりと眺める。 「たとえば確かに皆さん方の内の四人は、ブリッジをしておられた。桜井がリビングを出ていってから、変事の勃発が知らされるまで。だが、ではその間誰ひとりテーブルを離れなかったかというと、そんなことはない。コントラクト・ブリッジをやる場合には珍しいことでもないが、ダミーに回ったおひとりの方はけっこう席を外しておられた」 「ちょっと待ってよ! そりゃ確かに私たち、着替えとかお茶をいれにとか立って動いたりしてたわよ。でもここから黎明荘まで、車で片道五分はかかるわ。往復十分に歩く時間を足してどんなに短くても十五分。そんなに長いこと続けて姿の見えなかった者がいた?」  朱鷺が大声で抗議する。 「それに、車を動かせばエンジン音が聞こえたはずですわ」  蘇枋もいう。 「昨日の夜は波の音が聞こえそうなくらい静かでしたもの。誰でも裏に止めた車を出して、ここで聞こえないわけはないでしょう」  深春はあっさりとうなずいた。 「それはおっしゃる通り、と申し上げておきましょう。どっちにしろ共犯者がひとりいれば、それで済むことですからね」 「共犯ですって?」  朱鷺がふたたび声を上げた。 「止めてよ、いったいうちはいつからマフィアになったの。へたくそなミステリでもあるまいし、電話一本で人殺しを請け負うような便利な知り合いなんていやしないわよ」 「人殺しなら、その通りでしょうね。でもそれが例えば、どこへでも口をつっこむ目障《めざわ》りな男に、少しばかり痛い目を見せてしばらく口のきけないようにする、といった程度のことならどうです。崖といっても落差はたかだか二メートル足らず。下は土だ。額を切ったのもたまたま石に当たったからで、それがなければ捻挫か打ち身がせいぜいでしょう。本気で殺すつもりなら、だれもあんなことで済ませるわけがない。──もっとも」  深春は意味ありげに一度ことばを切る。 「共犯者の存在がどうしてもお気に召さないというのなら、それでもいいんです。リビングにいた皆さん以外にも、充分すぎるくらい時間をお持ちの方はおられますからね」  珊瑚の顔が上がる。顔が怒りに赤く染まっている。杉原静音は姪とは逆に、いよいよ深く顔をうつむけてしまう。 「いいかげんにして下さいな、あなた」  明音はゆっくりと大股に足を運んで、深春の真正面に立った。 「これ以上そんなたわごとにおつきあいする義務はありません。そこをおどきなさい。さもないと警察を呼びますよ」  すると深春はたじろぐふうもなく、すっと体をずらして扉の前からどいた。そうしておいて低く、だが部屋中のだれもがすっかり聞こえる声で、ささやいた。 「いいんですか、遊馬明音さん。あなたがお帰りになるなら、俺はこのまま静岡県警に直行します。そして醒ヶ井玻瑠男殺人事件に関する有力情報を、彼らに提供しますよ。犯人はあなただというね」    2  蒼はいまにも明音が、火のように怒り出すものと思った。しかし彼女の顔からは、逆に血の色が音立てて引いていった。表情さえぬぐうように消えて、明音はまるで亡霊のように青ざめたままじっとその場に立ち尽くしている。深春は扉を離れてゆっくりと前に歩き出したが、明音はさっき彼を睨《ね》め付《つ》けた場所に呪縛されたように動かない。 「杉原静音さん」  深春の声は静かだったが、彼女は電流に打たれたかのようにびくっと身を震わせた。 「顔を上げて、眼鏡を取って下さいませんか。杉原さん」  静音はなおも肩を震わせていたが、のろのろと眼鏡を外し頭をもたげる。肉の落ち、深い疲労に刻まれた女の顔が、悲しげに深春を見返した。 「わかって、しまわれたのね」 「姉さん!」  突然明音が背後から鋭い声を上げた。 「なにもいわないで。いうことなんかないわ。私はあの男を殺していないんだから!」  深春はゆっくりと振り返ると、京介が移ったような皮肉な口調でいう。 「往生際が悪いんですね、社長。それじゃ俺がここで、全部しゃべらなければならないんですか?」 「いいたいことがあるなら、いえばいいでしょう。好きなだけ!」 「わかりました。それでは俺たちをわざわざアリバイの証人に仕立てて下さった、そのお礼もこめて話すとしましょう」  広いリビング・ルームの真ん中に立って、深春はゆっくりと一座の人々を見回す。それこそ黄金時代のミステリの、名探偵のように。 「まずお断りしておきましょう。残念ながら俺は代理人です。本来ならここでこうしてしゃべっているべきは俺ではなく、病院のベッドにいる桜井京介のはずだった。その彼の口をふさぐためにこそ、昨夜の事件は仕組まれたのだと俺は信じます。それはともかく、わかっているだけの手札を開くとしましょう。まことに遅まきながらの解明、というより事件の解説でしかないかもしれませんが。  醒ヶ井玻瑠男はこの一週間前、黎明荘のパティオで死体となって発見された。発見者は電車で熱川に到着された遊馬明音さん、蘇枋さん、熱川で出迎えた蔵内老人の三人。死亡推定時刻は同日の午前十時から十二時。関係者の中で確実なアリバイをお持ちなのは、発見者でもある遊馬さんおふたりのみだった。  醒ヶ井氏の死体からは彼の事務所と住居の鍵が盗まれていて、死体発見以前に両所が荒された形跡がある。ところが奇怪なことに、持ち去られたのは膨大な量のカセットテープだけだった。さらに後の調査で、黎明荘の前に止めてあった彼のベンツからも、テープが一本残らず持ち出されていることがわかっている。これが事件のおおよその輪郭です。  失礼ながら遊馬明音さん。あなたには、というより関係者の中ではあなただけが、醒ヶ井氏と対立する動機をお持ちのように思われた。とはいえアリバイは完全でした。十一時に東京の銀座にいた人が、十二時までに伊豆の熱川で人を殺すことはできない。といって殺人を請け負って後腐れなく済ませてくれるような、便利な共犯者がいるとは俺も思わない。東京で殺した醒ヶ井を伊豆へ運ぶことも考えましたが、それでもまだ共犯者の役割が大きすぎます。結局そこで俺の推理は行き詰りました。  ただ、俺が得た事件に関する情報の中でたったひとつ、あなたの行動で納得の行かないことがあった。それは遊馬さん、あなたが醒ヶ井氏の死体を見て取り乱し、警察官の印象にも残るほどの愁嘆場を見せたということです。あなたという方に対して俺が持っていた印象と、それはあまりに食い違った。もしあなたの醒ヶ井氏に対する感情が非常に強いものであったとしても、他人の見ている前で泣きわめくようなことはあまりに不自然だ。しかも実際にその目で死体を見てから、警察が駆けつけるまではそれなりの時間もあったでしょうに、あなたは殊更のように捜査官の眼前で取り乱されたのですからね。  通常ある犯罪を犯した犯人は、現場を逃げ去るときに自分の指紋を消したり、毛髪を拾ったりしてその痕跡を消そうと努めるようです。だが否応なくあるべき他の指紋まで拭き消すことで、逆にそこに作為が存在したことを知らせてしまう、ということも当然あるわけです。しかし極めて大胆な犯人がいて、犯行時の自分の指紋を消すのではなく、逆に後からつけたものの中に紛らわせてしまおうと考えたら、どうでしょうか。  醒ヶ井氏の立っていた椅子が殺意を持って引かれたなら、そこには必ずや犯人の指紋が残されていたはずです。争いがあったら髪の毛の一本や二本、落ちていて不思議はないでしょう。しかし警察の鑑定能力をもってしても、椅子にしるされた指紋が犯行時のものか、あるいはその数時間後に取り乱した発見者によってつけられたのか、毛髪はいつ抜け落ちたのか、そんなことを判定するのは不可能なはずです。あなたの警察官の前での愁嘆場が、そうした作戦の元に実行されたトリックであったなら、それならわかると俺は思ったのです。  もちろんそれは当初から、予定されていた行動ではなかったでしょう。醒ヶ井の殺害が実行された時点で、初めの計画にはすでに狂いが生じていた。あなたが彼を殺さねばならなかったほんとうの理由、彼から奪わねばならなかったものを、彼は身につけていなかった。車の中にもそれはなく、あなたは大急ぎで現場を去らねばならなかった。沼津で空巣の真似をされた後、ようやく現場に残した痕跡にまで思いのいたったあなたは、大胆きわまりない方法でそれを解決されたのです。  つまりあなたは脅迫されていたのですね、醒ヶ井に。表沙汰にしたくない音声が録音されたカセットテープをかたに、彼は黎明荘の権利でも手に入れようとしたのでしょうか。その録音がなんであったかは、想像するよりありませんが──」 「──栗山さん、とおっしゃいました?」  微かに震える老いた女の声が、深春のせりふをさえぎった。静音だった。 「それくらいになさって下さいな、お願いいたしますから」  いつも低く伏せていた顔が、いまはまっすぐに立てられて深春を見つめている。その隣で両手を膝の上で握りしめ、頭をじっと垂れている明音とはちょうど逆に。 「ここまでの俺の推理、どこか間違っていますか?」 「当たっていますよ。ただひとつを除いては」  淡々とした口調で静音は答えた。 「明音は醒ヶ井を殺してはいません。この子が黎明荘に行ったとき、すでにあの男は床に倒れて死んでいたのです」 「ですが杉原さん、あなたはそこにいたわけではありませんね。なぜってあなたはその時間、銀座のオフィスで俺たちの前に座っておられたのだから」  血の気の薄い唇が、ふっと微かに笑う。 「それほどへたなお芝居でしたかしらね」 「どういたしまして。助演女優の奮闘もあって、すっかりだまされていましたよ。ただいくらファッションのことなぞわかりそうもない男三人を相手にされるのでも、黒いパンプスを履かれたのは失敗でしたね」  深春がそこまでいうのを聞いて、やっと蒼はそれを思い出す。あの日、風邪をひいたといって口元にハンカチを当てて、ほとんどしゃべらなかった『遊馬明音』。きちんとセットして明るい栗色に染めた髪と、目を射るほどあざやかな朱色のスーツははっきり覚えている。そして確かに記憶をたぐれば、そう、靴は黒かった。それ以外のいつでも明音は、靴とスーツの色をちゃんと合せていたのに。 「俺はこれでも写真をやっているので、人の手や足のかたちにはけっこう敏感なんです。昨日姉妹おふたりで歩いてこられるのを見て、背格好はとてもよく似ておられるのに、足のかたちが違うのに気がついた。それからやっとあの日の、おふたりの入れ替わりがわかったのです」 「ええ、あなたのおっしゃる通り、私の足は幅が広いんです。服は明音ので間に合いましたし、髪は自分で染めてセットしましたけれど、靴だけはどうしても色の合うのが見つけられなかったんですよ。かといってああいう明るい色のスーツでなくては、あなた方の目をごまかせないでしょうしね」 「じゃ、すべてお認めになるんですね?」 「明音が醒ヶ井を殺したという、それを除いては」  杉原静音はきっぱりといい切る。 「栗山さん、これだけは申し上げておきますが、あの醒ヶ井という男はとんだ卑劣漢でしたよ。これまでさんざん杉原と遊馬の世話になっておきながら、自分が勝手に広げて失敗した事業のためにやくざにまで追われるようになって、とうとうその恩を金に換えようとまで考えるような人間です。そんな男の呼び出しになど、応ずることはないと私はいいました。けれど明音はまだ話し合いで、解決できると考えたのです」 「それにしてはずいぶんと手間暇をかけた、巧妙な入れ替わりでしたね」 「決して人には知られたくないことでしたからね。とにかく私は不賛成でしたが、協力することにしました。でも明音が黎明荘に着いたとき、あの男は死んでいました。誰に殺されたのでもなく、ひとりで椅子から落ちて。なにを欲かいて家探ししていたものやら、死ぬまであさましい男でした。天罰というものがあるとしたら、まさしくそれです」 「ではあなたは、あれを事故だといわれるのですか」 「そうです、事故です」  深春はふたたびことばをはさもうとした。だがそれを押さえて静音は続けた。 「考えてもごらんなさい。醒ヶ井は明音を脅迫していたのですよ。いったい脅迫者が自分の獲物を前にして、重ねた椅子の上に立って話をするなんてことがありえますか? それともまさかあなたは、明音が大の男の足を掴んで頭を水盤の縁に打ち当てたとでもいうつもりなのですか?」    3 「あー、疲れた。やっぱり名探偵なんてなあ、俺のがらじゃねえよ」  大きな図体をベッドの上にころがして、深春がぼやく。 「だいたい犯人てのは、真相を指摘されたらそれで恐れ入りましたってなるもんだろ?」 「ミステリならね」  隣のベッドの上から、蒼は無愛想に答えた。睡眠不足がいまごろ利いてきて、頭が重い。 「さもなきゃ全然真相じゃなかったのさ」 「ちぇっ。脅迫はされてました、入れ替わりはしました、空巣の真似もしました。でも殺してはいません。そんなのが信じられるかよ!」  結局遊馬明音は、深春の追及にもまったく答えようとはしなかったのだ。代わって姉の杉原静音が、ひとかけらの激情もあらわにすることなく、 「明音はあの男を殺していません」  おっとりと繰り返す。 「信じられませんね」 「でもそれが事実ですもの」  静音の声はあくまで穏やかだ。 「それで栗山さん、あなたはどうなさるおつもりなの? これから警察に行かれて、いま私たちにした話をなさる? でも、そのつもりなら最初からそうなさってもよさそうね。なにか目的がおありなのかしら。けれどあなたは醒ヶ井のような男とは違うわ。そうでしょ?」 「俺があなた方に、金を要求するとでもいわれるんですか」  かっと顔を赤くする深春の反応を、あらかじめ読んでいたというように、静音は品の良い顔を微笑ませて首を振った。 「だから違うでしょうといいましたのよ。きっとあなたは明音が罪を認めて、自首するだろうと思ったのでしょうね。それは半分はあなたのやさしさ。でも半分はほんとうのところ、ご自分の推理に確信が持てなかったから。違います? だって、私と明音の入れ替わりを見抜かれたのは確かにご慧眼《けいがん》だけれど、それ以外のことはすべて推測、証拠はなにひとつないのですものね」 「くそッ、見抜かれてらあ!」  深春はまたぼやいた。 「これまで明音の裏に隠れてたのに、あの婆あ、とんだミス・マーブルだぜ。こんなものしかけといても、なんにもならなかった」  深春はポケットからイヤホンのコードをずるずると引っ張り出す。 「なに、それ」 「盗聴器」  すると昨日の夜リビングにいた彼は、ウォークマンを聞いていたわけではなかったのだ。 「そんなもの持ってきたの? ずいぶん手回しがいいんだね」 「なにか役に立つかと思って借りてきたのさ。明音と静音が並んで歩いてるのを見て、足のかたちから入れ替わりに気が付いた。そこで静音の寝室にしかけといたんだが、ろくな話は出やしなかった」  つまらなそうにその機械を放り出して、 「それにあそこまでつっこんでいきゃあ、遊馬灘男がなにか反応しないわけはないと思ったんだよな。静音にじゃまされていえなかったけど、明音が脅迫されたネタは醒ヶ井との不倫だってことはもう見え見えなんだから」 「なにかって?」 「そりゃあおまえ、自分の腹を刺したのは女房だったと告白する、とかさ」 「じゃ、蔵内さんが聞いた電話の声は?」  深春は絶句した。ものの一分間。それからいきなりベッドの上に起き上がる。頭を両手の指でひっかきまわす。うめく。そしてまた、ばたっと倒れた。 「──止めた」 「止めたって……」 「どうせ俺の頭あ、京介みたいにゃ働かねえ。どうにか筋が通ったと思うと、またどっかにほころびが出てきちまうんだ。探偵は探偵でも足と体でかせぐ方が似合ってらあ。へたな考え休むに似たり、だ」  いいながらふたたび起き上がった深春は、床に放り出してあったブルゾンに腕をつっこむ。財布を確かめる。 「どこ行くの?」 「下田総合病院っていったよな。大した傷じゃねえんだろう。あの馬鹿叩き起こしてくらあ。せっかく舞台だけ整えといて、演出家が留守じゃあ集めた俳優が散っちまうぜ」  いつもの蒼ならすぐ跳ね起きて、ついていったに違いない。だがやはり疲れていたのだろうか、体はとうに半分眠っていた。そして階段を下りていく足音が消えない内に、意識は眠りの中にすべり落ちている。──    4  夢だった。蒼は馬に乗って駆けていた。すぐ隣にもうひとり、並んで馬を走らせる者がいる。顔はわからない。影に包まれた、だが夢の中の蒼はそれが遊馬歴だと知っている。すでに死んだ人だということもちゃんとわかっているが、少しも恐いとか変だとかは思わない。それも夢だからだろう。  遊馬歴がいきなり片腕を前に伸ばした。手にしていた鞭で前方を指している。その指す先に見えるのは、あれは黎明荘に残されていた肖像画、若き日の歴自身の姿だ。しかもそれは絵ではなかった。白い馬の姿は見えなかったが、黒い燕尾服に身を包んだ青年はその足で大地を踏んで立っていた。絵のポーズそのままに、左手は軽く上げて馬の轡を押さえ、鞭を持つ右手はそのまま下に垂らして、伸ばした人差し指が足元の大地を指し示しているかのように──  いや、たしかにその手は地面を指しているのだった。これを見ろと。夢の中で蒼は目をこらす。なにか文字が書いてある、そんな気がする。黒ずんだ血のしたたりに隠されていても、視線を斜めにすれば絵の具の微かな凹凸が見える。いや、見えたはずだ。あの最初の晩に。L……U……N……  だが闇よりも暗い大地は、いつか生き物のようにざわめき動いていた。風に吹き散らされる砂丘の風紋のように、かすかな文字はたちまち消え、それだけでなく若き歴の立ち姿さえもが黒い砂の波に呑まれて消え、代わって風にえぐられた大地の中からなにかが現われようとしている。白い、半ば骨と化した人の体のようなものが。  それは埋められていた死体なのか。それとも、まだ生きているのか。そうだ。動いている。もがいている。髑髏《どくろ》と変わらぬ顔を痙攣するようにゆがめ、肋《あばら》の浮いた胸を反らすが体は地の中から起き上がることができない。右腕がわずかに上がる。下半身を埋めた土を掻くように動く。ぞっとするほどのろい、絶望的なまでに緩慢な動き。その指が、なにかを土の上に書こうとしている。アルファベットの文字を。  蒼は目をそらそうとした。顔をそむけようとした。できなかった。目をつぶることさえも。見ろ。なにものかが命ずる。いや、おまえはすでに見たはずだ。思い出せ、それを。この地に描かれた文字を。埋められた亡者の顔、それもまた遊馬歴の顔だ。印刷インクの闇の底で、なにかがひかっている。きらきらと、きらきらと。  次の瞬間、夢の空間は真っ赤に染まった。──  蒼は跳ね起きた。ベッドの上だった。熱川の丘の上の貸し別荘、その二階の寝室。部屋は暗い。深春の姿はない。あれから何時間経ったんだろう。家の中は、誰もいないように静まり返っている。  それでも足音を忍ばせて、床の上に立った。昨日から着たままのジーンズのポケットに、黎明荘の鍵束が入っている。理緒から預かってそのままになっていたのだ。  リビングには誰かいるようだった。階段の上から首を伸ばすと、ぼそぼそした話し声が聞こえた。玄関からは出られない。しかし階段を這うように下りて、靴だけは持ってまた二階に戻った。廊下の端にある外階段は裸足で下り、そこから走り出す。  すでに夜中が近いのだろうか。満月から三日を過ぎて欠け始めた月が、木の間高く上っている。今夜の夜空は晴れているのだ。その月明かりが足元に、くっきりと影を落とすほどに。  蒼は走る。黎明荘に向かって。道の半ばまで来て初めて、ライトの用意を忘れたことを思い出したが、いまさら戻る気にはなれない。一刻も早く確かめなければ。あの、夢の啓示を。あれが正しいのだとしたら、事件の根本の真相はとっくに示されていたのだ。それも二百年近くも昔の、ひとりの画家の手によって。  鉄門を開け、玄関の扉を開き、パティオへ通ずる二重のドアを引き、ようやく蒼はその場所に到達する。汚れたガラス天井を貫く月の光に、薄青く照された中庭とその奥の、洞窟めいた暗さをたたえる部屋。醒ヶ井の死体の位置を示すチョークも、いまさらに蒼を脅かしはしない。  蒼はまっすぐに小さな書架に近づいた。歴の蔵書『THE WORKS OF GOYA』は昨夜理緒がそこに立てたまま、こちらに黒い背を見せている。それを手に取ってパティオに出る。中表紙を開いた最初のグラビア、地に描かれたGOYAの文字を指さすアルバ女公の像だ。いつか京介が長々とこの絵のことを話して聞かせたのは、遊馬歴の肖像画とのポーズの類似に気づかせたかったからかもしれない。確かに歴の人差し指は、自然に手を垂らしただけよりは意識的に伸ばされている。その指の先にはなにが書かれているのか。いまはしたたり落ちた血痕がそれを隠している。  だが夢の中に続いて現われたのはそれではなかった。夢の啓示といっても、見てもいないものがそこに現われるわけはない。目にしながらその意味も分からず見過ごして、忘れてしまっていた記憶。それが蒼を呼んだのだ。  一度本を閉じ、膝に立てる。自然に開く。幾度となく同じページを開けていた本に、癖がついたときのように。  見開きに大きく印刷されたモノクロームの銅版画だった。余白に飛び散ったワインの染みが、赤く、まるで血しぶきのように見えた。そしてページの綴じ目には、鋭くひかる粉のようなもの。これがあの、割れたグラスの破片なのだ。倒れた遊馬歴の周囲に、飛び散っていたというボヘミアン・グラスの。  蒼は息を詰めて版画を凝視した。ゴヤの手になる版画集『戦争の惨禍』の六十九番。さっき夢に現われたそのままの図柄だ。暗い大地の中に下半身を埋められ、すでに半ば骨と化した男が、苦悶に身をよじりながら地の上に書きしるす。『虚無《NADA》だ!』と。  そして遊馬歴は、彼が床に倒れてから死にいたるまでの短い時間に、おそらくはこの絵の中の亡者さながら苦痛にもがきながら書き残したのだ。犯人の名を。こぼれ落ちたワインをその指につけて。版画の中の文字『NADA』にひとつの丸をつけ加えることで。『NADAーO』──灘男。 (戻らなけりゃ──)  水に落ちた猫のようにぶるっと体を震わせて、ようやく蒼は思う。夢に引きずられるように、なにも考えずにここまで来てしまった。これからどうすればいいのか、とにかく向こうに戻って、考えるのはその後だ。  閉じた本を胸に抱えて、立ち上がろうとした。だができなかった。崩れた膝が床を打つ。それからようやく頭に加えられた、打撃の痛みが届く。 (殴られた? ……)  それさえもが夢の続きであったかのように、蒼の意識はふたたび闇に落ちていった。   虚無という名の子供    1  小さな赤い光の点が、目の上で呼吸していた。ふうっと暗くなって、ぽっと明るくなって、またふうっと暗くなる。その繰り返し。体の右側が冷たくて固い。でもその反対側の頭は、熱くて痛い。  ズキン、ズキン、ズキン── 「気がついたかね」  声がした。聞き覚えがある、でも嫌いな声だ。感情の死に絶えたみたいな、ざらりとした耳触りの声。  頭を動かしたとたんズキッと痛みが走って、それでようやく目がはっきり開いた。ぼんやりと明るいガラスの天井。そこから下がっている灯の点かないランプ。そして見下ろしている、男の顔。  蒼は飛び起きようとした。だがなにかに引き戻されたように、背中はまた後ろに落ちている。両手首が腰の後ろで固く縛られているのだ。無理に上体を起こそうとすると、尚更頭が痛んで胸がむかついた。 「すまないね、痛い思いをさせて。だがどうか勘弁してくれ給え。君にあばれられでもしたら、いまの私には押さえられそうもないんだ」  床の上に横倒しになったまま、蒼は吐き気をこらえて目を上げる。目の前に、食堂からでも持ってきたらしい椅子を逆さに置き、その背もたれに腕と顎を乗せる自堕落な姿勢でたばこを吸っている男。病人めいた鉛色の顔にそれでも薄い笑いを浮かべた、遊馬灘男。 「君もきゅうくつだろうが、しばらくそのまま我慢していてくれないか。そう長いことではないからね」 「──なにを、する気?」  すると突然彼は笑った。声を上げて。 「決まってるじゃないか、君。物語もいよいよ大詰めだ。凶悪な真犯人は罪を悔いて自殺するのさ。すべての犯行を自供した遺書を残し、このいまわしい館に火を放ってね。私の罪をあばいてくれるはずの名探偵がリタイアしてしまったのは残念だが、彼の復帰を待つこともあるまい。  おあつらえ向きに蔵内の部屋には、使い残しの灯油がたっぷりあった。鉄筋といっても内装には木が使われている。『金閣寺』とまではいかなくとも、けっこうはなばなしい炎が上がることだろう。幸い類焼を心配する近所もない場所だ。私だって人生の終わりくらいは、せいぜい派手にやりたいものじゃないか」  そういい放って彼は、なおも高らかに笑い続ける。まるで自分を鼓舞するかのように、奇妙にしらじらしい芝居がかった声をたてて。 「それじゃあなたは、自分が犯人だっていうの? お父さんだけじゃなくて、醒ヶ井を殺したのも?」  灘男の端正な口元が引き攣れた。 「ああ、そうだ。私がした。不思議はないだろう? いくら愛情などない夫婦でも、寝取られ亭主にされるのは嬉しいものじゃない」 「だったら、お父さんを殺したのはなぜ?」 「なぜだって?」  蒼の問いに灘男は反問した。青ざめた顔が目の上で不気味にゆがんだ。 「わからないとでもいうのかね、これを見た君が!」  灘男は床に落ちていた本を、爪先で荒々しく蹴り飛ばした。 「私の名前はNADA、つまり虚無だ。生まれたときからあの男によって、私という存在は否定され呪詛《じゅそ》されていたんだ!」  自らの激情に突き動かされたかのように、灘男は立ち上がっている。見開かれた目は物に憑かれたようにひかり、手にはいつか片刃のナイフが握られていた。 「ごらん。このナイフは私が君くらいの歳に買ったんだ。父を殺すために。そうさ、私はいつだってあの男を殺したかった。殺さなければ殺される。虚無という自分の名を人が口にする度に、いや自分自身が意識する度に、私は殺されていくんだ。少しずつ少しずつ。それくらいなら、父を殺すことができないなら、いっそ自分の手で自分の命を終わらせてしまいたい。そう思ったことも幾度あったか知れない」  椅子を押しやった灘男は、かすかにふらつく足を踏み締めて蒼の顔の上に立った。 「そうとも、君にはわかるまい。君のように健やかな、だれからも愛されて育ってきたのだろう少年などには。生まれたときから我が親に呪われて、存在を否定されて、生きてくるよりなかった人間のことなどは」  ナイフを両手の間でもてあそびながら、彼は暗くつぶやく。 「死ぬのは少しもかまわなかった。命に未練などなかった。だがそのことで父が喜ぶかと思えば耐えがたく不快だった。もしあの男がほんのひとすくいでも私に、親めいた情愛のそぶりを見せれば、私はすぐさま喜んで死んだことだろう。私が死ぬことであの男が嘆き、己れを悔いることがあるのなら、それだけで死ぬ意味は充分すぎるほどだった。  しかしそんなことはあり得なかった。あの男の私を見る目といえば、いわば自分が地に吐いた汚物を眺めるのと変わりなかった。どれほどあいつの胸倉を掴んで、声を限りに問い質《ただ》したかったか知れない。そんなにいらない子供なら、なぜ生んだ、なぜ育てたのだと。だが私は尋ねなかった。なにをいまさら聞くことがあるだろう。答えはあの男の表情の中に、いや、そもそも私に与えた名の中に尽くされているではないか。『虚無』と。君などには、わかるまい。そんな男を親と呼ばねばならなかった、人間の気持ちが」 「でも、いまになって? ……」  灘男の死人めいた顔が、ゆっくりと下りてきた。立っていることに耐えられなくなったのか、彼は蒼が倒れているすぐそばの床に腰を下ろしていた。 「いまになって、か。そう、確かにね。実をいうと私自身、いくらかは思いがけなかった。もしかすると私の殺意は、このまま私の体とともに墓に入るのかとそう思いかけていた。生きながら地獄に落ちているような人生でも、長らえて五十年も経てば未練めいたものも生まれるらしい。だがそれは違った。父に対する憎悪、憤怒、殺意、私の中ではなにひとつ消えてはいなかった。静かに降り積もっていただけでね。その堆積を突き崩すには、ただ二言三言の口論で充分だったのさ」  乾いた笑い声が短く彼の唇をもれる。 「ありがたいことに、父は最後まで父だったよ。私が悔いねばならぬようなことは、なにもなかった。倒れて口もきけないと思ったのに、こんなところに私の名を遺していくのだからな。それにしても片付けたはずの本が、なんでまたここに戻ってきているのか──」  さすがに不審げに眉間を寄せたが、 「まあいい。いまさら私には関係もないことさ。君、いつまで寝ているつもりだい。鍵はどこにもかかっていない。火事のまきぞえになりたくなかったら、立って逃げることだ。しかし悪いが手助けはしないよ。すべてがきちんと片付くまで、私も体力を節約しなくてはならないからね」  いい捨ててゆっくりと腰を上げる。その背を目で追った蒼は、すでに壁際まで運ばれているオレンジ色のポリタンクを見た。 (いま逃げたら、だめだ……)  もし蒼が起き上がってここを逃げ出せば、彼はすぐさまそれをぶちまけて火を放つのに違いない。 (時間をかせがなけりゃ──)  深春は下田に行ったにしても、あれからもう何時間か経っているはずだ。戻ってきて蒼と灘男が姿を消しているのに気づいたら、きっと探しにきてくれる。それまでは。  いくら動かしても手首のいましめは弛《ゆる》まない。それでも縛られたままの手を床に押しつけて、蒼は上半身を起こした。 (ことばを選んで、語調は静かに、驚かせすぎないように、京介がやるように) 「でも遊馬灘男さん。ぼくは知ってるよ。あなたはすべての犯人なんかじゃないってこと。お父さんを死なせたときだって、あなたにはちゃんと共犯者がいたはずなんだから」  ポリタンクに向かって歩いていた、灘男の足が止まった。彼は振り返った。    2 「去年の八月十五日、あなたがなんの用で黎明荘にお父さんを訪ねたのかは知らない。でもお父さんがわざわざ蔵内さんまで遠ざけたところから見て、きっと重要で深刻な話だったんだろうね。そして口論になったあげく、あなたはかっとしてお父さんを突き飛ばして、彼はそのまま倒れて動かなくなってしまった。あなたの意識にとっては殺人かもしれない。でも客観的に見れば事故だ。せめて蔵内さんがいてくれればそれで済んだだろうに、彼が東京に行かされていたことで、あなたはたったひとりでお父さんの死に立ち合うことになった。そして自分を父親殺しと考えずにはいられなくなってしまったんだ。どう。ここまでは合っている?」 「君がなんといおうと、私があの男を殺したことに変わりはない」  灘男は顔をゆがめ、噛みしめた歯の間から吐き捨てるようにいう。その右手にはナイフ、左手にはライターがすでに握られている。 「でも、その先が違うんだ。たぶん呆然として立ち尽くしていたんだろうあなたを、ここから連れ出して、熱海で東京行きの最終のこだまに乗せてくれた人がいたはずだ。床に落ちたグラスのかけらを二客分とはわからないくらい拾い上げたり、そのゴヤの画集を片付けたりしてくれたのもその人だよ」 「違う」  口疾《くちど》に否定して彼は首を振る。鉛色の顔から、さらに血の気が失われている。 「でもその人の助けがなければ、あなたは東京に帰ることはできなかった。あなたは十二時過ぎにはちゃんと、松濤の家に戻っていたんだから」 「タクシーを使ったんだ」 「その可能性を考えて、熱海のタクシー会社には当たってもらった。でもそれらしい人は、いまのところ見つかっていない。もしあなたが単独犯行を主張するなら、その晩あなたを乗せた運転手を探さなけりゃだめだ」  それにね、と蒼はことばを継いだ。ゆっくりだ。できる限りゆっくり。 「あなたをそうやって熱海に送った人は、グラスのかけらと本はそのまま車に乗せていたはずだ。グラスはどこかで捨てたのだろうけど、本はそう簡単に処分するわけにもいかない。焼いたり、ばらばらにしているほどの時間もない。結局そのまま持っていくしかなかった。修善寺まで。そして取り敢えずあなたの書斎に置いておいた。スペイン文学者の書斎にスペイン画家の画集。なんの不思議もないものね。だからその晩のあなたの共犯者は、修善寺の杉原家別荘にいたはずの人、まずそれだけはいえる」 「…………」 「それからあなたはたったひとりで、この黎明荘に住み着いた。やっぱりお父さんがほんとはどんな人だったのか、なにを考えて暮していたのか、知りたかったんでしょう? そのためにお父さんが遺した本や書き物を探って、なにか手がかりがないかとベッドの上の額の裏まで開けてみたんでしょう?  でもそのころ黎明荘のあちこちを探っていたのは、あなただけじゃなかったとぼくは思う。パティオや庭にあったたくさんの植木鉢をひっくり返して、土の中をあさったのはあなたじゃなかったはずだ。あなたが欲しかったのはお父さんの真意に関する手がかりで、サファイヤなんかじゃなかったから。たぶんその人は、もっとほかのこともしたんだろう。蔵内さんがハイカーの仕業と勘違いしたような、ポーチの敷石を剥がしてみるとか、芝生を掘ってみるとか、そんなことも。  それがあなたにとって、ゆかいなことだったかどうかは知らない。でも結果的にあなたは黙認するしかなかった。事後共犯者に対する遠慮として、たぶんそうなんだろうね。それでもあなたとその人との緊張は次第に高まって、十二月二十八日の傷害事件になったんだ。  自殺なんかであるものか、その人があなたを刺したんだよ。でもあなたは、半ば死ぬ気でその人をかばった。ナイフの柄についているだろう指紋を消すために、傷から引き抜いたそれを血だまりに落とした。そして最後までその人の存在に口をつぐんで、蔵内さんのところにかかった電話さえ否定し通した。ねえ遊馬灘男さん、それがあなたのその人に対する、愛情の示し方だったんでしょう?」 「あれは私がしたことだ。自殺未遂だ」  灘男は切り捨てるように答える。 「警察もそれで納得した。君のいうことはただの憶測にすぎない」 「でも、あなたはそのときあの絵を洗っていたはずだよ。黎明号と遊馬歴の肖像画を、たぶんこのパティオの床に横たえて」  これが最後から二番目の切り札。助けはまだ来ないのだろうか。 「その証拠にあの絵の上に垂れていたあなたの血は、立てかけてあった絵に飛んだものじゃない。平面に上からしたたったときの、丸くてまわりに細かく飛沫の散った痕だ。それにあの部屋にスポンジとバケツと中性洗剤があったことは、警察の記録にも残っている。そんなことをしている最中に、急に自殺を図る人がいるなんて、ぼくにはとうてい信じられない。でもその絵をはさんで争いがあって、今度もまた一種の事故としてそれが起こったとしたら、その方がずっとわかりやすい仮定だと思う。  あなたなら、ゴヤの描いたアルバ女公の肖像画を洗浄したら、『SOLO GOYA』の文字が現われたという話を知っていて不思議じゃない。それにあの絵のポーズはアルバ女公と似ている。右手が地面を指さしているように見える。いまはあなたの血痕で隠れている画面に、なにか文字が現われたのじゃない? でもそれはあなたの共犯者にとっては、サファイヤの在りかを示すように思えたんだ。そして、例えばナイフを持ったその人が絵を切り開こうとして、あなたがそれを止めようとして」 「その人、ね」  灘男は低くつぶやきを返した。 「さっきから君は『その人』ということばを繰り返しているが、それが誰だかということはわかっているのか?」 「わかっているよ」  最後の切り札。これを開いてしまえば、もう蒼には持ち手がない。 「その人は、八月十五日の夜に修善寺にいた。車の運転ができる。見慣れていない者には一見遊馬理緒と間違えるような後ろ姿と声を持ち、しかも彼女を妬《ねた》んでいる」 「理緒を、妬んでいる──」  それは灘男にとっても、意外な思いのすることばだったかもしれない。彼の細い眉が吊り上がり、ついで探るような目つきになった。 「たぶんここから先は、あなたも知らない話なんだ。その人はサファイヤを探していたのだろうけど、向こうの寝室に並べられた誕生祝いの馬たちを見ている内に妬ましくていられなくなった。それでおそらく衝動的に、大した意味もなく一番新しい白磁の馬を持ち去ったんだ。馬がなくなったのは歴氏の死から、あなたが黎明荘を去って蔵内さんが戻ってくる間のことで、あなたでない以上あなたに出入りを黙認されたその人以外、それをできる者はいないんだから。  醒ヶ井を殺したのもその人だよ。あなたはそのことは知っているはずだ。でもその罪まで被《かぶ》って、ここで死んでいくつもりなんだね。それはあなたの罪滅ぼし? 父殺しを手伝わせてしまったことへの? それとも家の中で誰にも愛されなかった娘への、同情みたいなものなの──」  蒼はことばをとぎらせた。遊馬灘男の左手が、胸倉を掴んで引きずり上げている。ライターが床に落とされたのは気づいたが、しめたと思うほどの余裕はもはやない。 「どうやら君を逃がしてあげるわけには、いかなくなったらしいな──」  さっきまでまったく血の気がなかった彼の頬に、嫌な赤みが射し上っている。自分の体をまっすぐに支えるさえ危うかったはずなのに、掴まれた胸を振りきることもできない。 「それはすべて君が考えたことか? それともあの桜井という男が」 「だったら、どうするの」  必死でもがいた背中が水盤の縁に当たる。弓なりにそった体の上に、灘男の体重がかかってくる。そして彼の右手にはナイフ。 「ぼくを殺したって、どうにもならないよ。いくら殺したって、ほんとうのことは隠せないよ。だから止めようよ、もう。あなたは人殺しなんかじゃないもの!」  しかしいま満面を朱に染めて蒼の上にのしかかっている、灘男の表情はまさしく殺人者のそれだった。乾いた水盤に押しつけられた蒼の喉を、その左手が折れよとばかり掴んでいる。もう声はでない。息さえできない。 「いいや、いまさら止めるわけにはいかない……」  聞こえてくる声すら奇怪にしわがれて、すでに別人のもののようだ。人はこうしてある瞬間、ただの人間から殺人者に変身を遂げるのだろうか。 「私という人間が生まれてきたことが、そもそもの間違いだったんだ。父が名付けたように私は、そもそも生まれてくるべきではなかったんだ。その間違いを訂正するには、死ぬしかない。父の遺産ともども、我と我が身をこの世から抹殺してしまうしかない」  にっと歯を剥いて、彼は笑った。灘男の顔はすでに、此岸《しがん》の人のそれではなかった。 「火がすべてを清めてくれるだろう、燔祭《はんさい》の火が。天に届くほどの生《い》け贄《にえ》を屠《ほふ》る火が」  うっとりと彼はつぶやく。ついに蒼の唇から恐怖の悲鳴がもれた。だがそれはかすれた笛の音ほどの音にしかならない。灘男の目がひどくゆっくりと、手の下に捕えた蒼に向いた。不気味なほど白目が大きく見えた。 「そうだ。君をいまこの手で殺せば、私も正真正銘の殺人者になれる。そうなれば私が遺してきた遺書の信憑性を、疑う者もいなくなるはずだ。それが、一番いい」  なにがいいもんかと蒼は叫びたかった。だが全身が痺れてしまったようで、声も出なければ体もろくに動かない。上体が乗せられた空の水盤はまるで生け贄の台のようだ。目を開けても遊馬灘男の、憑かれたような顔しか見えるものはない。 「だいじょうぶ。じっとしていてくれれば、あまり苦しくないように殺してあげる。さ、いい子だ、目をつぶって──」  ほんとうはつぶってしまいたかった。だがそれだけが最後の砦《とりで》なことを、蒼は理性ではなく本能で感じていた。すでにナイフは彼の右手で、高々と振りかぶられている。同時に喉を押さえた左手の指が、血管の位置を探るように動いている。  すっと、灘男が音たてて息を吸った。  ナイフが動いた。  だが次の瞬間、彼の背からまばゆい光の束がはじけた。  殺到する足音──  悲鳴──  怒号──  蒼の体を押さえていた腕が、突然消失する。床に向かって放り出されたのを、しかし別の二本の腕がしっかり掴み止めた。 「生きてるか、こら、アオネコ。なんとかいえ、この馬鹿ッ!」  深春の髭面が唾のかかりそうな近くでわめいている。答えたかったが喉がつぶれて、なんにも声が出ない。ただ腰の抜けそうな安堵感の中で、蒼はそのまま気絶してしまいそうだった。 「どうしてひとりで出かけたりするんだ、おまえは。それならせめて置き手紙くらいしとかんか。まったく、もう!」  深春はまだわめいている。水のコップが口にさしつけられた。縄をほどかれてもまだしびれた手を上げ、震える指で掴み、音立てて呑む。喉が猛烈に痛んだが、呑むのは止められない。コップが空になってやっと蒼は、それを渡してくれた相手に気づいた。 「京介……」 「無事で良かった」  消毒薬の匂いがする。額をガーゼと包帯でぐる巻きにされた桜井京介は、前髪も眼鏡もない顔で微笑んでいる。 「──無事でも、ないけどね……」  しかし京介はその頭をちょっと傾けて、ひとつの方向を示す。蒼は振り返った。そこに遊馬家の人々がいた。蔵内老人もいた。茫然と座りこんだ灘男に抱きついて泣きじゃくっているのは、珊瑚だった。 「ごめんなさい、ごめんなさい。パパ。あたしがみんな悪いのに、ごめんなさい……」    3  泣くだけ泣いてしまうと、珊瑚は落ち着きを取り戻している。 「あたし、明日になったら自首します」  しゃんと背筋を伸ばして家族らを見つめると、きっぱりとした口調でそういい切った。 「みなさんには、いろいろご迷惑をおかけいたしました」 「いいえ、珊瑚。警察に行くのは私だけで充分」  明音だった。珊瑚は信じられないことばを聞いたように、目を見開いて母を見上げる。その娘の前に立って、しかし視線は伏せたまま彼女は続けた。 「醒ヶ井に脅迫されていた私が、偽のアリバイを作って黎明荘に行ってみたら、彼は自分で椅子から落ちて死んでいた。それで筋は通ります。沼津の事務所を荒したのも私のしたことだとわかったら、あれが他殺である理由もなくなるんですから」 「でもお母さん、そんなことをしたら疑われるのはあなただわ」 「いいじゃないの」  明音は初めて目を上げて娘を見つめ、微笑んだ。 「私が殺していたかもしれないんだし」 「お母さん!」 「もとはといえば私の過ちだったのだし、あんな男のためにおまえの未来を汚したくないのよ」  珊瑚はいやいやするように顔を振った。蘇枋が脇からそっと妹の肩を抱く。 「ありがとう、お母さん。そういってもらえただけで、どれだけ嬉しいか知れない。そんなこと、全然期待していなかったもの──」 「珊瑚……」 「でも、やっぱり、自分の責任は自分で負わせて下さい」 「ねえ、珊瑚。でも私まだよくわからないのよ。あなたほんとうのところ、なにをやったわけ?」  朱鷺が蘇枋とは逆の側から、妹の顔を覗きこむ。珊瑚はちょっと顔を強ばらせかけたが、思い直したように、 「そうね。警察に行ったら赤の他人に、なにもかも話さなけりゃならないのよね。あたしたちの家のことなのに、聞きたいのはむしろみんなよね」  自分にいいきかせる口調でいう。 「いいですか、お父さん」  灘男はパティオの隅で椅子にぐったりとかけたまま、顔も上げようとはしない。 「いいですか、お母さん」 「好きなようになさい」  明音は少し微笑んだが、やはり疲れきっているように見えた。 「お祖父さんが死んだあの晩、あたしがここに来たのはもちろん偶然じゃなかったわ」  珊瑚は話し出した。 「うちの電話、ときどき内線と外線が混線するでしょ? それで偶然パパとお祖父さんの電話を聞いてしまったの。パパは、離婚するつもりだっていってた。だからあたし、遊びにいくふりをして修善寺を抜け出して、ここに来たの」 「あなたが弁護士と会っていたことは知っていました。あの晩は私も修善寺を出て、別の弁護士と話していたんです。姉さんにはそのときも、嘘をつかせてしまったけれど」  明音が半ば独り言のように口をはさんだ。灘男は頭を垂れたままなにもいわない。  それから先の経緯は、蒼が灘男に聞かせた筋書とほとんど違いはなかった。葬儀が済んで、灘男が黎明荘に移り住んでからのことも。 「あたしはサファイヤを探したわ。だってそれが遺されているとしたら、権利は誰よりもパパにあるんだって思ったし、それがあればパパもお金の心配をしないで離婚できるだろうって思ったから。  理緒の馬を盗んだのもそのころ。ただなんだか悔しくて、うらやましくて。だって蘇枋姉さんは伯母さんにもママにも信頼されているし、朱鷺姉さんは美人だし、理緒にはお祖父さんがいたのに、あたしにはなんにも、誰もなかったんだもの。パパだってあたしが黎明荘に来るのを、ほんとは喜んでないんだってわかってた。だからこそサファイヤをあたしの手で見つけたかったの。──馬壊してごめんね、理緒」 「ううん」  理緒は短く答えてかぶりを振る。 「パパを刺したの、あれは事故だったの。ほんとうに。パパがあの絵を洗っていて、そうしたら地面のところに文字が見えてきて、あたし、さあきっとここにサファイヤの隠し場所が書いてあるに違いないってごしごしこすって、でももうなにも出てこない。それならきっとこの絵の具の下にあるんだって、食堂の引き出しから持ってきたナイフでこそげ取ってやろうとしたの。それをパパが止めようとして、頭がどうかしていたのね、揉み合いになって、気がついたら──」 「珊瑚」  灘男のかすれた声がした。 「もういい、珊瑚。少なくとも警察で、そんなことをいう必要はない」 「では、私に電話をよこされたのは……」  蔵内が気の抜けたような声をもらした。 「あたしよ。今年になってから黎明荘にもぐりこもうとして、見つかって逃げ出したのもあたし」 「なんと、まあ──」  考えてみれば蔵内は遊馬家の他の娘たちとは、最近ほとんど顔を合せたこともなければ声を聞いたこともなかったのだ。他人から見れば似たところがあるだろう珊瑚の声や後ろ姿と、理緒のそれを混同したのも無理はなかったかもしれない。 「理緒」  呼ばれて彼女はハッと視線を上げる。 「これはあんたのものだわ」  珊瑚はトレーナーのポケットから、ビニール袋に入った白い紙を出して手渡す。 「あんたの馬を割ったら、その中から出てきたの。だからあんたのよ。お祖父さんの手紙だわ。意味はわからなかったけど、暗号なんだと思う。でも、わざわざそんなところに隠しておくなんて、やっぱり変な爺さんよね」  理緒はだがすぐそれを開こうとはせず、手にしたままじっと珊瑚を見る。祖父の自分に対する愛情がそれほど姉の妬みを買っていたとは、彼女にとっても胸に痛い事実だったに違いない。 「あたし、きっと罰が当たったんだと思うわ。初めはただ腹いせのつもりで持ち出して、でもいくら盗んでみたってそれはやっぱりあんたのものでしかないんだもの、だからいっそ粉々にした馬を送りつけてやったらおもしろいだろうって思ったの。そしたら中から手紙が出てきて、それがサファイヤの在りかを書いてあるみたいに読めるのよ。だからなんとか探してやろうってここへ来たわ。土曜日。合鍵はパパにもらったままだったから。そしたら」 「醒ヶ井とぶつかってしまったのね」  固い表情で明音がつぶやいた。 「それで、あの男はおまえになにをしたの?」 「取られたの、馬の中から出てきた手紙」  そのときの思いがよみがえったのか、珊瑚の顔にも怒りの色が浮いている。 「外の扉には鍵をかけておいたのにいきなり入ってこられて、なにを空巣みたいな真似してるんだなんていわれて、あたしカッとしてサファイヤのことしゃべっちゃったの。そしたら、無理やり。その上せせら笑われて、パパのこともママのこともいろいろいわれて、でもそれはもう思い出したくない。私はただ取られた手紙が取り返したくて、あいつをだましたの。パティオの軒に載っている瓦をはずすと穴があって、その中にサファイヤが入ってるって。そしてそれを信じて椅子に上ったところを」 「押したの?」 「違う。外で拾った小石を顔に投げつけただけ」  珊瑚は目を上げた。その瞬間をありありと思い出したかのように、緊張に白ぱけた顔で。 「おかしなくらいきれいに、顔の真ん中に当たったわ。ぐしゃっていう音がして、パッと血が吹いて、それから椅子がぐらりとして、なんだかすごくゆっくり倒れていった。あたしほとんど夢中で、ポケットの中身を掴み出して、それから血まみれでころがっていた石を拾って、逃げ出した──」  珊瑚は手を上げて顔を覆う。 「そうよ、あたしが殺したの、あの男を。でも後悔なんてしない──」    4 「それじゃ、醒ヶ井がいっていたカセットテープはおまえが持っていったの?」  明音の問いに珊瑚は顔を覆ったまま、こくんとうなずく。 「聞いたの?」  また珊瑚は、小さくうなずいた。 「そのテープは?」  珊瑚の顔がかすかに動いて灘男の方を向きかけ、またすぐうつむいた。しかしそれだけで明音には充分だったらしい。 「あなた」  がっくりと壁にもたれていた、灘男の顔がわずかに動く。しかし目は開かない。 「あなた。それがお望みなら、離婚いたしましょう。条件はすべて、あなたのおっしゃる通りに」  はじかれるように朱鷺が振り返る。 「それでいいの、明音さんは」 「仕方ないわ、私は少しもいい妻ではなかったもの」 「お父さん!」  朱鷺は声を張り上げる。 「明音さんがいい妻でなかったというなら、あなただって全然いい夫じゃなかったわ。それでいいの? あなたに明音さんを責める資格があるの?」 「──資格?」  灘男の顔が痙攣した。笑ったのかもしれない。 「私になんの資格がある。私は、死人だ。人殺しにさえなれない」  その場にいた全員が、珊瑚さえ顔を上げて灘男を見つめた。確かに、遊馬灘男は死んでいた。父親から虚無という名を与えられた男は。生まれ落ちた瞬間に、その親によって存在を否定された男は。 「どうやら、僕がお話しする番が来たようです」  桜井京介の声が、静かにパティオの内を流れた。   よみがえる聖杯    1  電気を止められた黎明荘のパティオに、当然ながらあたりをくまなく照らす光はない。月は移り、夜明けはいまだ遠く、ガラス張りの天井は青暗い闇に閉ざされている。あるのはただここまで駆けつけてくるときに、手にされてきた不揃いなハンド・ライトだけだ。だが京介は蔵内に命じて探させた蝋燭を幾本か、水の涸れた噴水の縁に点した。また隣の食堂からある限りの椅子を運びこませて、遊馬家の人々に座るよううながした。  いま彼は、音もなく燃える蝋燭のおぼろ明かりを半顔に受けて、パティオの中央に立っている。深春に起こされて病院のベッドを飛び出してきたまま、青いパジャマの上にコート代わりに借りた白衣を引っかけ、足はスリッパ裸足というお世辞にも整ったとはいえぬ服装で。  しかしその素顔は、なにに隠されることもなく晒されている。傷の手当てをした看護婦は彼の異議を無視して、邪魔な前髪をばっさりと切り落としてしまっていた。眼鏡はもとよりない。額を分厚く巻いた包帯の下に浮かぶ、その包帯よりなお白い、象牙を彫り刻んだような顔、背後に深い影をまとって浮かぶその顔には、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた洗礼者ヨハネを思わせる、不可思議な笑みがけぶっていた。 「これから僕はひとつの物語をしたいと思います。遊馬歴という、いまはもはや我々の地上から立ち去ってしまった男の物語です」  前触れの咳払いも会釈もなく、桜井京介は口を開く。ガラスの天井と漆喰の壁と石の床に囲まれた空間を、それはだが絹ビロードの毛並みを思わせるやわらかな響きで満たした。 「しかし僕の話は皆さん方にとっては、かなり風変わりなものになることでしょう。それは僕が皆さん方の知っている、あるいは聞いたことのある彼ではなくて、誰も知らなかった、あるいは語ることなかった彼のことを話そうと思うからです。  では僕はなぜそんなことを話すことができるのでしょう。生前の彼とことばを交わすはおろか、その姿を見たことさえ一度たりとなかったはずの僕が。ただの空想? 口から出まかせ? もちろん違います。僕の話はいつか蔵内さんが聞かせて下さったエピソードと、そしてこの黎明荘そのものの語ったことと、それをおぎなう推理と、それらから成っています。その大半は決して僕だけのものではなく、皆さん方も見聞きしていたはずのことです。  ただ僕はそれを集めて、並べて、おぎなってみました。ちょうどジグソウ・パズルのピースを集めて、ばらばらのままではただの色むらとしか見えないところから、ひとつの絵を復元するようにです」  いったんことばを切って彼は、長すぎるまつげの下から透明な視線を周囲に投げる。いまも固くおもてを伏せたまま、動こうとしない遊馬灘男。父のすぐ脇の床に座って、彼を守ろうとするかに緊張を隠さない珊瑚。落ち着きと穏やかな関心を身にまとって、椅子に腰を据えた杉原静音。そのかたわらで同じように落ち着こうと努めながらも、左手の指輪を神経質に動かし続ける明音。  蘇枋はその母を気遣ってか、京介と彼女に代わる代わる目をやり、朱鷺は逆に他のものは目に入らないというように彼を見つめる。理緒のうるんだ瞳は京介に向いていても、しばしば自分の追憶に流れるかに見え、壁際に立った蔵内は誰よりも激しく、なにひとつ聞き漏らすまいといいたげにその大きな目をぎらつかせていた。 「では始めましょう。どうか皆さんの心からできる限り、記憶に刻まれた偏屈で孤独な老人の姿を消して下さい。そして、十七歳の彼を思って下さい。私たちは誰でも十七歳だったことがある。そのときの気持ちを思い出して下さい。それとさして違いはしなかったはずの彼です。富裕な男爵家の三男坊に生まれて、家の女性たちから甘やかされかわいがられて育った、見るからにおっとりとやさしげな少年。商売にはとても向かないからと許されて、はるか海の彼方英国へ留学に発つこととなった日の、快い高ぶりと不安と自負と緊張に頬を染めた、十七歳の遊馬歴です。  そうして彼は日本から消えた。十年後、一頭の孕《はら》んだ牝馬とともにふたたび横浜の埠頭《ふとう》に姿を見せるまで。その間になにがあったのか。なにがひとりの紅顔の少年を、陰鬱で謎めいて人嫌いな青年に変えてしまったのか。この空白の時代にこそ、すべての答えが隠されているはずです。そしてその秘密が今日の、彼の死後の現在にいたるまでも、皆さん方にまといついて離れぬ、誤解を恐れずにいえば遊馬家の『呪い』の核心なのです」 「ま……」  静音が唇に指先を当ててかすかに声を洩らしたのは、京介の大げさなものいいがおかしかったのかもしれない。だがほかの人々は、息をこらすようにしてそのことばに聞き入っているようだ。 「彼の英国生活はどんなものだったでしょうか。お望みなら当時の記録や文学に残されたそうした若者たちの軌跡を、彼にあてはめてみてもいい。けれどいまは先を急ぎましょう。確実に僕たちが知ることができるのは、彼が渡英後乗馬に興味を持つようになって、そのためにスペインに行きたいと強く希望したこと。さらに実家の許可を待つことなく、その希望を実行に移したことです。彼は単身英国を離れ、マドリッドにおもむき、その地の王立馬術学校に入学しました。  ここで僕はひとつの仮説を、提案しないわけにはいきません。事実としては伝えられていないものの、極めて蓋然《がいぜん》性の高い仮説です。彼の決意と転進は、彼のみでなされたものでしょうか。違うと僕は思います。その背後には僕たちが名を知らない、ひとりの男の存在があった。英国での彼に大きな感化を与え、彼に馬術を生涯の仕事と決意させるほどの影響力を持っていた、その男はスペインの、それも貴族階級に属する人間ではなかったかというのが僕の考えです」 「あら、どうしてそんなこと──」  朱鷺が口をはさみかけたが、京介は指先で触れるような軽い一瞥で彼女を黙らせる。 「なぜなら、そうでなくては彼があえてスペインに渡らなければならない、必然性が乏しすぎるからです。英国で馬術を学ぶことは不可能だったでしょうか。とんでもありません。英国以外であっても、スペインの他に馬術学校のある国はなかったのでしょうか。これもはずれです。現代の我々日本人にとってこそ、乗馬は極めて縁の薄いスポーツとなってしまいましたが、ヨーロッパの国々では馬の実用性が失われた二十世紀にはいっても、乗馬はすたれることない愛好者を無数に持ち続けていました。  遊馬歴はなにも実家の許可を待ってスペインに渡りなどしなくとも、英国にいたまま、好きなだけ乗馬を学ぶことができたはずです。あまりにも学業がなおざりにされればいずれ日本にも知られて、父親から叱りの手紙でも来たかもしれない。それとも、もともと学問的な目的があっての留学でもなかったわけですから、娼婦や女優に入れ上げるよりはよほど健全だと、容認されるだけだったかもしれません。  その当時のスペインは、すでに衰運にある国家でした。ふたつの世界大戦の谷間の時代、古いものが没落し、新しいなにものかを模索してヨーロッパ自体が苦しみもがいているような時代、民族自決という観念が炎のように国々を燃やし、長き歴史を中欧に刻み続けてきたハプスブルク帝国さえついに解体されたこの時代にあって、スペインは未だに外来者たるブルボン家の王をいただいていたのですから。  渡英以前の遊馬歴は、おとなしい受動的な性格の青年だった。そんな彼が親の意思にも逆らい、なんのつてもなしにたったひとりで、同胞もいなければ情報もない、それも衰えかけた異国へ渡るようなことがあるでしょうか。断言してよいと思います。彼は英国で出会い、強い感化を受けたあるスペイン人に導かれて、おそらくはその帰国時に伴われて彼の国へ渡り、その推挙によって栄えある王立馬術学校に入校を許されたのだと。  皆さん方は考えてみられたことがなかったのかもしれないが、一介の外国人がそうした機関に受け入れられることは通常ありえません。学校という名で呼んでもそれは現代の開かれた教育機関とは異質な、本来が王家の栄誉をいやますために、その貴族子弟の教育のために作られたもののはずで、いずれ本国に帰ってしまう異国人を育てることは、なんのメリットもないのですから。  僕が遊馬歴の渡西にスペイン貴族の存在を仮定せざるを得ない理由の、いまひとつはそこにあります」 「そんなこと、いままで考えてもみなかったわ……」  明音がそっとつぶやいたが、その思いは誰にとっても同じだったろう。    2 「さて、時の淀んでいるかのようなスペインにも、ついに変化の時代が到来しました。スペイン革命です。ブルボン家の王はフランスに逃亡し、選挙により選ばれた政府が立って、スペインは連立政権による試行錯誤、やがてフランコによるクーデター、全国にわたる苦痛に満ちた内戦、そしてファシスト政権の長い独裁支配という困難な道程をたどることとなるのですが、それは取り敢えずいまの我々には関わりないこととしましょう。  一九三一年四月のスペイン革命から三四年初頭まで、ほぼ丸三年というもの、遊馬歴の消息は途絶えてしまいます。彼はその間のできごとについて、なにも書き残してはいないし、語ってもいません。ですが推定は可能です。彼をマドリッドまで導いたスペイン貴族は、ここでも当然ながら彼の保護者として動いたことでしょう。革命といってもすべての貴族が自ら特権を投げ出した、フランス大革命のようなことは起こりませんでした。二百年前の大貴族は、いまも貴族の称号と土地と財産を保有して健在を保っている。それがスペインという国です。遊馬歴はその三年間を、彼の導き手であり保護者であったスペイン貴族の許《もと》で過ごしたに違いありません。黎明荘の持つスペイン南部の田舎家めいた佇《たたず》まい、飾りタイルに残された南部独特の風景、そして彼が帰国時に連れてきた白馬。この三つからして彼のいた場所が、広大な南部アンダルシア地方のどこかであったろう、という推測も充分可能なはずです。  断言させていただきましょう。そこで彼は一度祖国を捨てたのです。連絡を取りたいと、強く望めば不可能ではなかったはずです。だがそうなれば帰国しないわけにはいきません。けれど日本に帰って、彼にどんな人生が約束されるというのでしょうか。両親は嘆くかもしれないが、家にはまだふたりの兄もいる。無事だが帰らぬといって怒り嘆かれるよりは、いっそ死んだものとあきらめてもらう方がよい。待つ身探す身にしてみれば、とんでもなくエゴイスティックな考えではあるでしょう。しかし愛され赦《ゆる》されることに慣れた彼の性格からすれば、そう思うのも仕方なかったのではないでしょうか。  そうです。彼はそのとき一生を、スペインに暮す決意をしていたのだと思います。なぜだと聞かれますか? それはもはや、問うまでもないのではありませんか。二十四歳の若者をそんなふうに変えてしまうものといったら、なによりもそれは、恋なのではないでしょうか」 「恋──」 「恋ですって? ……」 「あの人が、恋だなんて──」  異口同音のことばがあちこちから聞こえた。京介は思わず頭に手をやって、照れたような笑いを洩らす。 「これからは少しだけ、僕の想像が多くなります。でもその想像はすべて宙に浮いているのではなく、いわば事実という釘に引っ掛かっています。つまりその程度の根拠はあります。遊馬歴の愛した女性の、本名はわかりませんが愛称は『月《ルナ》』といいました」  あ──と声をもらしたのは珊瑚だった。彼女はことばが見つからないというように、手でもって奥の部屋の方を指す。京介はだがわかっているというのか、ひとつうなずいてみせただけでことばを続けた。 「彼女は彼に尋ねました。あなたの名前にはどんな意味があるのかと。彼が即座にそういったか、あるいはしばらく考えたのかはわかりませんが、彼は答えました。自分の名は『雷』、スペイン語でいえば『TRUENO』だと。戸籍名は歴史の歴、だが彼は自分で名を記すときには、いつも雨かんむりのついた靂を使っています。青天の霹靂《へきれき》、の靂。これも雷を意味する字のひとつですね」 「はい、さようでございます」  壁際から蔵内がいきなり大声で答える。 「なんでも大旦那様がお生まれになった直後に、晴れた空から突然恐ろしいほどの雷が聞こえて、みんな肝をつぶしたのに赤子の大旦那様だけがニコニコ笑っておられたのだとか。ただお名前の文字は雨が縁起悪いというので、歴となさったとうかがいました」  京介は蔵内にうなずいて見せる。 「歴氏の寝台の上にかかっている小さな額の詩、あれはルナが書いて彼に与えたものではないかと僕は思います。十九世紀アンダルシアの詩人ホアン・ヒメネスの『夜明け』。初めはもちろんまだとうてい達者とはいえない彼のスペイン語の、勉強のためだったかもしれない。だがあの詩をくちずさむたびにふたりは、胸のときめきと甘い喜びを覚えずにはおれなかったに違いありません。  TRUENO Y LUNA, 雷鳴と月、歴とルナ、愛し合うふたり」  そういって京介はまた、ちょっと照れたような笑みを浮かべた。 「ですが遊馬歴は、スペインの土になることなく帰ってきました。望郷の思いが恋を越えて? あるいは恋人に裏切られて? 僕はそうは思いません。後に彼の連れ帰った牝馬から生まれた黎明号が死んだとき、彼は自分の否応なく選ばされた結婚を指して蔵内氏にもらしたといいます。これは自分の二度目の葬式だと。では一度目はなんだったのでしょう。ルナの死がそれだったのではないでしょうか。  恋人に死なれてはもはや彼に、スペインにとどまる意味はなかった。日本に戻ってから彼の見せたさまざまな奇行、変人ぶりも、いわば人生に裏切られた男の苦悩の結果と考えれば納得できるのです。黎明号は彼にとって、馬ではありませんでした。愛しいルナの魂を宿した、身代わりでした。だからこそ彼は黎明号の上に牧童が乗ることはもちろん、他人の目に晒すことさえ承知しなかった。馬具をかけることも嫌だったし、自分でさえほとんど乗ろうとはしなかった。その死はまさしく二度目の裏切りであり、弔いであり、最愛のものをふたたび失ったときにようやく彼は、家を継ぐための結婚を承知したのです。おそらくは金で買われた娘が、その身を捨て鉢に投げ出すように」  パティオの隅で遊馬灘男の肩が、ぴくっと動いたようだった。しかし京介はかまわずに語り続けた。 「この黎明荘の奇妙な構造、周囲の部屋を繋ぐ動線の要たるべきパティオを壁で立てきり、海を見下ろす絶好の場所にありながら主室に窓を作らず、ただ薄暗いパティオだけを眺めるこの家は、まさしく帰国後の遊馬歴の心象風景そのものです。彼は明るい日本の海なぞ眺めたくはなかった。その海から燦然《さんぜん》として昇る輝かしい太陽なぞ見たくはなかった。彼はただ自分の思いの中にだけ、閉じこもりたかったのです。  そして黎明号という最後の支えを失ったときから、黎明荘は疑いもなく彼の墓でした。肉体の死を待つまでの長い余生を、耐えるための殻でした。自殺はおそらく禁じられていた。愛した女性はカトリックであったはずですし、彼がその教えを信じてはいなかったにしても、彼女がもっとも忌むべきことと考える自殺によって、彼岸にその魂を追っていけると考えるわけにはいかなかったのでしょう。ですから彼は自分の頑健すぎる肉体を呪いながら、その死を迎えることだけを希望に、生き続けていたはずです。一九七五年の五月までは」  ことばを切った京介の視線は、まっすぐ理緒に向けられている。彼女は戸惑いを隠せぬ顔で、彼を見返した。 「それ、私の生まれた年ですけど……」 「そうです。自分の生き墓である黎明荘を維持し、身についた習慣である馬に乗る以外の、すべてに興味を失っていたはずの遊馬歴が、なぜか理緒さん、あなたには執着した。ご両親の命名権を侵して自ら選んだ名を与え、それ以後ご自身の死にいたるまで慈しみ続けた。それはなぜだったのでしょう」 「それはたぶん、私が馬を好きだったから……」 「確かにあなたはご姉妹の中ではただひとり、乗馬に興味を持たれた。小さいころ馬に乗せられて泣かなかったのも、あなたひとりだったとは聞きました。だがそれではなぜあなたにだけ、彼は名前を与えたいと思ったのか。つまり出生のそのときから、孫の中であなたにだけはそれほどの関心を寄せたのか。考えてみられたことはありませんか?」 「いいえ──」 「誕生日ではないかと僕は思います。五月三十一日、というのが、なにか彼にとっては特別な日だったのです。ルナの誕生日、いや命日だったのかもしれません」    3  しばしの沈黙があった。理緒はほとんど茫然と、与えられたことばを見つめているようだった。やがてその唇から、ぽつりとことばが落ちる。 「それじゃ、祖父が愛してくれたのは私ではなかったんですね。あの人が見ていたのは私ではなく、その昔死んだ恋人の影だったんですね」 「歴氏を許せない、と思われますか?」 「わかりません、そんな、私」  激しくかぶりを振った理緒は、でも、とつぶやく。 「でもいくら祖父の余生が苦しみに満ちていたのだとしても、そして拒むことのできない結婚だったのだとしても、その苦痛を生まれた子供にぶつけるなんてひどすぎると思います。自分の血を継いだたったひとりの子に『虚無』なんて名前をつけるなんて、殺すよりもまだひどいと思うんです!」  京介はすぐには答えなかった。ゆっくりときびすを巡らすと、足を運び出す。そこに放り出されていた、あのゴヤの画集を拾い上げる。 「それに関しては僕は、あまり性急な結論を出したくありません。抗弁したくとも歴氏自身には、その機会は与えられないのですから。だから彼が我々のもとに残していったものから、もう一度その真意を探ってみるとしましょう。  この黎明荘。このパティオに立つ限り、彼の堕ちていた心の闇は否定すべくもありません。いまは電気が点かないためにこれほど暗いのですが、たとえそれがあっても、奥の部屋には電源がひとつあるきりのようですし、この噴水の上に下がっている鉄とガラスの吊り灯にも、電気のコードは繋がっていないようだ。違いますか、蔵内さん」 「あ、はい。さようでございます」  いきなり名前を呼ばれた蔵内は、あわてて大声で答える。 「かたちだけのランプでございます、もともと電気は繋いでございません。といって蝋燭を入れるようなこともありませなんだ」 「ありがとう。──さて、遊馬歴氏が我々に残してくれたものは、この黎明荘だけではありません。たとえばあの肖像画。絵の中の彼が指さしていた文字は、なんだったのでしたっけ、珊瑚さん?」  思いに沈んでいたらしい珊瑚は、はっと顔を上げる。 「──L・U・N・A、『ルナ』です」 「そう。彼は左手で黎明号の轡を取りながら、右手で『ルナ』の文字を指していた。つまり黎明号がルナの身代わりであることを、そのしぐさで示していたのですね。  それから理緒さん、あなたの誕生祝いの中に隠されていた手紙がある。それを読んでみてくれませんか」  さっき珊瑚から渡されたそれを、理緒は片手に持ったまますっかり忘れていたらしかった。いわれてようやく思い出し、ビニール袋の中に入れられた紙片を取り出し、ためらうようにゆっくりと広げる。蒼は首を伸ばして、横から覗きこんだ。手紙というより詩のような、十行足らずの文面だった。   「海から陽の昇るころ   パティオで馬に乗ってごらん   点らない灯が輝き   私の青い月が目を覚ます   いつか 理緒よ   おまえが気づいてくれるなら   私の生もNADAではなかったと   思うことができるのだ      靂」  読み終えてしかし理緒は、戸惑ったように顔を振る。 「意味がわからないわ……」 「あたしもわからなかったのよ」  珊瑚がいった。 「ただ青い月っていうのが、例のサファイヤのことだろうと思っただけ」 「なんだろう、パティオで馬に乗るって」  蒼もつぶやいた。いつか珊瑚から唐突に尋ねられたのも、このことだったわけだが。 「おやおや。君たち三人はいずれも乗馬経験者のはずなのに、こんな簡単な謎々が解けないのかな」  京介は軽く肩をすくめて見せる。 「経験者ったって、ぼくなんか一度しか乗ってないんだよ」 「一度乗れば充分だと思うけどね。理緒さん」 「はい?」 「ここには残念ながら馬はいませんが、熊の肩に乗ってみませんか?」  冗談のような口調でいいながら、肩越しに深春を指さした。 「乗用馬の体高は、およそ百五十から六十というところでしょう。これじゃあ少し低いかもしれませんが」 「じゃ、京介。馬に乗るって馬の高さに乗るって意味なの?」 「馬の有用性は力と速さだそうだけど、『パティオの中で』といわれたらそのどちらも役には立ちそうもない。とすれば後は人間が馬に乗ったとき、一番端的に変化するのはなにか。視点の高さじゃないかな」 「でも……」  理緒は目を上げてほの暗いガラス天井を眺めた。 「百五十センチ上がったからって、ここでなにが見えるんでしょう」 「ぼくが上がろうか」  蒼がいい出したが、理緒は首を振る。 「いい、やってみるわ。栗山さん、すみません」 「いやあ。俺だってこいつより、理緒ちゃんの方がいいですよ」  そんなことをいいながら理緒を肩の上にまたがらせ、よっと一息で立ち上がる。理緒は片手にライトを持って、パティオに向かって突き出た四方の軒を照らす。下から見上げたのでは、その軒と天井の合せ目は見えない。 「なにかある?」 「別になにも。漆喰の壁に天井の梁《はり》が刺さっているだけ。雨漏りの染みがあって。でも、──あら?」  理緒の声が変わった。 「すみません、栗山さん。あちらに動いてくれます?」  彼女は歴の寝室がある東側を指さす。 「そこの軒の上に一枚だけ、タイルが張ってあるんです」 「なんか描いてあるの?」 「ううん、青く塗っただけの無地のタイル。あんなところにつけても、下からは全然見えないのに」 「届くかな?」 「軒がじゃまで──」 「よし、じゃかまわないから、俺の肩に立っちゃって」  少しためらったがバランスよく立ち上がった理緒は、片手で軒の瓦を掴み、腕を伸ばす。 「タイルが外れたわ。穴が開いてる」 「ほんとッ?」  蒼は爪先立って首を伸ばしたが、無論下からではなにも見えない。 「でも、ただの穴よ。壁が向こうに抜けているだけ……」 「だけど、横穴とかないの?」 「なんにも──」  理緒がつぶやき、蒼が失望の声を上げたそのときだった。  あっという驚きの声と同時に理緒が身をのけぞらせ、その足を深春が危うく掴み止める。なにが起こったというのか、しかしその答えは問うまでもなかった。  一筋の光が射し入っている。歴の部屋のカードほどの小さな明かり取りから、いま理緒が開いた高壁の穴へ。そして光はさらに伸びて、パティオの中央高く吊るされたガラスのランプへ届く。  いま、このとき──  黎明荘の前の海から陽が昇ったのだ。ただ一筋の陽の光はふたつの壁を貫いてランプを照らし、点ることなかった灯はいまあざやかな濃い青色に輝いていた。取り込んだ光を内で幾重にも反射させて、燦然と、まるでひとつの巨大な宝石のように。 「まさか──」  見守っていた者たちの口から、異口同音に同じことばが洩れる。 「まさか、その中に?」  人の頭より大きい吊りランプは、梁から下がった鉄輪に掛けられている。だが椅子を踏み台にして、蔵内と深春がふたりがかりで外し下ろした。ブリリアント・カットのかたちに組まれた鉄枠に青色のガラスをはめたかたちだ。だが理緒がひとつひとつ触れていくと、その中の一枚だけが上に抜き取ることができた。  ガラスの内部にもガラスがある。精巧な箱根細工の手箱のようにそれは動き、組み合わされた数十枚のガラスの花弁の中心から、理緒の指はついに取り出した。馬の目よりも大きい、ロイヤル・ブルーの巨大なサファイヤを。それは理緒の手の上で陽を浴び、燦たる輝きを放った。  パティオにいたすべての者の目が、等しくその一点に集まる。時の流れに褪せることも、朽ちることもなかった一顆《ひとつぶ》の青い宝石の上に。 「それがルナの魂なのね……」  朱鷺がつぶやいた。 「あの人はパティオで闇を見つめていたんじゃない。恋人の魂を見守っていたのよ」 「──お父さん」  両手でサファイヤを捧げ持ったまま、理緒は父を呼ぶ。 「これはあなたのものです、お父さん」    4  灘男は目を開けていた。まぶしすぎるものを見るように、目を細めていた。理緒はかまわず前に進み、椅子にかけたままの彼にサファイヤを差し出す。 「これがお祖父様の『青い月』、きっと亡くなられた恋人の形見なのだと思うの。あの人は半世紀もの間、ご自分の思い出といっしょにこの黎明荘でまどろみ続けていたのだわ。でもいまは新しい朝。お祖父様の悲しみも嘆きもみんな終わったのよ。お父さんの名前にかけられた『虚無』の意味も。だってお祖父様自身が、自分の生はNADAではなかったと書き残しているんですもの。そうじゃない?」  のろのろと灘男は首を振った。唇がゆがんだが声が出ない。だが目は理緒が手にしたサファイヤの青に吸い寄せられている。 「僕にもあとひとつだけ、付け加えさせて下さい」  背後から京介がいった。 「あなたの名は『なだお』です。『なだ』がスペイン語の『虚無《ナダ》』なら、『お』もまたスペイン語で考えて悪いはずはない。そう思われたことはありませんか?」  彼は顔を上げ、京介を見返す。その目に初めて驚きが動いている。 「スペイン文学研究者のあなたにいまさらいうべきことでもありませんが、スペイン語の『O』は英語の『OR』、つまり反対の意味のものを並置する接続詞です。歴氏はあなたの名前に、こう意味をこめたのではありませんか。『虚無、もしくは』『虚無、さもなくば』。  我が子に『虚無』という名を与える。それは確かに残酷な行為です。けれど彼の心は迷いながら揺れていたのではないでしょうか。自分のようにすべてを捨てた人間が、なにか意味のある存在を生み出すことなど有り得ないという思いと、あるいは自分の意思とは関わりなく、そこからもなにかが生まれてくるのかもしれないという思いと。このゴヤの版画の中の『NADA』に『O』を書き残されたのも、決して殺人者としてあなたを告発しようなどとしたのではない、ご自分のいまの気持ちが反語の方にこそかかっていることを、あなたにわかってほしかったのではないか。僕は、そう思います」  遊馬灘男はなにもいわなかった。ただ黙って理緒の手にあるサファイヤを見つめ続けた。しかしその彼の目からはいつか、一筋の涙が頬を伝い落ちている。その彼を囲んで遊馬家の人々もそれぞれに目を見交わし、手と手を触れ合って動こうとはしない。不思議に静謐《せいひつ》なやすらぎの中で。すでに朝の光はガラス屋根を貫いて、明るい初夏の光をパティオの内にも降らせている。それはまるで一枚の、宗教画を思わせる光景だった。  ふと蒼が我に返ると、京介の姿が見えない。だが彼は別に、どこに立ち去ったわけでもなかった。なんと彼は眠っているのだった。陽射しを浴びた石床の上に長々と脚を伸ばし、背中と包帯に包まれた頭を白い円柱に預けて、ぐっすりと。一仕事終えた天使のように。   エピローグ 「あらなによ、君ひとりなのお?」  子馬の跳ねるような尻上がりの声が、午後の研究室に響いた。陽当たりの良すぎるのが難点といいたいほどの一枚ガラスの窓を開け放ち、教授の机にだらしなく足をのせて読書にふけっていたのは、桜井京介ではなくて蒼だった。そしてノックもせずにその扉を開けて現われたのは、遊馬朱鷺。いくら天気が良くてもまだ六月だというのに、ボトムは白いサブリナパンツにサンダル、上は真っ赤なタンクトップだ。 「ふんだ、京介じゃなくて悪かったねえ」  蒼がすねてみせると、 「そういうわけじゃないけどさ、彼、今日はなに。この時間は講義?」 「ううん。しばらくあいつ来ないよ」 「え、まさか傷が悪化でもしたの?」  違う違うと蒼は手を振る。 「前髪が伸びるまでは、人前に出たくないんだってさ」  一瞬間を置いて朱鷺が吹き出す。 「やだあ、ほんとにもう。彼ってちょっと病気じゃない?」 「病気だよ、ちょっとじゃなく」  ひとしきりふたりして笑い合ったあげく、真顔に返った朱鷺が、 「でもほんとにいいの? 彼を呼び出して突き落としたのも珊瑚なのに、それは警察にいわなくていいなんて」 「後頭部に硬球がジャスト・ミートだってね。でも当人がいいっていってるんだから、いいんじゃないの。それでなくたって彼女も遊馬さんちも、これからいろいろ大変じゃない」  珊瑚はあの朝母親と伯母とともに、警察に出頭した。普通に考えれば醒ヶ井玻瑠男の傷害致死。未成年だということもあって彼女の名は表には出ないだろうが、遊馬明音の沼津での家屋侵入、窃盗の罪は問われないわけにはいかない。 「まあ確かに大変は大変よ。ジュエリー・アカネにしても杉原学園にしてもね」 「どうするの?」 「取り敢えず明音さんと伯母はそれぞれの地位を退いて、蘇枋姉が学長、あたしが社長になるってことになっちゃったの」 「すごい!」  蒼は目を丸くする。 「朱鷺、社長なんてできるの?」 「ははは。ま、なんとかなるでしょ」  ちょっと疲れたような顔で、彼女はそれでも笑ってみせる。 「会社の方は重役にベテランがいるから、これからたっぷりしごかれるつもりよ。学校の方は蘇枋姉なら心配ないし、ただしょーもない婚約は破棄するらしいけど」 「あの婚約者って、でも学園の理事の息子で静音さんの養子でしょ」 「それがあの軟弱者、伯母が警察に出頭するって聞いただけで逃げ腰になったんですって。そんな男、こっちから願い下げよね。珊瑚の弁護活動もあるし、あたしもこれまで遊んでた分ビシバシ働かされるわ」 「お父さんは?」 「腹膜の手術するんでいまは入院。理緒がつきそって世話してるわ。でもなんか不思議よ。憑きものが落ちたっていうのかしらね、雰囲気がずうっと明るくなったの。自分からぺらぺらしゃべるっていうんじゃないけど、あたしたちの話すの聞いてて、ときどき笑ったりするもの」  では京介がいった通り、聖杯が眠りから覚めて、傷つける漁夫王の傷は確かに癒《いや》されつつあるのだろう。 「一挙に夫婦円満てわけにはいかないだろうけど、どうやら離婚もしないですみそう。理緒もパパが落ち着いたら、また乗馬再開するっていってるし。どうせならオリンピック狙いなさいっていってるの。あの子の馬代くらい、あたしが稼ぎ出してやりたいわ。あ、それからね。これは明音さんから桜井氏に伝言。取り敢えずあなたに対する感謝のしるしとして、黎明荘の取り壊しは中止しますって。元通り蔵内さんに戻ってもらうから、好きなときにお訪ね下さいってことよ」 「そっかあー、じゃみんなめでたしめでたしって感じなんだね」  死んじゃった醒ヶ井氏だけはごめんなさいだけど、と蒼は口に出さないで続けておく。 「君も元気そうね」 「うん。ぼくは元気」 「髭男さんはどうしてるの?」 「深春? 黎明荘のタイル絵でね、遊馬歴が暮した村をなんとか見つけたいってスペインへ」 「もう行っちゃったの?」 「行きたいけど先立つものがないんで、いま必死にバイトしてる」 「あらら、それも大変ね。さあて、あたしも働きに行こうかな。あの美貌をもう一目、見られなかったのは残念だけど」 「帰るの? 来たばっかりなのに」 「あら、嬉しい。別れを惜しんでくれるの」  そういいながらも朱鷺は立ち上がっている。 「私からも桜井氏に伝えといてよ。会社の方が軌道に乗ったら、改めて広告出演の交渉に応じてほしいって。あのサファイヤといっしょに出演してもらうんだから」 「伝えとくよ、なんていうかはわからないけど」 「あはは、じゃあね」  歩き出してから、また急に立ち止まった。 「いけね、すっかり忘れてた。これ、あげてくつもりだったの」  バッグの中から引き出したA2のイラスト・ボードを、朱鷺は蒼の手に載せた。 「けっこう気入れて描いたのよ。社長なんかやらされたら、しばらくお絵かきもできないと思ってさ」  それは能の『石橋《しゃっきょう》』の扮装をした人物の、上半身を真正面から描いた絵だった。背景は日本画調にたっぷり余白を取り、ただ裾の方に赤い牡丹《ぼたん》の作り花が咲いている。金襴の衣裳の片袖を張り、蓬々《ほうほう》と広がる赤頭《あかがしら》の鬘《かつら》をつけ、右手が金を塗った獅子の面をわずかに持ち上げて、そこから覗いているのが紛れもない桜井京介の鼻と唇だった。 「いいでしょ」 「うん。ね、この字はなんて書いてあるの。能の謡《うたい》?」  余白に少し斜めに書き流された草書の墨文字は、当然ながら蒼には読めない。 「違うの。ミスマッチだけどあたしが好きなことばだから、書いちゃった」 「読んでよ」 「彼に読んでもらいなさいよ、じゃあね」  朱鷺はいい置いてさっさと出ていってしまう。仕方なくその晩蒼は絵を抱えて京介の下宿を訪ねた。  相も変わらず本で埋まった六畳の中央に寝ころがって、分厚い本の上にかがみこんだまま彼は顔も上げない。 「いいでしょ、これ」  蒼はその鼻先に、いきなり絵をつきつけた。 「ねえ、この字読める? なんて書いてあるの」  すると桜井京介は伸びかけの前髪の下から一瞥して、ひどくめんどくさそうに答えたのだった。 「何せうぞ、くすんで、一期《いちご》は夢よ、ただ狂へ」 fin.